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赤紙ーみいけの年表
昭和36年1月4日
米、キューバと断交
昭和36年1月11日
三鉱連への復帰 三池両組合への呼びかけ
仲介役の西鉱連(西日本三井鉱山労組連合会)は、両組合が対立していることは互いの組合員にとっても不幸であり、
これからさらにきびしくなる炭鉱合理化に備えるためにも両組合の統一を急がねばならないとの見解をとっている。
昭和36年1月14日
差別反対の要求書 三池炭鉱労組、闘争へ
三池労組(6900人)は、昨年12月1日の全面生産再開後、職場で出る組合員の不満の声を集め、会社側の差別待遇に対する
実態を調査していたがその結果を14日発表した。その項目は
1 配置転換にあらわれた差別 2 毎日の配役、勤務振り当てにあらわれた差別
3 賃金配分を悪用している差別 4 残業、公休出勤などに見られる差別
5 あくどいいやがらせ 6 不当労働行為
の六つに分けられている。
昭和36年2月3日
三池離職者の援助、労働省が回答。そのあらましは次のとおり。
1 福岡、大牟田などでハイヤー、運送業など自立営業を希望する者に対する資金援助
2 東京、神奈川などの受け入れ主要県の担当官を現地に派遣して就職相談やあっせんする
3 職業訓練所を拡充し希望者を出来る限り受け入れる
昭和36年2月18日
西ドイツの炭鉱へ60人。西ドイツ政府から炭鉱失業者2000人を雇い入れたいとの申込みがあった。これとは別に今年の
6、7月頃第4次として60人を派遣することで決めた。
昭和36年3月10日
上田鉱業上清炭鉱火災(福岡県田川郡香春町)。戦後最大の坑内事故。71人が死亡、脱出わずか20人。
昭和36年3月16日
福岡県八幡市の大辻炭鉱火災。26人絶望、26人入院。上清炭鉱合同葬の日、福岡鉱山監督部ボウ然。
昭和36年3月20日
河野課長ら2人、82時間振りに遺体収容、父の苦しみを肩に遺体をかつぐ兄と妹。
雨があがった坑口では家族・報道者など100人近い人たちが静かに遺体を待っていた。午後2時7分、まず河野さんの遺体
がスノコに包まれてあがってきた。スノコは、無惨な姿をさらさまいとする仲間の配慮からだ。妻(37歳)、長男(12歳)、
長女(9歳)の3人がスノコに駆け寄った。ポロポロと涙・・・・ヨロヨロと倒れそうになった夫人。それをささえる仲間たち。
もらい泣きが坑口の回りからもれた。坑口にはまだ遺体のあがらぬ24人の家族が立ちつくしていた。
昭和36年3月22日
瓜生所長を最後に24遺体全部を収容。瓜生所長の遺体は夫人の言葉通り一番最後にあがってきた。病院に待っていた夫人
が「おかえりなさい」とかすかに言って頭を下げた。その頃、川村次長の家では夫人が、冷たくなった手に盃を握らせて酒
をついでやっていた。社宅街全体が冷え切ってしまったような夜だった。
昭和36年4月6日
2月の収支黒字。三池の生産は急上昇。
第一、第二両組合の感情的対立はなお解けず、社宅などではいざこざも絶えないが、生産は順調に上昇している。なお、
第二組合加入勧誘は活発のようで、第一側は3月31日の炭労の一斉24時間ストを返上して組織固めに努めている。
昭和36年5月3日
平均年齢上がる炭鉱労務者。炭鉱労務者の平均年齢が高くなってきたのが目立ちだした。昨年末には36.1歳になっている。
数年後には40歳近くになるだろうと見られている。このような傾向を招いたのは、
1 相次ぐ人員整理で他産業に転向のきく若年層が比較的多くやめた
2 この1,2年、新規の採用を行わず、炭鉱直営の鉱山学校もほとんど閉鎖した
ことなどのためである。
昭和36年6月20日
就職難の三池離職者。三池争議中、会社からは「生産阻害者」、組合からは「職場活動家」と呼ばれていた1202人の指名
解雇者はどうなっただろうかー。1202人の指名解雇者のうち組合の統制を振り切って退職した人もあって最終的には1164人
が指名解雇されたのだが、まだやっと291人しか就職していない。
うすれた赤レッテルー労働省の現地相談員すら「三池に行けばつるしあげられる」とはじめは就職相談の出張をいやがっ
たそうだ。組合でもこの点は特に気にかかるらしい。求人側には「労働の熱意を見てくれ」と呼びかけ、解雇者には「自分
の体で立証してくれ」と説き、世間の宣伝を食い止めるのに懸命である。会社の就職課長も「就職した人は予想に反して評
判がよい。新しい勤め先で過激なアクチブになっている人はいない」と言っている。"赤いレッテル"は次第に薄れてきてい
るようだ。しかし中にはもう就職をあきらめている人もいる。「どうせ就職しても三池のモンだと白い目でみられるのだ」
と大牟田で賃金がもらえる緊急失対入りを希望する人もいた。そして将来は一般失対になろうという人たちだ。こうした傾
向を会社は、「彼らがその組織の中で過激な闘争分子になることは明らかだ」と心配している。歴史的な三池争議の落とし
子ーこの人たちの就職をめぐる問題はこれから本当に深刻になりそうである。
昭和36年8月12日
旧労を上回る三池の新労組。昨年3月争議中に三池労組から分裂して以来、組合員数は、新労組6094人、旧労組6085人と
なった。
13日に、旧労組員より4500円高いボーナスが支給されることになっており、さらに新労組は会社再建に協力し生産を上げ
ているとして「団体奨励金」を要求していることが新労組側を有利にしたとみられている。
昭和36年8月13日
東西ベルリン間を閉鎖
昭和36年8月30日
差別排除へ各地に闘争本部、三池中央委を開く。三池労組は30日、大牟田市民会館で中央委員会を開き、約800人が集ま
った。この中で宮川組合長は、「争議後、会社側は激しい差別待遇を続け責任追及をやろうとしている。組合の正当な話し
合いに応じようとせず、宮浦鉱で多数の希望退職を持出すなど露骨な切り崩しを謀った」と激しい口調で訴えた。
昭和36年9月14日
炭労、三池旧労組に24時間スト指令。三池のストは昨年争議終結後10カ月ぶり。新労との差別待遇や会社側の組織介入に反対して。
昭和36年12月1日
日本炭業福住鉱(北海道赤平)で爆発、死者3、不明17。
昭和37年1月30日
福岡県粕屋郡宇美町 新大谷炭鉱、爆発。6人が死ぬ。
昭和37年1月31日
17000トン越す 三池の1日当たり出炭。三井三池鉱業所はさる9日戦後最高の15744トンを出してから10、11と3日間いずれも
15000トンを突破するという記録を打ち立てた。
昭和37年2月4日
西ドイツへ炭鉱離職者、28日に第一陣出発。労務者一行はかなりの高給(月給5万4千円〜6万円)で、ルール炭田の
ハンボルナ鉱業などで3間採炭に従事する。
昭和37年2月16日
石炭合理化 行き詰まる 増産で危機切り抜け
これは石炭業界がカネと時間のかかる合理化計画より安易な増産で当面の危機の切り抜けを狙っているためで、この
まま推移するとこの夏頃には生産過剰は必至だとの見方が強まっている。このような出炭増加や大幅増産計画の背景に
は、これまで曲がりなりにも進めてきた炭鉱近代化の効果が出てきたことと、三池争議、杵島争議などで労組側が敗退
したのをきっかけに"労使協調"ムードが強まったこと、当面は掘れば売れるといった需給関係の好調などがある。
しかし、この夏頃には生産過剰が表面化してこのままでは石炭業界は身動き出来なくなるといった悲観論が強くなってきた。
昭和37年3月11日
崩落、3人死ぬ。北海道の炭鉱。
昭和37年3月28日
落盤、生き埋めの5人死ぬ。佐賀県杵島炭鉱。
昭和37年5月18日
北海道赤平市 豊ノ沢炭鉱で爆発事故。4人生き埋め。
昭和37年6月28日
三池宮浦鉱、連続落盤で3人が死ぬ。
昭和37年7月12日
佐賀県多久市の山口鉱山(従業員1360人)、閉山。
昭和37年7月16日
三井芦別鉱(北海道)でガス爆発。8人死亡、3人は救出。負傷者に16歳と17歳の少年2人。労基法違反で追及。
昭和37年7月30日
福岡県田川郡川崎町の川崎炭業畠中炭鉱でガス爆発、3人死に2人絶望。
昭和37年8月10日
北海道北炭空知鉱業所、5人生き埋め、3人死ぬ。
昭和37年8月13日
太平洋を単独横断。大阪の堀江青年(23)、ヨットでシスコ湾着
昭和37年8月25日
日炭高松(福岡県遠賀郡水巻町)、落盤で3人死ぬ。
昭和37年8月31日
三井美唄鉱業所で生き埋め。4人が死傷。
昭和37年10月18日
北海道赤平の炭鉱、生き埋め2人死ぬ。
昭和37年11月2日
交通警察官増員の一部に炭鉱離職者を採用 首相発言。これに対し他の閣僚から、「ストやデモをやった炭鉱労務者を
警官に採用するのはどうか」との意見も出たが、池田首相は「警察学校へ入校させて十分訓練すればよいと思う」と述べた。
昭和37年11月11日
5人が死傷。福岡県三菱鉱業所、炭鉱落盤。
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