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赤紙ーみいけの年表
昭和32年1月20日
社会党左派主導権を握る。大衆活動に重点を置く。
昭和32年3月7日
街にひびく炭労スト。営業時間を縮める風呂屋。病院も暖房冷える。特に炭価高で悲鳴を上げていた中小企業にとって
このストは影響多大。生産を停止した町工場も出る。
昭和32年6月19日
”創価学会”と対決。最近、災害が多いことや経済的な貧困などによる精神的不安から、北海道炭労(組合員7500人)の
約2000人が創価学会に入り、大きな勢力を持つようになった。しかも同会の反労組的な動きは道炭労としても無視出来ない
としている。
昭和32年6月22日
日米共同声明を発表。在日軍、大幅に縮減。
昭和32年7月11日
岸内閣の改造成る。露骨な反動色と社会党声明。
昭和32年7月26日
西九州豪雨、長崎・熊本・佐賀に大被害。死者・不明563人。災害救助法を発動。巡視船出動。米軍も協力。
昭和32年7月28日
炭鉱労務者の西ドイツ派遣反対、炭労で決定。炭労は西ドイツへの第二次派遣(180人)に対する態度を検討していたが、
現地の実情を視察した結果、西ドイツの炭鉱労務者の不足を補う単なる労働移民に過ぎないとの結論に達し、組合員をこれに
参加させない方針を決定した。
昭和32年7月30日
219人、興安丸、故国へ急ぐ。樺太にまだ千人も。
昭和32年9月3日
"ホーベル(無人採炭機)" 時代、来るか。大手炭鉱、西独から輸入。
昭和33年1月11日
佐賀県多久市の多久炭鉱株式会社が経営不振のため閉山されることになった。
昭和33年1月24日
三井三池炭鉱を合理化。三井鉱山では三池鉱業所の合理化を33年度から本格的に行うことになり、同社労組に説明する。
会社案によると、道鉱業所四山坑にホーベル採炭機2基を備えつける他、三川坑でスライシング(2段分層払い削進機)に
よる厚層採炭を行おうというもので、これによって切り羽の集約が出来、採炭能率を大幅に向上させるもの。これに必要な
資金は33年、34年度を通じて25億円を計上している。
昭和33年6月6日
石炭消費大幅に減る。このため炭労ストにもかかわらず貯炭は増えている。こうした石炭需要の減退は、鉱工業生産の
低調と夏場の不需要期とが重なり、さらに大口工場の手持ち炭が上がっているためと言われる。このため中小炭鉱では4月
中に早くも22炭鉱が休山または廃山し、2309人の労務者が整理された。
昭和33年6月10日
北海道の三井砂川炭鉱、ガス爆発。10人死ぬ。
昭和33年6月25日
阿蘇山が大爆発。死者12、負傷28。
昭和33年7月15日
通産省、炭鉱災害防止対策決まる。最近、炭鉱で出水、ガス爆発などの重大災害がしばしば起こっているので、通産省では
14日の省議でこれを防止するための石炭鉱山災害防止対策要綱を決め、直ちに実施することになった。同要項の要点は次のとおり。
1.鉱山保安法規の厳正な運用ー巡回監督の強化
2.鉱業監督の強化ー災害の一因となっている盗掘・侵掘を発見した場合、速やかに告発すること。
3.鉱業関係法規の改正
4.炭鉱保安調査団の編成
5.鉱山保安技術の向上ー監督については信賞必罰でのぞむ。
昭和33年9月30日
炭労会館で行われた33、34年度の2カ年にわたる運動方針案を討議する小委員会では、「炭労が社会党の支持団体となる」の
執行部提案に対し、反対意見が多く出され、「従来通り社会党を支持する」と修正することに決まった。
昭和33年10月2日
三井鉱山で不況対策。投資削減や役員、役職者の給与引き下げ。石炭需要の減退、貯炭の激増、炭価の下落、上半期中の長期
ストなどが重なった石炭不況の影響を最も大きくかぶっている三井鉱山では、9月期決算で実質十数億円の赤字が予想され、下半
期の苦境をどう乗り切るか、その再建案を検討している。
昭和33年10月25日
炭鉱再建への”陣痛”。総崩れの中小鉱。大手筋鉱員にはまだ余裕。
石炭にも不況が吹きまくっている。中小炭鉱では今年になって8月までに142ものヤマがつぶれ、労務者1万3千余人がやめて
いる。業者の貯炭は増え、炭価の値下がりも響いて、大手炭鉱は下期に15%の減産を決め、すでに三井鉱山では課長以上の棒
給引き下げの挙に出たが、こうした炭鉱再建の”陣痛”は今後どう広がるだろうか。完全雇用をこれからも確約するかどうか
の態度決定を迫られる会社側と、きょう25日からのクビ切り反対を叫んでいつでも実力行使に入れる態勢を整えた炭労との激
突も心配されている。
その一方、大手筋の炭鉱社宅では不況などどこ吹く風。こざっぱりした服装のおかみさんは、「不況といいますけど給料袋
の中身は変わらぬし、まだいいんじゃないですか」と屈託がない。この夏どこもかしこも扇風機を買い込んだと言われ、職員
社宅はもちろん、鉱員社宅にもテレビのアンテナが立ち並ぶ豪勢さ。炭労というがっちり厚い壁によって28、29年の不況にも
ほとんどかすり傷ひとつ負っていない。今度もいわば組織に頼り切っている形だ。
だが、大手筋でも会社のお台所となると火の車。借入金はかさむ一方で、このうえは鉱員つまりは組合員の肩にも多少はも
たれかからないと不況切り抜けはおぼつかない土壇場に追い詰められている。
大手筋の14社は30年秋に首切りはしないという長期計画協定を組合と結んだ。おかげで3年間ヤマには首切りがなかった。
炭労が協定が期限切れになるこの時に"完全雇用"の再確認を迫って来たのももっともな出方だろう。ところが会社側は協定を
再締結する場合にはどのような条件付きにしろ、完全雇用などとはとんでもないとの態度のようである。
昭和33年11月11日
三井鉱山、19億の赤字。栗木社長の留任は内定したが、他の重役陣では入れ替えが行われる模様。
昭和33年11月26日
三井鉱山三池の合理化実施へ。切り羽2段掘りなど採用。
三池鉱業所は同社の全出炭量の3割を占める他、平均7200カロリーの良質炭がきわめて恵まれた石炭層に埋蔵されており、
これを経済的にどう開発するか、つまり生産能率をどこまで引き上げられるかが同社再建のカギとまで言われている。これ
まで三池の出炭能率は15トンと全国平均すれすれの低位にあった。これは主に同社労組の生産意欲の低下にあると会社側は
みているが、前記の合理化が進むと三池の出炭は1日8800トンから11000トンへ引き上げられ、出炭能率は19トン程度まで向
上出来ると言われる。
昭和33年
組合批判派グループが「労働者同志会」を結成。
昭和34年1月10日
通産省、石炭不況の対策。同省によれば、石炭業界の不況は、
1 鉱工業生産の伸び悩み、豊水、重油の進出などによる需要の減退
2 効果的な生産制限が行われることによる貯炭の増大
3 炭価の低落
4 ストライキ、生産制限、ベースアップ等による生産費の高騰
という四つの面を持っているとして打開策検討のため、近く大手筋の経営者と懇談会を開く予定。
昭和34年1月17日
三井鉱山合理化案、来週、労組に提示。人員整理は避ける。再建案の主な内容は次のとおり。
1 鉱員の早出、残業を切り詰める
2 時差出勤を行い、採炭夫が坑内でムダ待ちすることを無くす
3 退職者の補充は最小限度に止める
4 縁故者の入れ替え採用の中止
5 組合員の会社預金の利下げ、不用不急の設備の整理
昭和34年1月20日
三井鉱山、再建案、組合に示す。人員整理は見送り。栗木社長は、191億円による借入金をかかえる苦しい赤字経営の実情を
ぶちまけて労組の協力を求めた。ここ数日の団体交渉の成り行きが注目される。
昭和34年1月24日
石炭不況対策に悩む。再建案も労使対立でカベ。
炭労の月2000円賃上げ要求に対して大手の石炭各社が24日に出す拒否回答をきっかけに不況下の炭労争議は本舞台にかかる。
なかでも企業再建案をめぐって対立している三井鉱山の労使交渉がどうなるかはここ数年押され気味の経営者側が経営の自主性
を回復出来るかどうかという意味でも一般に強い関心が持たれている。政府、業界が躍起になっている石炭産業の建て直しも労
使のカベにぶち当たって動きが取れない現状である。石炭不況と言えば、4,5年前までは"人員整理"がつきものであった。だが、
30年に経営者は労組の要求に屈して人員整理はしないことを約束した「長期計画協定」を結んだ。だから、問題の三井鉱山がこ
のほど組合に示した企業再建案でも3000人以上と言われる過剰労務者に指一本触れることが出来ずにいる。三井の組合は28年の
首切り反対闘争で会社側に勝ったことが、自信を深め、それ以後は経営権は労組の団結の前に絶えずよろめき続けてきた。しか
し坑内夫よりも坑外夫が多い三井鉱山は坑外から坑内への配置転換や出勤率の引き上げ、または赤字の炭鉱をつぶして能率の良
いヤマで集中生産をやりたい訳だ。労働能率の引き上げを進めて行かないと石炭業界はもはや立ち直れないところまで来ている
ようだ。
昭和34年3月30日
会社の最終案では6千人の勇退について、「勇退者がでない場合にも希望、指名退職の募集は行わない」とかなり譲歩したよう
な態度を見せているが、組合側は賃金関係などについては変わっていないとしてこれを拒否した。
昭和34年4月2日
三井の交渉、再び行き詰まる。炭労争議のカギを握る三井鉱山の再建案についての団交は、組合側は賃金が実質的に下回るもの
については一歩もゆずれないと主張。会社側は「賃下げが出来なければ人員減による合理化を考える以外にない」として物別れに
なった。
昭和34年4月4日
炭労スト、事実上解決。三井、合理化で歩み寄り。争議の焦点となっていた6千人の勇退問題については、会社側は組合員に
対し強制、勧告は行わずに自由意志によるものとした。しかし退職金も割り増しがつくのでかなりの勇退者が出そうだ。言って
みれば、会社は「名を与えて実を取った」ことにもなる。だが三鉱連は文字通り戦闘的な組合であるだけに、問題はこれからの
政策にあるといえよう。
昭和34年4月10日
日本晴れ 皇太子さま ご結婚。その朝、母の冨美さんが「美智子さんおめでとう」とあいさつすると、
娘は黙って母のひとみを見つめてたそうだ。
昭和34年4月16日
ラマ僧800人が中国の収容所へ。中共軍、チベット各寺院を支配。
昭和34年5月28日
深まる石炭危機。貯炭1千百万トン越す。安い重油に押される。"石炭危機"は欧米でも合言葉になっている。業界自体が
まず合理化に努力し、生産費を大幅に切り下げない限り、石炭業の斜陽化は避けられない。
昭和34年7月3日
三井鉱山退職希望者、職員563人、鉱員1019人と発表。
昭和34年7月25日
大手筋にも波及。不良炭鉱の閉鎖、縮小。九州では特に老朽化の激しい筑豊地方に集中。すでに日本炭鉱山田鉱業所が
閉山を発表している。
昭和34年8月10日
石炭不況による炭坑失業者を救おうと、新しい"助け合い運動"が筑豊炭田をひかえた福岡県下から起ころうとしている。
きっかけは福岡市紅葉町 徳永喜久子さんら主婦10人の集りからで、失業者の苦しい生活を知ってぜひ救援の手をさしの
べようということに一致した。「全国母親大会」にも福岡県代表から全国的な運動に盛り上がるよう提案するという。この
新しい"助け合い運動"は "赤い羽根"にちなみ、石炭を象徴した"黒い羽根"運動と命名した。募金は一人5円から10円ぐらい
を目標としている。
昭和34年9月5日
福岡県の筑豊炭鉱地帯から、ヤマの失業者31人が東京に初の集団就職をすることになり、4日急行”西海”で出発した。
仕事先は東京都品川区北品川のソニー本社 建築工事。筑豊の炭鉱地帯では中小炭鉱がバタバタ閉鎖。約5万5千人の失業者
がいるが、今度は仕送りで妻子に人並みの生活をさせられると31人は喜んでいた。
昭和34年9月10日
福岡の"黒い羽根"スタート。
昭和34年9月14日
筑豊飯塚市の職業安定所には、高利貸しの出店がある。週に1回の失業保険金では追いつかず、生活費を借りるのだ。
失業保険の前借りである。また、ある地域では、高利貸しのかわりに米屋が帳面を持って集金に来ている。一世帯平均
8千円ばかりの生活費が、7割から8割は集金のおばさんのカバンに消えてしまう。そして被保護者たちはバスで山奥の
炭鉱住宅に帰る。
もとは15もあったヤマがどんどんつぶれて、今はふたつしかない。しかし、生き残ったヤマだって危なっかしい。賃金
は安いし、遅配欠配だ。働いても、働かないで生活保護を受けても、収入はあまり変わらない。学校の給食費は出してく
れるし、衣類や蚊帳をもらえる。貧乏なヤマでまともな洋服を着ているのは生活保護世帯の子だ。働く世帯の子がそれを
見てひがむ。どうして役場で洋服をもらってこないのかと親を困らせる。そんなヤマにでもオートレースがはじまると、
主催者の飯塚市から無料バスが迎えに来る。わからない。保護世帯に、どうして車券を買うお金があるのか。毛布一枚百
円で質に入れる。救援物資のセーターなんかも質屋に入ってしまう。「だから、わしは黒い羽根は買いまっせん」と、ヤ
マの駐在はサジを投げている。だが、めちゃくちゃな貧乏物語はまだ続く。去年の夏つぶれたあるヤマの持ち主は12人も
めかけを持っていた。閉山と同時にめかけを整理し、何十万円という退職金をやった。ところがヤマの炭鉱夫の首切りは
タダだ。失業保険さえなかった。小さなヤマの持ち主のやり方はいつもそれだ。戦後4度目の不況。炭価が安くなるとさっ
さとヤマを閉ざす。景気が上向くとまた掘る。掘ってもうけると城のような家を建てる。国宝級の名画、刀剣を買い込む。
金ぱくのスリッパに、金のワクのテーブルをこさえる。だから、そんな小ヤマの労働者は朝鮮動乱ブームの時も、神武景
気の時も、どん底の貧乏から抜け出せなかった。同じ炭鉱労働者でも大手のヤマでは、ずっと安全な職場で、より楽な労
働をして、しかも二倍の月給を取り、テレビアンテナを炭鉱住宅に林立させている。一方、小ヤマの長屋ときたら、畳替
えも出来ない。筑豊では、この辺りのヤマを地獄谷と呼んでいる。保護世帯まで落ちて、そこではじめて安住の場所を見
つけた地獄の労働者たち。おそろしいことだ、と思う。
エネルギー革命という。石油に押されて石炭が売れなくなった。石炭産業に限って回復の見込みはない。それで世界中
の炭鉱労働者が困っているという。それはそうだとしても、筑豊いたるところでみられるこんなめちゃくちゃな貧乏は、
世界のどこのヤマにもないだろう。しかし、テレビアンテナを林立させている大手の炭鉱でも人員整理がはじまった・・・。
昭和34年10月3日
三井鉱山は2日、団交に対し組合側に、遅配している9月分の賃金のうち6割を10月中に、残り4割を11月に払うと回答。
昭和34年10月13日
大量の希望退職者の募集をはじめた三井三池鉱業所は、13日午前3時過ぎ、会社幹部2人が車で募集要項と社長告示を
貼って回った。これを労組側警戒班が見つけ、「首切りを早く撤回するよう上司に報告せよ」と詰めより、集まった労
組組合員や主婦200人が取り囲み、台の上にあげて昼まで約5時間つるしあげた。
なお、会社は12日までに3人の希望退職の申し入れを受付けた。
昭和34年10月16日
筑豊炭田の山田市から15日朝、43世帯196人の鉱員家族が福岡県若松市へ集団移住した。会社側との話し合いで、日炭
三島鉱や日炭高松鉱に配置転換されたもので、その第一陣だった。
昭和34年10月24日
期末手当1600円を要求している炭労の大手八社労組(三井、三菱、古河、明治、北炭、太平洋、雄別、住友)は23日、
各社別に団交を開いたが、各会社は次のように回答した。
三井=ゼロ回答 北炭=社長不在のため保留
他の6社=期末手当ではなく、餅代として一時金支給
昭和34年11月4日
炭坑地帯の失業問題はますます深刻化し、これを救うため民間では"黒い羽根"運動が繰り広げられている。特に失業問題
がひどいのは福岡、佐賀、長崎、山口、福島の五県。その中でも福岡県田川市の室井豊徳炭坑住宅は最近、3人に1人が生活
保護を受けている状態であるという。
昭和34年11月6日
三井三池鉱業所は、三池労組三川支部開発分会長ら6人を懲戒解雇することに決めた。8月下旬から企業整備反対闘争の
ひとつとして三川坑で激しく行われている"職場闘争"の責任を問うたもので、会社側は「故意に会社施設に損害を与え、
業務の運営に支障をきたした」とその理由を述べている。これに対し三池労組灰原書記長は、「組合の組織分裂を図るも
ので、組合に対しての挑戦だ、断固として闘う」と言っている。
昭和34年11月8日
三井鉱山の栗木社長と三鉱連(全国三井炭坑労組連)の畠山委員長は7日夜、東京で再び首脳者交渉に入った。これが
最後の交渉であり、決裂か解決かの局面がはっきりするのは時間の問題とみられる。会社側は六山のうち、三池だけは
2200人の整理予定人員に組合活動者を含めて指名解雇するという強い態度をあくまですてていない。一方、三池を除く
五山は指名解雇も行われず、問題が事実上なくなっているので、三池労組が独走の闘争に入る公算が強いとみられる。
昭和34年11月11日
三井鉱山の企業整備闘争の中で、独走が予想されている三井三池をかかえる人口21万人の大牟田市は、いまや対立の
町になっている。三池労組の翼下にあった三池製作支部の組合員が炭鉱労組の行き方に反対、ほとんど全員が脱退して
新しく三池製作所労組(143余人)をつくったのは先月24日。それ以来全員が工場内にろう城を続けている。その生活は
軍隊式であり、外出など勝手な行動は許されず、家族との面会以外一切の者とも会わないというそんな"かたつむり戦術"
をなぜとらなければならぬのか。
製作所労組の竹原達也組合長は、「もし、ろう城を解いたら、組合員はむりやり三池炭鉱労組への復帰を迫られるだろ
う。あの組合のつるし上げのひどさはわれわれが一番よく知っている」と言っている。
商店街も対立にあえぎだした。市内目抜き通りの商店600軒が朝から"労組のストに反対"して一斉休業。一方、三池労
組を支持する革新商店連盟加盟店430軒は、7万人を動員した組合の決起大会に参加するといった具合。
市議会内の対立も深まっている。10月5日、「三井再建をめぐる人員整理について」で対立。採決の結果、20対19で人
員整理反対派が勝ってからは完全にけんか別れの状態になっている。
昭和34年11月12日
三井三池鉱の団交決裂。炭労あす24時間スト。指名解雇は一時延期。焦点は三池の生産計画を阻害している職場活動家
300人のクビ。
昭和34年11月13日
三井鉱山団交決裂の背景。
三井鉱山がどうして三池の指名解雇に固執したか。それは、三井のドル箱といわれる三池が生産を上げることが第一番で
あるからである。「これほどの好条件のヤマで生産が上がらないのは、職場闘争の指導者がいて、生産計画を阻害している
から」であり、これを排除することが生産を上げることになるからである。職場活動家はいわば企業再建のガンであり、一
方、組合にとっては職場闘争の大切な指導者なのである。どちらにとっても基本的な問題であるわけだ。そして、炭労にし
てみれば三池が敗れれば、今後石炭産業界におこなわれるといわれる7万人の人員整理に抵抗し阻止する立場を失うことにな
り、指名解雇は一種のレッドパージで、これを相手に譲ることは労働組合の「原則」を売り渡すことになるということである。
そういう事情の中で組合側は、「指名解雇を撤回すれば生産体制に協力する」ということでトップ会談に臨んだが、会社側の
指名解雇という基本方針はかわらず、団交決裂となった。そして、「三池は闘争の拠点だ」をスローガンに、三池が敗北する
ことは労働運動の後退であるとして総評、炭労も一歩も退けないとして、三池が広く労使の決戦場と化していったのである。
昭和34年11月23日
三井鉱山再建のカギを握るといわれる「三井三池」の争議は、石炭産業一般の合理化問題もからんで、激しい抗争を続けて
いる。労使ともに長期化覚悟の上で争議に突入した。会社は"指名解雇"をきっかけに一気に決戦の機会をつかむ考えだったと
言われているが、これを迎える組合は、柔軟闘争と称してヌラリクラリと会社の攻勢をかわしている。こうした"超低姿勢"と
言われている柔軟闘争こそ、三池労組の争議と性格とを端的に現しているといえよう。
ここで重要なことは柔軟戦術が組合の内部的な弱さから来たものではないということである。それは週二日のストによって
日産平均6千トン台のペースを維持できるとしていることでわかる。6千トン台を割った場合は会社は赤字になるので、会社に
ロックアウトの口実を与えてしまう。そのために組合は6千トン台を割らないよう、また、それを上回らないよう指導している。
そこで三井三池という組合だが、組合員14819人。組織は152の職場分会を末端組織として、本所、三川、宮浦、四ツ山、港務
所の五支部がある。これに並行して会員13000人の主婦会があり、その両者は居住地では地域分会に所属することになっている。
だが、組合はそうした組織だけに頼っている訳ではない。昭和24年ごろ、組合有志が会社に太刀打ちするために始めた"空想か
ら科学へ"という理論の「向坂教室」における徹底した学習活動によって思想的な裏付けをおこなっている。いまでは向坂教授
のほか九州大学教養学部の奥田、川口両助教授、小島講師、法学部島崎助教授らが、資本論、共産党宣言、帝国主義論、唯物
論から一般経営学などの講義をおこなっている。昨年の三池での学習回数は313回というから、どこかの大学よりも勉強してい
るという声が出るのも当然といえよう。と言っても、理屈だけを並べている訳ではない。あくまで実践本位に取り入れている
ところが、いかなる情勢にも対応するといった組織を形成させることになっているようだ(村上記事より)
昭和34年12月2日
三井三池鉱業所は2日朝、組合員約1400人に対し、配達証明つきの速達で退職勧告状を郵送した。「9日までに応募しない者に
ついては指名解雇することになる」と会社側は言っている。これに対し組合側は、退職勧告状を一括して会社に返上することを
決め、青年行動隊や主婦たちを各炭住街に配置して勧告状の回収を行っている。
昭和34年12月7日
指名解雇に応じるかどうかの期限が迫った大牟田市の労組は、7日退職勧告を受けた組合員の主婦たち家族を集めて団結集会
を開き、家族ぐるみの結束を固めた。三川坑の講堂には約500人の主婦や子供たちまで団結の鉢巻きをしめて集まった。三川坑
から約8キロ以上も離れている熊本県荒尾市の緑ヶ丘社宅から歩いて来た主婦もいる。
昭和34年12月8日
三井鉱山の賃金遅配で大牟田市内商店の売上げはぐっと減り、おまけに「ストは反対」と三池労組を批判した約800の商店は
不買運動やらボイコットで閉め出され、息の根を止められそうになっている。また、革新商店のお客もチケット利用の組合員
ばかりで、支払いは遅れる一方とあって経営は苦しくなっている。
昭和34年12月11日
三池鉱業所は11日朝、三池労組組合員1277人に対し「指名解雇通知書」を内容証明付きの速達で郵送した。整理予定人員は
2210人ですでに901人が一般希望退職に応じている。
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