赤紙ーみいけの年表

昭和35年6月16日
 全学連、国会構内に乱入。女子東大生が死亡。負傷400。死因は圧死? 学生らが逃げる際、何人もが 踏んでいったらしい。

昭和35年6月21日
  岸首相、退陣を決意

昭和35年7月5日
 三井三池でまた”海戦”。入構めぐり負傷60人。5日午前3時過ぎ、340人の第2組合員を乗せた中型客船など4隻は、 佐賀県大浦港を出港、午前5時半、南新開縦坑岸壁に着いた。第1組合側は4千人のピケを動員して縦坑入口付近を固め、 警官1500人も出動した。両者は岸壁で小石を投げ合い、第1組合側が花火を打ち上げれば、第2組合側はホースで水をか けるなど十数分間争い、第1組合18人、会社側と第2組合30人、警官隊も12人が負傷した。

昭和35年7月7日
 三池でまた”海戦”。飛び交う石、花火。230余人が負傷。三井三池の会社側は7日午前4時過ぎ、三池南新開縦坑から コウ木、セメントなど坑内資材を運び込むため機帆船4隻で陸揚げをはかったが、第一組合側の激しい抵抗で再び"海戦"と なった。1時間半にわたる投石、花火、放水などで会社と第二組合側に150人、警官隊に24人、第一組合側63人が負傷した。 なお、1隻だけの陸揚げに成功、他の3隻は接岸出来ず引き返した。

 まるで"海の無法者"。警官隊と巡視船の目の前で行われたこの"海戦"は、労働争議というより、"海の無法者たち"が 噛み合うケンカであった。石の雨で坑内帽が割れ、血が頭から吹き出す第二組合員。沖合で会社側の船に乗り移ろうとして 海に落ち込む第一組合員。警官隊が岸壁から「投石はやめろ」と必死に叫ぶが効き目はない。救護所の入口に血の付いた盾 が散乱していた。

昭和35年7月8日
 三池争議に新局面。福岡地裁の仮処分。会社側の言い分通る。争議の仮処分で"執行吏移管"という強い命令が出たのは ここ数年全国でもなかったことである。これで現在ホッパー周辺にピケを張っている第一組合員らはいずれもそのままで は封印破棄罪の対象となる。そうなれば会社、警官隊、ピケ隊三者による激突は避けられまい。裁判所は仮処分決定理由 の中で、会社側の申請した組合側の暴力や生産妨害行為をほとんど事実として認めている。これが三池争議の今後に与える 影響は大きい。

 執行吏の入場阻む。三池第一組合ピケ隊。8日午前10時25分、執行吏がマイクで「ただ今から執行する」と通告。歩いて ピケ隊の中に入ったがピケ隊に取り囲まれたため、公示札を立てることを中止して引き揚げた。

昭和35年7月11日
 最悪の事態に来た三池争議。今度は陸戦の恐れ。仮処分決定。憎しみ深刻化。三池争議の現地大牟田はいまや無政府地帯 に等しい。現地のピケ隊は荒縄を腰に巻き、警察が「用法上の凶器」と認定する1メートルくらいの竹の水筒やプラカード、 パイプを手にした組合員やオルグがタオルで覆面してピケを張り続けている。納得のいく事態収拾が出来ぬ限り「生命の危 険もあえて犯す」という体制だ。これが日本一の組織と統制ある組合を誇る「三池労組」の姿であろうか。土地の人たちで すら三池の名を"無政府地帯"と呼んでいる昨今である。 

昭和35年7月16日
 三池争議いよいよ緊迫。警察の介入やむなし。警察1万人を動員。オルグも続々集結。
 一方、福岡県公安委員会は、労組の抵抗から起こる紛争に備えるため、九州各県および大阪、京都、広島、山口の警官隊 の出動を要請した。約1万人になるものと思われる。

昭和35年7月17日
 17日、総評九州拠点共闘会議は午後0時40分から三川鉱ホッパー前の広場に10万人の組合員やオルグを動員して「安保体制 粉砕、不当弾圧反対、三井闘争を守る大集会」を開いた。江田社会党書記長、宮本共産党書記長、主婦会、全労連、部落解放 同盟など代表が集まった。

昭和35年7月18日
 18日朝、会社側は三川鉱ホッパー周辺に対する「占有移管」仮処分の執行をはかった。しかし、15000人の第一組合側の厚い ピケにはばまれ、会社側のニュースカーはガラスを割られ、午前10時55分、執行を果たすことが出来ず会社、執行吏は引き揚げ た。警察は遠くから見守っていただけであった。

昭和35年7月19日
 福岡地裁大牟田支部入江裁判官は、「仮処分の執行で流血の惨事を起こすことは絶対に避けるべきだ」として警察の意向を 聞いたうえ、両者の弁護士を呼び、和解に乗り出した。
 柏村警察庁長官は18日、第一組合とその支援団体などが現在のような妨害行為をやめない限り、執行吏からの出動要請があ った以上、実力行使はさけられぬ段階になったとして長官談話を発表した。
 全学連主流派は18日、各地方学連を通じ全国の加盟校へ「三池闘争に全力を結集する学生は三池に集まれ」との指令を流し 19日から本部を三池へ移した。

昭和35年7月20日
 中労委、異例の申し入れ。回答、イエスかノー。最終案で事態収拾。一週間、労使と折衝。

 三池を歩いてー「地上最大のピケ」というのは本当かも知れない。高さ約30メートルの三川鉱ホッパーを中にその周囲数百 平方メートルの地域を三池労組員を中心にした15000人が座り込んでいる。石炭を運ぶ高架線が頭上を何本も走って動かぬ貨車。 大きな橋桁。その下はレール。カンカン照りの炎天の下で「三池労組」と白い鉢巻きを上から締めてヘルメットの大群が座り込 んでいる。争議というより野戦場。壕を掘り、土のうを積み重ね、争議と言うよりはまるで野戦の戦場だ。ピケ隊はことごとく 巻いた旗を手に持っている。中身は棒だ。黄、白色の鉄帽を目深にかぶり覆面をし、この暑いのにウインドウヤッケを着込み、 頑丈な靴をはき、首から大きな水中眼鏡。これは催涙ガスを防ぐためだ。隊長はフサの付いた指揮棒を持ち首から笛をさげてい る。指令一つ、笛一つで動く速さはまるで軍隊級である。ここにくるとさしもの400人の全学連もてんで影が薄い。どうして三池 労組がこういう組合になったのかは別としよう。警官隊との間に数回の決戦が繰り返されホッパーの下を奪われても、ピケ隊は 今度は逆襲してくるかも知れない。こう考えると空恐ろしい。日照り続きの大牟田だが、慈雨の代わりに血の雨が降ることは確実 である。

 "白紙委任"迫る中労委。一週間"休戦"。一挙解決目指す。

 会社は"休戦"拒否。役員会で一致。拒否の理由は、裁判所の決定が出ているのに仮処分の申請を取り下げるのでは"暴力"の前 に屈したことになり、これからの法秩序と会社運営が成り立たないなどとしている。
 この朝4時前、警官隊約1万人は仮処分援護のための出動の構えを見せたが、「情勢の変化により」として突如出動を中止、待 機の態勢に入った。

昭和35年7月21日
 三池休戦 会社回答きょうに延期。大勢「受諾」に傾く。炭労は昨夜受諾。

 "あっせん"をみつめて、ヤマの二つの表情。
 第一組合側ー「われわれが勝つに決まっている」として口笛や笑い声も。
 第二組合側ー「中労委のあっせんは受けたくない。申し入れに応じれば三池の再建は出来ない」として中央へ"突き上げ"電報を打つ。

昭和35年7月22日
 三池、全学連・警官隊衝突。重軽傷270余人。大牟田警察署前。
 現地警備本部長は「中労委の勧告をのんだことに対する全学連の不満が爆発したもので、計画的なもの」と語る。
 三池第一組合は「オルグ団のデモ行進で警察側の挑発により多数の重軽傷者を出したのは中労委のあっせんをぶち壊そうとする 会社・警察のたくらみだ」と声明。

昭和35年7月23日
 "ひとり芝居"の全学連 現地報告(入江記者)
 押しかけて”暴走”。総評も内心は迷惑の体。流血を避けるために中労委の申し入れを第一組合が受けると決まると「絶対 受けるな」「戦え」と本部にデモをかけたり、暴走をやりそうな気配はあった。・・・あっせんを目の前にまったく意味のない 流血を起こしてしまったのである。労働者のための血だと言うが結果は逆だ。・・・なんといってもピケ隊の暴力の印象を強め た。全学連が暴走しそうな条件はまだあった。その一つは三池の空気である。・・・「ここは日本だろうか」と思いたくなるよ うな異常な風景もしばしばだ。・・革命の現地にでも来たように全学連はわくわくせざるを得ない。
 ここでは警官隊ほど哀れな存在はない。例をあげよう。
 20日の昼過ぎ、四山鉱の正門前で乱闘と言うより暴行が起こった。第二組合員を支援する全労のオルグ団がニュースカーと バス8台で正門を出ようとすると、第一組合員がゴロゴロと前に転んで停車させ罵った。全労オルグ団が車を降りて説明しよう とするとたちまちこん棒で殴られ重軽傷十数人。そこで警官隊が出動してバスを出させたが、この警官隊に浴びせられる第一 組合員の罵声がひどかった。見物人もいっぱいいて、その中に第一組合員の主婦らしい鉢巻きの一団が警官を口汚くののしった。 「犬、犬ども、なんしー来たか」「馬鹿のごたるつらばして、そのつら、みんな見てやれ」「ホレこっち向いた。犬のつらタイ」。 若い隊員が歯を食いしばり、ののしられながら動けぬくやしさのあまり、コブシを固めるかわりに警棒を振り上げた。その瞬間、 第一組合員はまるで待っていたように「挑発だッ」と前の方が叫んだ。棒を振り上げどっと警官隊に挑みかかった。見物人はサッ と逃げる。横から割って入った総評の幹部らしい連中が必死で止める。「さがれ、さがれ」と組合が警官隊に叫ぶ。警官隊は無念 そうに少し下がる。2時間ぐらい双方対立したまま、その間罵声の浴び通し。「終始これで、泣くにも泣けません」と警官は言った。 「ここではなんでもかんでも警官が悪う言われる。警官をバカにせんと人間じゃなかごついう」とも言った。
 ・・・こうしてこのところ低姿勢つづきの警官隊はうっぷんをこの時とばかり全学連に晴らした感じがある。・・・全学連は いわば招かれざる応援者であった。前に全学連のオルグが来た時、四山鉱の主婦が歓迎会でこう言った。「あなた方はいまは学生 だからこうして応援に来てくれるが、大学を出たら私たちの敵になるんでしょう。それを思うと単純によく来て下さったと言えな い気がする」。闘争と苦しい生活で鍛えられた目は決して甘くない。・・・そんな中に生活の責任もない学生が勝手に飛び込んで、 いらざる乱闘をやったところで誰もほめてくれぬ。はるばる九州までやって来て、とんだ子供ぶりを発揮したというところだ。 ・・・哀れである。

 学生ら27人逮捕。傷害一人の他は全部公務執行妨害の疑い。逮捕者の内訳は、東大駒場寮Y(21歳)ら学生14人、第一組合員4人、 黙秘権行使ではっきりしない者9人。
 第一組合側闘争態勢を縮小。残ったオルグ2200人。なお全学連は35人。

昭和35年7月24日
 警官発砲、主婦がケガ。23日夜、大牟田市の三池社宅で、同所交番の警察官をからかいに来た第一組合員の酔っぱらいを 保護しようとしたことから4,5人が警官と口論、威嚇射撃があり、これを見学していた主婦会員が負傷するという事件が起こった。

昭和35年7月25日
 三池ピケ小屋がら空き。警官隊引き揚げ開始。三池応援警官隊、近畿・中国勢もきょう帰る。

昭和35年8月3日
 三池第一労組教宣部長N(35歳)を暴力行為と強制の疑いで逮捕。去る6月22日、筑後若津駅待合室で船を待っていた 第二組合員や職員ら20数人に「裏切りモン、帰るのか、帰らぬのか」と脅したうえ樫の棒や青竹で殴り9人に重軽傷を負わせた疑い。

昭和35年8月11日
 中労委、三池最終あっせん案提示。その内容は、「会社側は指名解雇を撤回、該当者は自発退職とする」等というもので、 この争議の最大争点である1200人の指名解雇を事実上認めるという、組合にとって極めてきびしい案となっている。

昭和35年8月17日
 総評、炭労の”受諾”を支持。三池現地であっせん案反対総決起大会。三川鉱ホッパー前広場に約1万5千人が集まった。
 苦悩の三池灰原書記長ー「三池だけの敗北ではない。三池に加えられた以上の資本攻勢がこれから全労働者の頭上に降り かかってくるだろう」と上京中の車中で語った。

昭和35年8月20日
 三池あっせん案提示後に、第一組合から第二組合へ105人。

昭和35年9月6日
 三池争議、収拾。炭労大会承認し閉幕へ。ロックアウトから226日ぶり。三池労組、大会決定には服従。

昭和35年9月7日
 炭労臨時大会を見る。ただ涙、三池の主婦。”受諾”の言葉避ける本部。

 中労委のあっせん案が受諾された瞬間、炭労大会の後方に詰めかけていた三池労組の人々約60人は黙ったまま声も拍手も 出さなかった。それはぼう然とした表情であった。白ハチマキの主婦の中には泣いている人もある。
 その中で、三池の主婦たちはほとんどが涙をにじませ、あるいはハンカチで顔をおおっている。予想された結果とはいえ、 長く苦しい争議の一つの決着点。そして1200人の解雇をのまねばならないだけに、胸の中はさぞつらかろう。その顔を見て いるとこちらまで涙が出そうになる。
 中労委のあっせん案は三池の悲涙のうちに受諾された。「いろいろなご意見はあろうかと思いますが、今後の戦いの中で 消化することにして、満場一致の拍手で!」、議長は何度もこういった。しかし、三池労組の席からは拍手一つ起こらなか った。
 ・・・それにしても「炭労は戦う体制にない」という言葉で、見放された三池労組の1200人はじつに気の毒である。つい この間まで「日本最強の労組を背負って立つ活動家」とほめたたえた幹部達の言葉はどこへ消えたのだろう。三池を暴走に まで戦わせ、不利になれば「もはや戦う体制にない」。そしてクビを切られていくのは1200人の労働者である。戦争と同じ く、哀れをとどめるのは常に名もなき前線の兵隊であろうか。(入江記者)

 三池終戦。どうなる今後の労働運動。弱まる?職場闘争。中労委への警戒心続く。

 中労委の松崎事務局長によると、三池争議は、その深刻さ、問題性、スケールにおいて2.1ストに次ぐものである。2.1スト とは連合国軍の占領下の昭和22年、国鉄、全逓など官公庁労働者250万人が賃上げなどの要求で2月1日、ゼネストを決行しよう とした時、マッカーサー元帥の命令で中止した争議。三池争議もゼネストにこそ発展しなかったが、総評、炭労のつぎ込んだ 精力と出血はケタはずれのものであった。延べ33万人のオルグが全国から動員され、国際自由労連や国際鉱夫連盟など外国から のカンパを含めて11億円の金が注ぎ込まれた。第二組合や警官隊、暴力団との乱闘で大牟田の町が何度も血に染まった。また、 この経過中に行われた安保闘争の盛り上がりは三池闘争を勢いづけた。それでも経営者側の壁はついに破れなかった。
 太田議長や岩井事務局長らはいう。「三池では後退しても総評は不死身である」。こうした総評幹部の自信は労働者を敗北感 から救うためのカモフラージュかも知れない。それがもし本心なら、今度の三池争議を単なる一組合の敗退とする甘さが強く批 判されよう。・・・しかも全労会議が最近各方面で総評組織に食い込んでいる事実、また民社党の発生など組合幹部はもっと深 刻に自己批判する必要があろう。(新井・小林記者) 

昭和35年9月13日
 職場闘争ゆきすぎ。太田総評議長、三池で自己批判。

昭和35年9月19日
 三池の両組合員がまた乱闘騒ぎ。双方で20数人がケガ。

昭和35年9月20日
 筑豊炭田の豊州炭鉱水没、67人絶望。

昭和35年9月26日
 今度は嘉穂炭鉱、ガス爆発。13人行方不明。惨事つづく筑豊炭田 

昭和35年9月30日
 1000人一括し退職届。三池の解雇一応ケリ。三池第一組合は、三川412人、宮浦234人、四山174人、本所102人、港務所78人 の退職届を一括して提出した。退職届を出さなかった163人は「指名解雇は不当労働行為である」として法廷で争うことになる が、これで三池争議の争点となった1200人の解雇問題は解決した。

昭和35年10月1日
 三池、石炭搬出で緊張。ピケ隊千数百人非常召集。警官隊約100人出動。三池のヤマは再び緊迫した空気に包まれている。

昭和35年10月5日
 違法行為を追及ー三池生産再開委員会で、会社、強硬な回答。

昭和35年10月26日
 三池生産再開委員会、打ち切り。三井鉱山では、炭労が25日、三池問題を含めた闘争方針を決めたことを重視。同日、原炭労 委員長に宛てて「ストの圧力下で生産再開委員会は続けられない」と通告した。これで三池の再開は見通し難になってきた。

昭和35年10月28日
 中労委が再あっせん。炭労、全面ストを回避。労使の対立点は、
   @争議責任の追及 A解雇者の社宅立ち退き問題
   B期末手当 C労働協約 D就労体制問題
の5点だが、対立点の中心である就労体制問題について会社側は、「第一組合員の大部分を争議前の原職に返し、残りの人も 原職より条件のよい職場に転換させる」と柔軟な態度で臨んだが、組合側は、争議責任の追及は重大な問題なので会社がこれ を水に流さない限り全面解決はありえないとの強い態度をとって最後まで粘った。

昭和35年10月29日
 中労委再あっせん案、労使とも受諾決定。三池争議に対する中労委の再あっせんは、争議責任の追及と期末手当の問 題で労使の対立が解けず行き詰まっていたが、28日労使それぞれ受諾することを決めたので、三池争議は実質的にも完全に解決 する運びとなった。

 中労委あっせん案
1.責任追及問題
  ・・・・司直に関するものであって刑罰法令に違反した者について、これを直ちに悪質と認めることなく、5カ月の期間を  おき、その後においてこの認定を行うこととせられたい。
2.期末手当の要求
  期末手当という名称は適当でないが、この際、組合員一人当たり1万円を支給すること。なお、社宅立ち退きは自主解決を望む。

昭和35年10月30日
 三池労使、再建協定に調印。新しい協定で、これまで”三井鉱山のガン”と言われてきた色んな取り決めが一挙に取り除かれた。 まず、人員関係では出来るだけ人を減らして能率を上げようとする会社の主張が盛られ、入れ替え採用が廃止された。労組の職場活 動も、「係員の指示に従う」ということで封じられ、出勤対策として、出勤予約、休業の事前届出制が行われることになった。
 三池新旧労組、生産再開で話し合い。話し合いの結果、次のことを確認した。
  @ 平和状態になったら紛争を避ける
  A 紛争を起こす障害を除くよう適時話し合う
  B 疎開者が平穏に社宅に帰れるよう協力する

昭和35年11月1日
 三池、きょう生産再開。三池鉱業所の労使は1日午後、それぞれストとロックアウトを解除、石炭の搬出を始める。本年1月 25日会社側がロックアウト、組合側が無期限ストに入ってから282日目ー史上最大の争議と言われた三池争議は終止符を打つ。

 ピケ小屋の撤去始まる。

 石炭政策を練り直せー炭労、経済企画庁長官に要望。炭労の主張は、まず合理化がわずか1年間に3万人以上の労働者をヤマから 追い、賃金その他の労働条件がほとんどのヤマで例外なく切り下げられ、しかも炭鉱災害が激増するなどすべての犠牲を労働者に 押しつけている。このような合理化政策が無制限に進められるならば炭鉱労働者の生活は崩れ去り、石炭産業の危機も決して解決 されない、というもの。(夕刊)

昭和35年11月2日
 三池争議、完全に終わる。貯炭運び出し再開。
(栗木社長の話)
  争議は一応解決したが、これで燃料革命に対処出来る態勢が出来たわけではない。これからは労使一体となって合理化に  努める。今後は小さな紛争でも信賞必罰で臨み、職場秩序をきびしくして行きたい。
(宮川三池第一組合長の話)
  結果は組合側に満足なものではなく、労使間のシコリは残っているが、終わった以上は生産再開に努力していきたい。今  後も我々は組合員としての連帯を強め、会社側に不遜な態度があれば対決も辞さないと考えている。

 黒い羽根運動終わる。
 昨年9月から始まった炭鉱失業地帯への"愛の運動"の幕を閉じた。集まったお金は約3800万円。物資は衣類46トン、その他 粉ミルク、干しうどん、米、薬品、石鹸、書籍など金品あわせて1億円以上に上った。同本部は募金でヤマの救済事業を起こし、 傘のない子供には8000本の傘、筑豊の失業地帯には井戸57箇所、簡易水道25箇所、浴場34箇所、電灯185戸をそれぞれ設備、他 に共同便所、託児所等も作った。

 283日目、開門の朝。三池第一組合員も笑顔で「炭掘る仲間」を合唱。この日午前8時、第二組合と職員組合が入り、午前10時 には第一組合が出勤届けのため入構した。さすがに両組合員とも感慨深い面持ちだった。(夕刊)

昭和35年11月4日
 早3日目にして"終戦"の三池で乱闘。新旧組合員10数人がケガ。3日午後3時半頃、熊本県荒尾市の三池炭鉱宮内社宅の入口で、 三池新労組の自動車パレード隊と三池旧労組員が衝突乱闘となった。荒尾署員がかけつけ騒ぎは間もなくおさまった。
 三池のヤマはこの日、新労組側が争議終結記念のアドバルーンを上げ、数十発の花火を打ち上げての"お祝い"をやった。大牟 田・荒尾両市内の商店街では紙吹雪やテープを投げたりして行事は極めて派手だった。一方、三池労組側ではピケ小屋を壊した りざん壕を埋めたりして地味な"終戦"処理をしていた。こうした空気の違いが何となく両者のきまずい感情をかもし出していた と地元では言っている。

昭和35年11月5日
 三池鉱業所では、3日宮内社宅で起こった三池新旧労組員同士の衝突について、三池旧労組に警告すると共に、
  1 三池労組は社宅内の地域闘争本部を解散する
  2 双方、刺激的な行為は慎む
  3 事件があれば事件の当事者を処罰する
との通達を社宅内に掲示した。

昭和35年11月9日
 生産再開は延期か。三池、交渉はまとまらず。

昭和35年11月13日
 三池、団交物別れ。会社側16日生産強行へ。労組側は会社提案がのめない理由として、
  1 同じ職場でも新労組員が高賃金職種を取っている
  2 また同じ職種でも坑内で重要な部門は新労組員が押さえている
   などをあげている。

昭和35年11月20日
 生産再開交渉は決裂。会社、あすから強行へ。
 炭労は19日、中労委に対し三池労組の配置転換の差別待遇についてあっせん案にもとづく裁定を求めた。

昭和35年11月30日
 労組側は約1500人の配置転換応募者に対する内部調整がまとまらず苦しんでいたが、30日未明には一応まとまり、 配転希望者の名簿を一括して会社側に出した。
 三池労組員らは闘争中一日もはずしたことのなかった「三池労組」のはちまきを1年3カ月ぶりではずした。組合員 達の額には鉢巻きの跡が浮かび出ていた。

昭和35年12月1日
 311日ぶりの就労、三池両組合がそろって。
 各地域別に集まった旧組合員たちは主婦達の見送る中を午前5時過ぎ炭住街を出発、各ヤマに向かい、本年3月28日強行 入門以来、就業してきた三池新労組員とともに、会社側が指定した職場に就いて作業をはじめた。争議中、両組合員の間 に生まれた感情的な対立は、この日の就労の際の言葉のやりとりにもその底流が伺えたが、両組合員は組合幹部の統制の もとで、規律のある行動をとり、紛争はみられなかった。

 誤りを自己批判  灰原三池労組書記長の話
 「今度の争議で会社側は経営権を振りかざして1200人の解雇に成功した。しかし、我々は資本家側の力に負け、生産再 開に応じたのだからこれからは大いに働いて生産に協力するつもりだ。これは会社に迎合するという意味では絶対にない。 労働者がどんなに熱心に働いても権力をかさにきた労務管理が続けられる限り、会社再建などは思いも寄らぬことがやが てわかるだろう。我々は今度の争議で三池だけで勝敗を決しようとしたことに誤りがあったと自己批判している。」

 三池・静かな生産再開。この朝大牟田地方は木枯らしが吹いて寒かった。その中を三池労組員も新労組員も静かに各鉱業所 へ向かった。三池労組員は真っ黒のヘルメットに白線3本、新労組員は黄色に「新」を大きなマルで囲んだヘルメット。両者は 思い思いのグループに分かれてかたまりあった。全面就労のこの日の正門は全く静かだった。係員の作業指示が始まった。か つて紛争はこの作業指示から起こるのが常だった。係員が「和解のある精神で秩序ある職場を」と述べる。黒ヘルメットの一人 が「声がこまかぞ」と怒鳴ったが、あとはみんな静かに聞く。三池労組側の一人はこう言う。「われわれに示された条件は意外 にきびしかった。それがある意味でクスリになった。新労組員とトラブルでも起こしたらますます苦しい立場に追い込まれるか らお互いに自制しようという腹ができた」。
 そうは言っても笑顔がほとんどなかった。黄ヘルメットはやはり心配している。「いがみ合い、時には流血騒ぎまで起こした 相手と狭い場所で一緒に働くんだから不安はあるよ」という。

 新港社宅では午前5時、組合集会所前に約150人の労組員や家族が集まって、一番方の15人を拍手で送り出した。見送りの組合 員は丹前姿、主婦はほとんどが鉢巻きを締めていた。組合の幹部が「苦しさに負けないできょうの門出を祝おう」とあいさつし た。ストを通じて仲間の合言葉になった「がんばろう」をひと声。夜明けの炭住街に足音を響かせて三川鉱へ向かった。

昭和35年12月4日
 宮川旧労組合長ら出頭。"三池海戦"の調べに応ず。警備本部長は4日記者会見で、「宮川組合長ら4人は黙秘権を使わず取調べ は順調に進んでいる」と発表した。

昭和35年12月23日
 三池出炭、戦後新記録。去る1日から全面生産再開に乗り出した三井三池鉱業所は21日、ついに待望の日産1万トンを越え 1万11トンを出炭した。同鉱で日産1万トンを突破したのは戦後はじめて。

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