赤紙ーみいけの年表

昭和35年1月5日
 三池労組、山の上クラブ上空で指名解雇状をヘリコプタで返上。また、同クラブ前においては指名解雇状返上デモが行われた。

昭和35年1月12日
 企業整備反対で闘争中の三鉱連(三池・田川・山野・砂川・芦別・美唄の組合員約4万人)は12日、「首切り反対」 「去るも地獄、残るも地獄」をスローガンに26回目の波状24時間ストに入った。

昭和35年1月23日
 三井鉱山は、三池炭鉱における職場の混乱の建て直し、生産体制の正常化を図るため、ロックアウト(事業場を閉鎖して 就労を拒否すること)を通告。これに対し労組と主婦会は23日、「怠慢経営による赤字を我々に押しつけた首切り賃下げ の攻撃には長期化しても断固闘い抜く」と声明。

昭和35年1月25日
 三井三池は、早朝一番方からロックアウトを実施。これに対し労組は無期限ストに突入。三池の全機能はストップした。

昭和35年1月28日
 栗木三井鉱山社長は、27日夜、「中途半端な妥協はありえない。会社再建案が実施できないのならば、会社は倒産する 以外にない」と談話。

昭和35年2月1日
 西ドイツ派遣炭鉱労務者54人、帰国。  西ドイツで3年間鉱員生活を送りヤマに帰ってきた宮浦坑七夕社宅の前職場委員Hさん(25歳)は、「職場に帰ってきた 第一印象は組合の迫害がひどいということ。組合指導者は組織の強さの上にあぐらをかいている。日本の組合組織には、 社宅外へ行くにも行き先を組合に告げなければならない等、少し自由がなさ過ぎる。しかし、批判勢力の中にも組織を割 って自分達だけうまい汁を吸おうとする者もいる。私はどちらに対しても言うべきことは言わせてもらう」と現状に対す る意見を述べた。 

昭和35年2月25日
 ロックアウトから1ヶ月。炭鉱社宅内においても、執行部の闘争方針を批判する組合員や主婦と支持組合員等との間で こぜり合いがあちこちで起こっている。ある主婦は「組合の尾行が激しいので買い物にも行けない」と言っている。

昭和35年3月7日
 三川鉱野添社宅内で会社側を応援している民間団体「灯をともす会」の宣伝車が「三池闘争は行き過ぎだ」とマイクで 宣伝して帰ろうとしたところ、その前方にピケを張った三池労組野添地域分会副分会長(48歳)が轢かれ、下半身が車の 下敷きになった。これにより、600人の組合員が同車を取り囲み、一時は殺気立った空気に包まれた。

昭和35年3月11日
 三池で闘争方針に反対して、三池炭鉱主婦会から脱退者ふえる。

昭和35年3月13日
 三井三池、二つの大会。批判勢力で緊迫化。にわかに表面化した組合内の批判勢力封じ込めのための3万人動員総決起 大会が開かれる。一方、ストに反対している大牟田再建市民運動本部もこの日、笹林公園で6千人の市民大会を開いた。

昭和35年3月14日
 三井三池労組、激しくなる内輪もめ。大牟田市と荒尾市にまたがる13箇所9400戸の社宅において、強い闘争を続けよう とする組合主流派と批判グループとの間で、激しいつるし上げが続発。13日午後までに双方の間で起きたトラブルは数十件。 12日午後には小浜北社宅において、I さん(43歳)が酒に酔った解雇拒否者に殴られるなど、暴力事件も数件ある。批判 勢力の中には、組合の巻き返しを恐れて家族を母親の実家に夜中”疎開”させる者もいた

昭和35年3月15日
 大牟田市民体育館で開催された三池労組の緊急中央委において、組合主流派と批判派が夜まで続いた激論の末、批判派 の中央委員69人が一斉に退場。別の会場において三池労組の「刷新同盟」を旗揚げした。

昭和35年3月17日
「刷新同盟」から第2組合として「三池炭鉱新労働組合」を発足

昭和35年3月18日
 17日、三社連(三井鉱山社員労組連合会4500人)、春闘戦術をめぐり炭労を脱退

昭和35年3月23日
 三井三池の争議はロックアウトでいつ解決するかわからない泥沼闘争に踏み込んだ。「敵より一日でも長く」ーこれが 労使双方の合い言葉である。この闘争の行く手は暗い。労使は何を考え、どう出ようとしているのか。三池労使の代表、 若林鉱業所長と宮川労組組合長に聞いてみた。
(会社側)
  経営者にとってロックアウトは好き勝手で出来るものではない。会社をつぶされないために、我々に残された最後の  手段だ。係員の指示が気に食わぬと言っては仕事を放棄して坑内に座り込む。一日100メートルは楽に掘れる切り羽をわ  ざと20メートルしか掘らない。常識では考えられない乱れた職場秩序を正常化しなければ、三池炭鉱は燃料革命の渦の  なかで没落してゆくばかりだ。生産阻害者をヤマから追い出せば三池は名実共に日本一の炭鉱になる。組合の考えは  「生産者阻害者には手をくださないで善良な鉱員を首切れ」と言うことだ。こんな残酷なことが出来るだろうか。  これまで組合は闘争の終わる度に生産に協力すると約束した。しかし、もう我々はだまされない。安易な妥協は会社が  倒れることを意味している。指名解雇が反対なら法廷で争えばよい。どちらが正しいかの結論は大衆の審判で決まると  思う。総評、炭労は、三池労組の行きすぎた闘争を知り、やがて支援する価値のないことを悟るだろう。
(組合側)
  われわれ組合は、「出炭に協力しよう。希望退職も認めよう」と最大限の譲歩をした。会社がこれを受け入れられなか  ったのは、組合活動家を首切ることによって、組合運動を骨抜きにする考えがあるからだ。会社は組合を信用しないとい  うが、一昨年10月に出来た機械化交渉協定で首切りはやらないと約束した。ところがそれから3ヶ月もたたぬうちに第一次  会社再建案で6千人の首切りを提案して来たではないか。われわれはこれまで会社の出炭計画には協力して100パーセント  遂行してきた。出炭が減ったのは争議が始まってからのことだ。総評と炭労の資金カンパで毎月1億6、7千万円の金が来る。  われわれは1万円生活により半年でも1年でもへこたれることはない。一般組合員には28年の113日におよぶ長期闘争で人員  整理を跳ね返した経験と自信がある。

昭和35年3月24日
 三井三池両組合、もみ合う。警官隊初出動。午後3時半頃、原万田社宅において、第1組合員500人のスクラムを突破しようと した第2組合員100人が、激しいもみ合いとなった。両者は互いに「暴力団!」と罵り合いながらつかみあった。これに警官約 30人が中に割り込み、やっと引き分けた。

 23日の大牟田の町はロックアウトの話題で持ち切り。会社側と組合側双方のニュースカーが入り乱れて走り回り、ロック アウトの正当性、不当性について放送合戦を続けた。が、夜に入って不気味に静まり返った。"嵐の前の静けさ"のようだ。

昭和35年3月25日
 三鉱連(全国三井炭鉱労組連6山)から三池労組に批判。三井争議の早期解決を希望。

昭和35年3月27日
 26日午後4時過ぎ、荒尾市 大谷社宅で、第1組合員約60人が小学生を交えた子供十数人と共に、第2組合員の家の庭に なだれ込み、「これが裏切り者の顔だ。よく覚えておけ」と言いながら窓をこじ開け、石や古下駄、下水の泥等を投げ込 んだ。同社宅には第2組合員が約60人いるが、荒尾署では「このほとんどの家が被害を受けた模様」と話している。

 三井三池、あす生産を再開。新組合に就業命令。

昭和35年3月28日
 炭労、三池争議の戦術を大転換。みずから中労委にあっせんを申請。孤立化する三池労組。会社側、あっせんを受ける 気持ち全くなしの強気のかまえ。

 三川鉱の就労をめぐり、両組合員が激突。血まみれの乱闘により百十余人が重軽傷。血まみれになった男の頭をさらに 棒きれで殴り、「ざまあみろ。裏切りモン」とののしる。

昭和35年3月30日
 外部団体、ピケ隊と衝突。第一組合員殺さる。四山鉱正門前。制止の警官も重傷。熊本県警荒尾署の調べによると、29日 午後4時55分ごろ、三井三池四山鉱正門前でトラック、バス各1台、ハイヤー十数台に乗った大牟田市の暴力団組員ら約100人 が正門付近にかかった際、正門前でピケを張っていた三池労組員と衝突した。近くの四山派出所に詰めていた警官6人が両方 の間に入って制止しようとしたが、もみくちゃにされ、こん棒、刃物などで乱闘、第一組合員側の四山支部久保清さん(32歳) は胸を刺され、三井天領病院に収容されたが、午後5時半死んだ。オルグの佐賀県新屋敷炭鉱労組員(32歳)と巡査(37歳) の二人も頭を殴られて重傷を負うなど、死者1人、重軽傷者十数人を出した。組員らは荒尾市緑が丘社宅一帯を争議反対の宣伝 を行った帰り道だった。その後約200人の警官がかけつけ、騒ぎは約30分後収まった。  事件のきっかけは、外部団体が四山鉱社宅でデモをやり、さらに四山鉱正門前では宣伝カーで「第二組合員を村八分にする な」という意味の放送を行っていた時、同所でピケを張っていた第一組合員が石を投げつけたことなどもあって間もなく乱闘 が始まり、問題の殺傷事件となったものである。

 三池労組、声明発表ー「ピケ隊に近づく暴力団に対し、経営者、職員、第二組合員はサク越しに鉄棒、ツルハシ、こん棒など を投げ与えたことからも、この殺人行為は会社と暴力団が一緒になっておこなったことは明白だし、警察はそれを制止しなかった」

 三池新労組の話ー「第二組合とは関係のないことだが、すべての暴力は第一組合の第二組合員に対する脅迫や暴行事件が原因 だ。しかし、最近第二組合を支援するといって各種の団体が介入しているので、今後は支援を断る」

 石原国家公安委員長は、現地の治安維持について協議し、九州管区警察局長に対し、外部団体はもちろん、第一組合、第二組合 を問わず、暴力は徹底的に取り締まるよう指示した。

 福岡県警三池争議警備本部は29日、1500人を動員。同夜は全市のパトロールを行い、ヤマ元や社宅の警戒を厳重にした。社宅 街から各鉱への主な道路9箇所には臨時検問所を設け、両組合員を説得して木刀を提出させた。商店街は早じまいとなった。

 暴力におののく炭住街。組合員家族ら集団疎開。三池四山の町は警官ばかり。

昭和35年4月1日
 童心をむしばむ”三池の暴力”友達も仲たがい。大人の世界が敏感に響く。  大牟田市の小中学校長会が31日開かれた。この時、ある小学校長が「29日のあの乱闘以来、子供達はとげとげしくなった」 と顔を曇らせて報告した。

 俊子ちゃん(10歳)は29日から荒尾市の三池緑が丘社宅を離れ、大牟田市内の某料亭へ移った。ここは第二組合員の 「集団疎開」先だ。50余家族が60余畳の大広間に入っている。27日の昼までは社宅の空気はそう険悪でもなかった。が、 第2人工島の乱闘で夜が明け、28日の三川鉱で流血の入構騒ぎがあってガラリと変わった。「きのうまで仲のよかったAちゃん も、もう遊んでくれさっさん」ようになり、「Mさんのじいさんな、第二組合員と遊ぶなち、Mさんにいいなはった」そうだ。 俊子ちゃんはカバン一つ持たずに疎開トラックに乗った。追いかけてきた小さな男の子がトラックにぶら下がりながら、「ウ ラギリモン」と叫んだ。俊子ちゃんは耳を両手で覆った。30日夜、両親に抱かれてザコ寝する同室の友達を見たとき、俊子 ちゃんはソッと「おかあちゃん」とつぶやき、「すみれ町」と優美な名のついた緑が丘の社宅のことを思ったという。

昭和35年4月2日
 九州各県から増援。警官4600人を投入。九州では前例のない大規模な増員となった。

昭和35年4月5日
 第2人工島、海から極秘に入構。三池第二組合員の217人。

 4日夜の北京放送によれば、中国炭鉱労働組合全国委員会は、このほど三井三池炭鉱労働組合の闘争を支持した電報を送った。

昭和35年4月6日
 三池争議に職権あっせん。指名解雇は撤回。該当者、自発的退職で加給金。藤林会長から提示。事実上は指名解雇。会社、 炭労とも受諾か。三池労組は拒否。
 (山本三井鉱山常務の話)
  1200人の整理問題について会社の希望がいれられているので会社側としてはあっせん案をのまざるを得ないと思う。  指名解雇撤回、同時退職ということは、会社としては名を捨てて実を採るものだ。就職斡旋と退職金の増額はたいした  問題ではない。ただ会社としてはロックアウトを現状のままにして第一組合側と生産性向上の問題と配置転換につい  て話し合い、この点をのんでもらわないと困ると思っている。回答は6日午後になろう。

 三池、ピケで入構出来ず。第一組合、あっせん案で硬化。藤林あっせん案が出された6日の三井三池の山元では、午前9時 過ぎから生産再開を目指す三池新労組(第二組合)員の強行入構が宮浦、三川、四山の各鉱で試みられ、また、三池労組 (第一組合)は未明から戦術会議を開いて「あっせん案はのめない。指名解雇撤回にいままでどおり闘うのみ」との態度を 確認するなどあわただしい空気を示した。第二組合員の入構は各鉱とも危険を考慮した警官隊の制止で果たさず、またまた 持ち越された。

 追い詰められる"指名解雇者"、焦燥の三池労組1200人。藤林あっせん案が出て、三川支部の幹部は、「筋書きは前から 判っていた。だが8日からはじまる炭労の臨時大会に俺達は期待をかける。総評や炭労が三池を見捨てるはずはない」と述べた。  5日午後、大牟田市は第一労組を中心にした3万人のデモ隊が全市を「ワッショイ、ワッショイ」の喚声で包んだ。赤ん坊を 背に、幼な子をの手を引いた鉢巻き姿の女房連のジグザグデモが猛烈な罵りの言葉を警官隊に浴びせながら、何隊も何隊も通 っていった。

昭和35年4月7日
 向坂氏宅へ右翼。右翼団体「治安確立同志会」(会員約30名)は、6日午後1時40分ころ、東京都中野区の向坂逸郎氏宅を訪れ、 同会会長が「三井三池の混乱には向坂氏の指導が重大な影響を与えている。社会治安を乱すような労組教育を反省し、労組指導 から手を引くべきである。」という抗議文を手渡した。

 7日午前5時、大牟田署に置かれた福岡県警特別捜査本部は三井三池三川鉱乱闘流血事件の一斉検挙に乗り出す。令状請求者は 28人に。
 (第一組合灰原書記長声明)
   会社側と組んで三池労組の正しい闘争を弾圧しようとするものであり、徹底的に抗議する。
 (第二組合菊川組合長声明)
   正当防衛の立場でやむを得ず対抗した第二組合員まで捕らえられたのは納得できない。公正な捜査を望む。

昭和35年4月8日
 岸首相は8日の閣議で三池争議について特に発言し、「炭鉱住宅街の治安維持には行き過ぎの非難を恐れないで万全を期する よう」指示した。これに対して石原国家公安委員長は「警官4000人を動員して炭鉱住宅街の治安維持に全力をあげている」と報告した。 

昭和35年4月9日
 藤林あっせん案ー炭労、態度決定に難渋。戦術委受諾に傾く。
 三池だけでも闘うー第一組合書記長談
 三井三池炭鉱労組灰原書記長は8日夕方の記者会見で、次のように語った。
 1.炭労中闘委であっせん案をのむことになっても我々は決して落胆はしない。炭労大会までには必ず大衆の気持ちを反映  した方向が打ち出されると確信している。また、三池だけが取り残されても闘いは続ける。
2.会社側がいま続けている第二人工島からの入構を阻止するため、8日から海岸や港にピケ隊を派遣、監視を強める。

 炭労大会、一応開く。
 浅沼委員長あいさつーあっせん案は実質的に指名解雇者の全員解雇を認めたものであり・・・このような首切りを許す中労委 のあっせんの在り方については深い疑問を抱く。
 太田総評議長あいさつー藤林あっせん案は会社の主張をそのまま示し、職場活動家を生産阻害者の名で首切りを認めるもので ある。総評は首切りを認めることは出来ない。三池の戦いはそのあとにつづく11万人の首切りにつながる問題だ。炭労が前向き になれば総評は支援する。
 炭労の原委員長、強く訴えるー炭労は最強の労組であると言われていた。しかしひとたび敵の攻撃が強まるとその弱点は出て くる。我々の指導がうわすべりであったこと、下部の掌握に欠けていたことに対する激しい指摘と批判がなされない限り前進は ない。明日への新しい方向と前進の道を切り開くことを心からお願いする。

 三井鉱山は昨年中の離職者4000人以上に対し、就職あっせんをしたのは800人。特に争議以来、受け入れ側でも警戒的で、 今度三池問題で整理の対象となっている人の再就職はかなりむずかしい、というのが一般の見方である。
 その原因は、
  1 炭鉱従事者には特殊な技能がない者が多い。
  2 離職者は年齢が高く、家族持ちが多い。
  3 住宅問題がある。
  4 炭鉱の人が他で生活する自信が弱い。
など。

昭和35年4月10日
 炭労大会まちの三池ー商売にもピンと響く。争議が始まる前から三池労組と運命を共にしようと組合のデモにまで参加し た革新商店連盟も、争議が長引き、掛け売りの金が入らなくなると脱落者もチラホラ。「脱退はしたいが組合が恐ろしい」 という店もある。倒産寸前の映画館も出てきた。この半面、争議でしこたま儲けた店もある。一膳めし屋、旅館、タクシー 会社、印刷屋というところである。

 全校児童の96%までが三池の組合員の子供である緑ケ丘小学校では、「1万円生活」で教科書代も重い負担となっている 第一組合員の家庭が多いだけに、学校側は新入児童をはじめ全校生徒に古教科書を使わせることにした。
 新入児童のおかあさんの一人、緑ケ丘若葉町の甲斐さんは、「せっかくの入学に親としては新しい本を使わせたい気持ち はいっぱいだが、勝ち抜くためにはこれもしようがありません」と言っていた。

昭和35年4月13日
 炭労臨時大会。「三池」を本格討議。執行部に手痛い批判。あっせん案拒否の空気。スト指令を返上した三鉱連五山は沈黙。

 「あっせん案はレッドパージに等しい。これを受諾するくらいならヤマに帰って組合をやめる」(三菱)、「こんなあっせん 案を受諾するなら労働組合の存在理由がどこにあるのか」(北炭)との強い声も出た。

 野口副委員長は、「あっせん申請の判断が甘かったと言われれば仕方がない」と謝った。最後に三池労組の久保田副委員長は、 「批判勢力の拡大はやり方が巧妙なので防ぎようがなかった。"三池独走"と言われるが、組織をないがしろにしてまで闘争を進 めるというのではない」と発言、注目された。

三池を追いつめたもの  三池炭鉱労組15000人のうち、1200人に指名解雇通知がきた。そのなかに300人ほどの組合活動家がいた。大部分は組合幹部 ではなくて、末端の職場闘争員だった。会社側はこれを「生産阻害者」だという。「いや違う」と、活動家は反論する。すべて は組合の「戦術」にしたがい、ひたすら忠実に「指令」どおりの職場闘争をやっただけだ。ところが、そのことを理由にして、 いま解雇されようとしており、しかも組合は組合で、この段階まできて「組織の欠陥」を告白し、「闘えるか、闘えないか」を 議論している。いったい、おれのクビや女房、子どもをどうしてくれるんだ・・・今日ここまで三池を追いつめたものは何か、 とまず考える。「資本主義の矛盾だ」ないしは「それが安保体制さ」・・・その種の一連の明快な答えがある。「三池争議は、 総資本と総労働との対決だ」ともいう。それを、ここで反論するつもりはない。だが、まてよーと、殺風景きわまる石炭ガラの 町を歩きながら、何度も考え直してみた。この追いつめられた炭鉱労働者ひとりひとりに、果たして、そういう明快な使命感が あるか、どうかーと。あるいはまた、この種の「すべてが無か」といった原則論では、もはや、あの暗さを救えないのではない か。そして同時に、あの暗さそれ自体が、実は中央の進歩派が仕立てた、妥協のない原則論によって追いつめられた結果なので はあるまいかーとも。
 三池で話し合った組合員、その家族たちの印象はといえば、何よりもまず、素朴な筋肉労働者なのである。実直で、不器用で ーたとえば、中央で「戦術転換」したという、が、現地ではそうやすやすとは「転換」できない。また、労働用語には、とかく オーバーな表現が多い。一種のウソだけれども、それが大衆運動に必要な「戦術」なのでもあろう。都会のインテリ労働者なら、 そのウソは百も承知で組合の「情宣ビラ」などを読む。ところが炭鉱の組合員大衆となると、かならずしもそうはいかない。 「首を切るものの首を切れ」などというビラが、大牟田市では町中にベタベタ貼ってある。言葉どおりの意味が、都会で想像す るより。はるかに生々しく受けとめられているのではないかと思う。
 そういう彼らを冷たい常識で笑うことは、たやすい。しかし、それよりも、彼らの真実味を疑うことのほうがずっとむずかし い。問題の職場闘争にしても、彼らは言うー「数年前までの私たちは、まるで奴隷のようにこきつかわれていた。家庭までジメ ジメして暗かった。それが組合の職場闘争のおかげで、年々職場も暮らしも明るくなってきたんです」「その職場闘争の先頭に 立って働いてくれたのが、300人の組合活動家だった。だから首切りにはどうしても賛成できません」
 しかし、公平にみて、この人たちの職場闘争には、今日の日本の社会では、普通なら通用しない常識はずれと思われるフシが あった。また、三池の職場闘争を指導し、支持した労働運動家のなかからさえ、「なかには無茶な行き過ぎもあった」との批判 が出ていた。しかし、労働者ひとりひとりは、暗い気持ちをいまさらどう「克服」したらいいのか。心底から信頼し、生活のす べてをそれにかけていた組合までが、万一おれたちを裏切るというのなら「ダイナマイトを抱いて会社を消してしまう」と、活 動家たちは訴えている。現地の炭労オルグや取材記者をさえ「こわい」と感じさせるような、思い詰めた真顔の訴えである。そ んな陰惨さを背負って、現地から90人余りの闘争員が上京してこの大会を傍聴している。三川鉱乱闘事件で逮捕状の出ている活 動家もその中にいる。みんな、ここでは押し黙って野次ひとつ飛ばさない。はた目にも、それは、何ともやりきれない空気だ。

昭和35年4月18日
 第二組合員180人、警官に守られ入構。けさ三池三川で強行就業へ。会社側、三鉱連と急ぎ妥結。

 栗木社長談ー会社の期待に反し、炭労はあっせん案を拒否した。しかし、炭労がやる気ならばこちらは3年でも4年でもやる。 三鉱連五山の態度には敬意を表する。というのは、三井鉱山が崩壊しかかっている事実と燃料革命を認識して、勇敢に大衆の声 を反映したからだ。

 社会党、炭労支持。民社党、炭労を批判。

昭和35年4月19日
 三池、三鉱連を脱退。早期収拾方針に不満。三池独走態勢強まる。

昭和35年5月3日
 三池争議警備本部は3日、大牟田市 臼井社宅 三池労組員M(37歳)と同所三池主婦会員T(34歳)の二人を暴行障害 の疑いで捕まえた。容疑は、同社宅の道路で入浴帰りの第二組合員主婦を第一組合員数十人と共に取り囲み乱暴して2週間 のけがをさせた疑い。三池争議で主婦が捕まったのははじめて。

昭和35年5月4日
 三池の主婦会員さらに3人逮捕。先に逮捕された2人の釈放を要求して主婦会員ら約450人が大牟田署に押しかけたが、こ のデモ隊の中に先の事件で逮捕状の出ている3人を警察官が発見し、逮捕したもの。これに対し警察署前は騒然となったが、 社会党参議院議員と警察との話し合いの結果、3人はデモ隊の宣伝カー上から仲間に挨拶し逮捕に応じた。

昭和35年5月7日
 ソ連の新聞記者3人が6日午後1時22分大牟田着の”はやぶさ”で、三池争議の取材に現地にやってきた。

昭和35年5月11日
 三川鉱、執行命令出る。立ち入り禁止、妨害排除。
 福岡県警三池争議警備本部は三池争議に関する逮捕者数が10日正午現在96人に達したと発表した。うち令状によるもの75人 で残りは現行犯。

昭和35年5月12日
 菊川三池新労組長らが辞意。「部落差別」の責任をとる。「友山労組の皆さんに訴える」というビラの中に、「三池労組は よく特殊部落と言われていました」と書いていたことに対する責任をとったもの。

昭和35年5月13日
 三池で第一労組、警官隊乱闘。三池港務所構内にある福岡県警三池争議警備本部分駐所前で、第一組合のピケ隊約2000人と 警官隊320人が衝突。警察側114人(うち重傷7人)、組合側57人の負傷者を出した。警察の車めちゃくちゃ。なお、デモ隊と 警官隊が直接衝突したのは三池争議でははじめてである。乱闘の発端は、数日前から日課のように行っている"こんばんはデモ" のデモ隊が勢い余って分駐所前で警備中の警官隊に接触し、後ろが建物のため後ずさり出来ない警官隊はデモ隊の1人に警棒で 触れた。その瞬間投石と殴り合いの乱闘がはじまっていた。
(福岡県警本部長の話)
 第一組合は完全に暴力的傾向をみせた。今後第一組合に対する警察としての態度を考え直す。これらの事件は徹底検挙でのぞむ。
(組合側声明)
 警察の計画的挑発であり、不当弾圧として国会に訴える。

 爆発した憎しみー第一組合と警官隊、対立いよいよ激化。「このやろう」「犬め」とののしる第一組合員。「静かにしろ」 「抵抗するな」と叫ぶ警官。黒い鉄棒と黄色い坑内帽がぶつかりあって血を流した乱闘事件は、"憎しみの闘い"だった。

昭和35年5月14日
 負傷の阿具根社会党参議員ら警官を告訴。

昭和35年5月18日
 社会党、三池からの警官退去を求める。

昭和35年5月21日
 全学連、首相官邸に乱入。

昭和35年5月27日
 空前のデモ、国会を包む

 三池(宮浦)で両組合乱闘。12人けが。

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