赤紙ーみいけの年表

昭和39年1月3日
 死の坑底で年越し 生き埋めの3人生還 91時間ぶり 古河鉱業下山田鉱(福岡県)の落盤。  大みそかの夜、坑口に一人立って除夜の鐘を聞きながら涙を流していたTさんの奥さん(30歳)は、「明日は父ちゃんが 帰ってくる。父ちゃんの好きな甘いお菓子を買ってモチも飾ろう」と、10歳と6歳の二人の子の手をひいて足取りも軽く家に 帰った。

昭和39年1月8日
 落盤で5人生き埋め 2人救出 1人死に2人絶望か 北海道の三菱鉱業芦川鉱

昭和39年1月22日
 三川鉱、生産を再開 73日ぶり 順調に出炭

昭和39年2月2日
 三池新労組(6565人)が全炭鉱に加盟

昭和39年2月9日
 三池事故患者専用の療養所あすから開設。120ベッドで主に中程度の一酸化炭素中毒患者を収容治療にあたることになっている。

 初年度の38年度は人員整理が急ピッチで進められたため、労務者数は昨年12月末で13万人を割った。計画よりも2年も早いペース となっている。このため出炭が計画どおりに進まない面も出始めた。しかし、簡単に応募者が集まらず、その対策に苦しんでいる 現状である。通産省としては、こうした石炭各社の求人難を打開するために石炭鉱業を高能率、高賃金の近代産業として確立させ ることが根本だとして、閉鎖している鉱員学校を復活させ、若い人を確保するよう指導する方針である。

昭和39年2月23日
 炭鉱で落盤 3人生き埋め 2人は不明 福岡県嘉穂郡桂川町の麻生産業吉隈鉱業所(1700人)

昭和39年3月1日
 総合エネルギーのなかに占める石油の地位は、ここ数年急速に高まってきたが、39年度からはいよいよ絶対量でもはっきりと 石炭を上回ることになった。

昭和39年3月15日
 "大労組"最後の日。田川市の三井田川鉱労組(2100人)は15日朝、解散式を行った。組合旗は兄弟ヤマの三井三池労組に送ら れ保存される。同労組は昭和21年1月結成され、石炭好況時には組合員17000人を抱え、三井三池労組と並ぶ代表的な炭鉱労組だった。

昭和39年3月30日
 日炭高松(北九州市)で落盤 7人が生き埋め

昭和39年3月31日
 8人の遺体収容 ガス爆発事故 日炭高松

 常磐炭鉱(福島県)で落盤 坑内熱気 はい上がる途中絶命

昭和39年4月18日
 石炭労務者の引き抜きに警告 石炭局長。これは最近の炭鉱の労務者不足から、一部の大手会社が中小のヤマから人手 をスカウトし始め、このような引き抜きが政府が力を入れている中小のビルド山の経営をむずかしくする心配が出てきた ためにおこなわれたもの。

昭和39年4月29日
 炭鉱離職者のじん肺患者 6月から無料診断 労働省の意向

昭和39年5月18日
 国鉄志免鉱業所、閉山へ。昨年10月の閉山通告以来、組合は閉山反対闘争を続けてきた。しかし、昨年末からヤマ元の 組合員の中に配転促進派の勢力が拡がり、組合にとっては33,4年の売山反対闘争とは違い、苦しい立場に立たされた。 ある炭労の幹部は今度の志免の闘争を「親方日の丸の闘争」と評している。閉山が首切りにつながる炭労の戦いとは質的 に違う。そこから配転促進派が生まれたといえる。志免は6月末に75年の長い歴史を静かに閉じ、石炭合理化事業団の手に渡される。

昭和39年6月2日
 宇部興産炭労が分裂。組織問題でもめ続けていた宇部興産炭労(組合員2815人)の内部には、炭労脱退派の再建同志会が 強化されていたが、国会が中心となって1日午後、宇部鉱業所沖ノ山集会所に約850人が集まり、新組合が結成された。組合員は2010人。

昭和39年6月12日
 死者7人 三井砂川落盤事故。北海道空知郡奈井江町の三井砂川鉱業所奥奈井江鉱で11日午後起こった13人生き埋め事故は、 徹夜で救出作業が行われたが、12日昼までに7人が死亡、6人が助かった。

昭和39年6月14日
 "最後の大会" 九州炭労。炭鉱合理化に伴う炭労の機構改革のため、第22回大会が最後の大会となった。九州炭労の 組合員は昭和28年発足当時の15万人から25000人に激減。三池、杵島(きねじま)等の大争議をはじめ炭鉱労働運動史上 中心的な役割を果たした九州炭労の歴史はこれで事実上幕を閉じる。

昭和39年6月17日
 新潟地震 死者・不明38人 家屋全半壊2046戸

昭和39年7月16日
 152人の人員整理を発表 宇部興産宇部鉱業所

昭和39年7月25日
 東海道新幹線が全線開通 東京ー大阪間515�q

昭和39年8月1日
 治療のためソ連へ 三井三池三川鉱の中毒患者9人

 坑内で10人が死傷 激しい出水 押し流さる 福岡県嘉穂郡稲築町 渡辺鉱業稲築炭鉱

昭和39年8月8日
 三池の被災者11人がソ連へ

昭和39年8月31日
 会社側を告訴へ 総評の三池災害調査団

昭和39年9月11日
 一人死に二人絶望 落盤で生き埋め 福岡県嘉穂郡水巻町 日本炭鉱第一鉱業所

昭和39年9月29日
 労務者不足など検討 石炭調査団九州入り。石炭調査団の有沢団長は28日、福岡市で記者会見し、次のとおり語った。
・調査団としてはこんなに早く労務者を減らしたことについて不満だし、もし、計画通りやっておれば今のような事態は 起こらなかっただろうと思っている。
・炭価値上げの要求もあるようだが、我々としては労使双方がどう努力しているかを見たい。

昭和39年10月10日
 東京オリンピック開く 94ヶ国が堂々入場

昭和39年10月29日
 三池事故の捜査終わる 幹部の責任追及は必至

昭和39年11月8日
 三池三川鉱爆発被害者 一年振りに鉱坑へ復帰。爆発事故により一酸化炭素中毒にかかり治療を受けている三川鉱の鉱員約 400人のうち、56人が一年振りに全快、初めて集団で職場復帰することになり、7日三川鉱坑内を見学した。56人の内42人が直 接石炭を掘る採炭係で、人手不足に悩んでいる三池にとっては大きな戦力になると会社は期待している。56人の職場復帰に努 力した同鉱の宮地副長は、「三池労組員が一人もいないのは淋しいが、これを機会に復帰ムードが盛り上がればもっと職場に 戻ってきてくれるものと思う」と言っていた。

昭和39年12月1日
 三池鉱の首脳強化 所長に牛尾常務  三池鉱業所は昨年の坑内爆発以来、すでに1年以上経過しているにもかかわらず上期の出炭は大幅に下回っている。これは 新、旧労組の対立激化や旧労のストなどが最大の原因といわれ、社内では労務管理の強化が叫ばれていた。

昭和40年1月25日
 チャーチル元首相死去。満90歳だった。

昭和40年2月19日
 落盤で生き埋め 4人が死ぬ  福岡県嘉穂郡桂川町 麻生吉隅鉱三坑

昭和40年2月23日
 夕張(北炭)で坑内爆発 死者11 49人不明 重軽傷18人 うめき声、なお残る
 22日午後6時半頃、北海道夕張市丁末、北海道炭鉱汽船会社の夕張鉱業所第一鉱の坑口から約2000メートル奥の採炭現場で 大爆発事故が起こった。180人が働いていたが、102人はいち早く脱出、78人は爆発と同時に立ちこめた炭じんに閉じこめられ た。なお、同炭鉱では、去る35年2月1日第2鉱でガス爆発があり、死者42人、重傷24人、軽傷4人を出している。

 夫は、息子は・・・悲痛な声 坑口埋める家族の群れ

 「第1鉱で事故。家族のみなさん、第一鉱で事故が発生しました。至急集まって下さい」ー22日夜8時半頃、北炭夕張の 炭住街に備えつけた非常用スピーカーが雪の夜の静寂を破った。住宅街から人々が一斉に飛び出した。オーバーコートを 片手に雪の坂道を駆け出す中年の婦人、キャップランプをつけて「右の道を行けー」と叫ぶ男たち。「うちの主人はどう しましたか」「息子はまだ出てきませんか」という悲痛な声が保安係事務所にかん高く響く。心配でゆがんだ顔、顔、顔。 救出班の活動の状況を聞こうと坑口は身動き出来ない人の群れ。坑口前の薄暗い雪の道で、「おとうちゃん」としゃくり あげる子どもの姿が痛々しい。

昭和40年2月23日(夕刊)
北炭夕張爆発事故 坑内の生存絶望視 死者35、不明26人に 救出はいぜん難航 前には夫、今度は息子 身をよじり 取り乱す母親

 昭和35年のガス爆発で夫を亡くした高橋さんは、「私たちは早くヤマを去ればよかったのかもしれない。ヤマで長く暮ら してきた私たちはどんなに危険が待ち構えていても、やはりヤマで生活したいと思うのです。今度息子がいなくなったらヤ マに残るのは夫と息子の遺骨だけ・・・」とくちびるを震わせていた。

 つぎつぎと遺体 小学校も悲しみの休校。爆発の犠牲者を乗せたトロッコが坑口にあがってくる。生きているか、いや、 死んでいる、その次も、その次も・・・。一夜明けた夕張市内は前夜からの雪がやまず、道の両側には3メートルほどの山が 出来ている。市内の交通もほとんど止まった。深い雪の道を事故現場に向かう市民の行列がつづき、市内小・中学校は臨時休校した。

昭和40年2月24日
 死者60、不明1人に 北炭夕張の爆発事故。生きて救出されたのはわずか17人、いずれも重軽傷を負い、北海道では戦後最大 の大事故となった。

救出作業 "残る一人"に懸命 一睡もせず待つ母子。現場は24日午前1時頃には事故発生当時のごった返した面影はなく、ひっ そりと静まりかえっていた。しかし、22日夜から一睡もしないで待っていた妻(45歳)と長男(12歳)らの涙ぐむ姿がポツンと この夜も人気のなくなった繰込場にあった。2昼夜一睡もしない妻の顔は青ざめてげっそり。「僕のお父ちゃんだけどうしたの」 と子供もさすがに泣きだしそうだった。二人は二日目の夜も繰込場に石のようにすわり続けていた。

昭和40年2月24日(夕刊)
北炭夕張 61人目の太田さん 遺体で見つかる
 町の中は黒の幕を張った葬儀用のトラックが慌ただしく行き来し、町外れの火葬場は60人の野辺の送りをする遺族でごった返した。

昭和40年4月9日
 29人死に1人絶望 伊王島鉱で爆発
 日鉄伊王島鉱業所は長崎市港外の西約12キロにある海底炭鉱。昭和15年頃開坑。作業員1360人。中央大手鉱のひとつ。石炭は 良質であるため、それだけ炭じんも多く発火しやすい。

昭和40年4月29日
 三池労組スト 三川鉱の落盤に抗議
 三池労組(3200人)は29日、24時間全面ストに入った。27日死者2人を出した三川鉱の落盤事故に対する抗議スト。会社側は、 三池新労組員7000人が就労しているので影響はほとんどないものとみている。

昭和40年5月27日
 ガス爆発4人死ぬ 北海道の新生駒炭鉱

昭和40年6月1日
 筑豊 山野炭鉱ガス爆発 気づかわれる130人。  山野鉱業〜三井鉱山山野鉱業所が38年10月閉山したあと、第二会社として操業を続けている。従業員約800人。中小炭鉱の 上クラス。三井鉱山時代は赤字ヤマであったが、第二会社となってから黒字経営となっている。

 ガス爆発で10人死ぬ 上尊鉱業ホシイ炭鉱(福岡県)。泣き崩れる家族 炭じんでまっ黒の遺体。

昭和40年6月2日
 山野鉱爆発 犠牲者は236人 戦後第二の惨事に

 炭住街に深まる悲しみ のしかかる生活不安 坑口去らぬ家族  巨大な巻揚げの滑車が回る。その度に犠牲者の遺体が上がる。すがりつくような表情。恐ろしいほどの光る目。社宅の空気 も一変した。整然と並ぶ棟割りの炭住街に入った途端、ただよう線香の香り。「前の家がご主人」「その三軒先が親子二人」 「その筋向かいは兄弟が」。遺族のこれからの生活は苦しくきびしい。負傷者や死体を収容した山野病院は野戦病院のように ヘルメットや地下足袋が散らかっていた。働き続けた看護婦さん達もベンチに座ってうなだれている。一夜明けて運ばれてく る人たちはもう誰も息絶えているのだ。「悪夢です。地獄です」と死者を扱いなれているはずの看護婦さんたちでさえ一様に 言う。死者が多すぎて病院では死亡診断書が書ききれない。

 教室で黙とう 欠席目立つヤマの小学校
 山野鉱の炭住街の子供達が通う鳴生小学校では一分間の黙とう。小さな手をしっかりと合わ祈る子供達。教員室では、新聞 の死亡者名を見ながら「この子も、あの子も・・・」と卒業生の名を数える先生もいた。

昭和40年6月4日
 全遺体の収容終わる 237人 山野鉱

昭和40年6月5日
 全遺族に一律50万円 山野鉱事故弔慰金決まる

昭和40年6月9日
 16歳の死亡組夫 山野鉱 労基法第64条違反の疑い

昭和40年8月26日
 全国高校野球 三池工業高校初出場で優勝 "ヤマの子"晴れの帰郷
 三池工チームに歓迎の爆発

 20万市民の感激が喜びが再び爆発した。それは三池三川鉱の大爆発事故、炭鉱の不況・・・暗くなりがちだった石炭の 町に、「救世主」を迎えた熱狂振りだった。沿道には爆発事故で一酸化炭素中毒におかされた患者たち約300人が看護婦 さんなどに付き添われ並んでいるのが印象的だった。

昭和40年9月21日
 きょう生産再開 苦況を切り抜けた山野鉱。去る6月1日ガス爆発事故で237人の死者を出した山野鉱は、21日から 112日振りに全面生産再開した。事故後の山野鉱は、復旧作業の難航、資金難、遺族対策、鉱員補充難などの問題に ぶつかり、一時は再建が危ぶまれたが、政府、親会社の三井鉱山のバックアップ、労組の協力、また隣接の子会社、 小舟鉱の吸収という非常手段などで苦況を切り抜け、全面生産再開にこぎつけた。

昭和40年10月15日
 三井三池で労組員54人処分。三井三池鉱業所(牛尾達也所長)は、三池労組組合員(3千人)54人に対し、 会社側の指示に従わなかったとして15日から1日の謹慎処分を通告した。これに対し三池労組側は不当労働行為で あるとして今後時限ストなどの実力行使で処分を撤回させると言っている。

昭和40年10月28日
 三池労組 スト突入。新労など逆ピケで対抗。三池労組は、宮浦支部組織部長ら3人の解雇を含む大量処分、新労との差別 待遇に反対して24時間ストに入った。これに対し、三池新労組(7450人)と三池職組(1500人)は、三池労組のピケに対抗し て宮浦鉱正門と裏門に逆ピケを張って新労組員を就労させた。逆ピケ戦術に出たのは三池争議後はじめてであり、三池労組と の対決の姿勢を強めたとして注目された。

昭和40年11月25日
 炭鉱で5人が生き埋め 一人脱出、二人は生存 北海道雨竜郡沼田町昭和の明治鉱業昭和鉱業所

昭和40年12月6日
 炭坑節からフラダンスへ 苦肉の不況対策 温泉生かし観光事業 常磐炭鉱
 常磐炭鉱の手で「ハワイアンセンター」が作られることになった。フラダンスを踊るのは炭鉱のハモニカ長屋の娘さん達 ばかり。楽団員の多くもついこの間までツルハシをかついで働いていた若者たちだ。しかし、ハワイアンセンターの完成を 機に「みだりにお湯を使わせない」ことになり、お湯を取り上げられた地元からは、炭鉱横暴の声も再び強くなってきた。

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