赤紙ーみいけの年表

昭和28年1月30日
 テレビ、いよいよ明後日から。受像器奪い合い。30円の入場料をとるテレビ劇場なるものまで登場した。

昭和28年3月6日
 スターリン首相死去

昭和28年3月12日
 63日間にわたり、わが労働史上空前の大ストと言われた炭労の大ストライキが終わってから2ヶ月余りになる。ストの激化と共に 基幹産業、ひいては一般産業の生産減を引き起こし、列車も削減されて不況の世相に一段とゆううつさを加えたのはいまだ記憶に 新しい。しかしこの頃では、まだ石炭の需要期だというのに山元にも工場にも石炭は余りだし炭価も下げ足に転じつつある。
 早くも人員整理の声。

昭和28年5月30日
 石炭業界では重油転換、輸入炭、需要者の買控えなどのため、貯炭が激増している。北海道、常磐、山口、西部北部九州の各炭 鉱地帯では中小炭鉱の休廃止、人員整理、基準外労働の抑制等が特に目立ってきているが、一方大手筋炭鉱でも住友石炭がこのほ ど北海道の新歌志内鉱(従業員450名)の閉鎖を決め、三井鉱山が田川第2鉱(従業員580名)の閉鎖をきめるなど、今後この傾向 は全般的に広がるものとみられる。

昭和28年6月18日
 東ベルリンに戒厳令
 東ベルリンでは17日朝から反政府デモが激化。遂に正午ごろソ連戦車から発砲があり、デモ隊から2人の死者を出した。

昭和28年6月24日
 九州では3月以降5月末までに主に筑豊地区の中小炭鉱約60が廃鉱になっている。

昭和28年7月9日
 大手筋炭鉱、一斉に人員整理。
 貯炭激増に伴う炭況不振で中小炭鉱の人員整理は今春来大幅に行われているが、今までに慎重な態度をとってきた大手筋炭鉱 も最近はいよいよ大量整理の決意を固め、三井鉱山にあっては遅くとも今月下旬までに6千人以上の整理案を組合に通告するもよう。

昭和28年8月7日
 三井鉱山、6700名を整理。団体交渉に入る。三井炭鉱労組連合、闘争段階突入指令。

昭和28年8月11日
 失業者2万人を越す。ヤマの休廃鉱が続出。不況の原因は、
  1 外国炭に比べ値段が高いこと
  2 さきの長期ストで重油に切り替えた需要家が増えたこと
  3 夏枯れ
が主なものとしてあげられる。

昭和28年8月30日
 三井、きょうから指名解雇。三池はあすスト突入。一方で希望退職531人。

昭和28年11月12日
 三井鉱山、解雇通知を撤回

昭和28年11月27日
 退職は自由意志。三井鉱山争議、113日振りに妥結。このストで会社の損害40億以上、組合の出費4億と言われている。
 他の大手炭鉱の労組が合理化受け入れに傾く中、三池労組を含む三鉱連だけは113日も闘い抜き、会社側に首切りを 撤回させた。これが「英雄なき113日の闘い」と言われた。しかしこの時から、闘争至上主義的な組合のやり方に疑問 を持った人達が各支部に生まれ、三池労組分裂のきざしがこの時にあったと言われている。

昭和28年12月25日
 25日午前零時、奄美大島は日本に還った。23万人住民の上に及んだ昭和21年2月2日以来8年間の アメリカの統治権は、この瞬間に終止符を打った。この日群島は午前零時を期して、一発の花火を打ち上げ、サイレン を鳴らして全島民に喜びの瞬間を報じた。各家庭のそこそこからドーッと地鳴りのように歓声が起こった。歓声はたち まち万歳に変わった。南方の夜が明けると町中は日の丸の海だった。きょうのために新調された純白と真紅がみいにし にハタハタと鳴った。午前8時半、サイレンが再び鳴り響いた。式典では君が代を合唱。雨のため黒くよどんだ天にどよ もし万歳が三唱された。

昭和29年2月3日
 ガス爆発で15人死ぬ。重軽傷4人。福岡県新労鉱業で。

昭和29年2月6日
 8名が生き埋め。北海道住吉炭鉱で爆発。

昭和29年2月14日
 三池炭鉱三川鉱で送電スイッチ切断。会社側は「この行為は争議行為を逸脱している。現在その対策を検討中」と言っている。

昭和29年2月16日
 "売られる児"は増える。昨年度よりも26%増。年齢低下目立つ。凶作がまた影響?東北各地に見る実情。

昭和29年3月16日
 マグロ漁船、ビキニで原爆浴びる。東大で原子病確認。

昭和29年3月20日
在ソ邦人12000名、数日中に引き揚げ。シベリアからの第一船、8月舞鶴へ。

昭和29年3月22日
 日本兵の死体2千。米海兵隊、硫黄島で発見。名前も判らず。死体は白骨同様。

昭和29年4月30日
 苦境の炭鉱地帯。石炭鉱業にはデフレのシワが他産業よりも早く寄せられ、炭鉱界は日一日と危機に追い込まれている。

昭和29年5月14日
 三井鉱山43億の赤字。昨年の人員整理反対闘争スト(減産70万トンで約40億円の損害)や本年はじめの賃上げ闘争(約5億 円の損害)の損失を隠さず表面に出して注目されている。

昭和29年6月8日
 警察法成立

昭和29年6月15日
 炭鉱不況、さらに深刻。労働省の現地報告。
(福岡)
  400余もあった炭鉱は現在288になった。賃金の約6割は金券(主食の購入券)を渡し、現金は月千円しか渡していない  ところがある。炭鉱における食生活や配給所風景は終戦当時のような状況で社会問題化している。
(佐賀)
  80炭鉱のうち38炭鉱が休廃山した。炭鉱で成り立っていた市町村の財政は窮乏に貧しており、学童の半分は弁当を持って  ゆけない実情で、長期欠席者も多い。社会不安の恐れがある。
(北海道)
  大手筋の炭鉱はいいが、中小企業の炭鉱は休廃山が12ある。稚内にある炭鉱は賃金が5ヶ月も遅欠配し、その日の主食代  に事欠き、従業員はフキとワラビばかり食っているような例も見られる。

昭和29年7月9日
 米軍、北海道撤退を発表。本年中に実現。防衛は自衛隊が担当。

昭和29年9月1日
 釧路炭鉱爆発。34死体を搬出。残る5人も絶望か。

昭和29年9月16日
 中小炭鉱の労組代表、大臣と激論。座り込む。危機に直面している中小炭鉱を救ってくれと炭労翼下の中小炭鉱労組代表28人 が15日、通産省で愛知大臣と会見。

昭和29年9月24日
 第8次中共引き揚げ船興安丸27日舞鶴へ。帰国者は565名。
 久保山さん、死去。死因は「放射能症」。

昭和29年11月13日
 追い込まれた中小炭鉱。苦境の原因はいろいろの点があげられる。長期化に見れば燃料としての石炭の地位が電力・石油の 進出によって相対的に下り坂にあることも考えられよう。しかし、直接的にはやはり一昨年の長期石炭スト以後の重油転換と 石炭緊急輸入が大きく響いている。

昭和29年11月18日
 中小炭鉱の窮状を見る。給食のミルクも弟に。特飲街へ出ていく母親。
 「先生、私の行く先を聞かないで下さい」ーいずれへか奉公に出て行く15歳の少女が教師に送った別れの手紙の一節。九州 筑豊炭田での話である。いまや、筑豊、常磐や北海道の炭鉱地帯からは幾つもの悲惨なニュースが伝えられている。全炭鉱の 9割を占めると言われている中小炭鉱は162炭鉱が休廃山し、賃金の遅欠配が続いている。そして、厳寒期を控えて芋の葉で生 命をつなぐといった状況も見られる。筑豊炭田の或る地区では、電気は切れ、50戸は一枚のふとんに1家族が重なり合って寝 ている。「シャツのほか5点貸し出し金50円」と張り出している質屋もある始末だ。

昭和30年2月24日
 ふとん一枚に親子6人。夫や子供を残して身を売った妻。1円の蓄えも食い物も無くなった家。裸足の子供。九州筑豊炭田に どん底の生活を続ける失業者は2万余り。この1年間でつぶれた中小炭鉱は百数十。大手筋もあえいでいる。  この炭田が抱いている票数は41万2千余り。候補者14人の決戦場である。ヤマは組織票の宝庫だと言われている。炭労を握る 左社、全炭鉱を持つ右社。革新系が炭婦協など主婦を含めた「家ぐるみ」の末端組織を作れば、保守系の突破口は小炭鉱主や ヤマにつながる鉄工業、商店主に呼びかける。  しかし、「失業者の票を取るのが100円札1枚でいい。酒と金が末端までゆきわたれば手応えがある」「3人の子供がイモがゆ をすすっている身には札を出されると迷います」という話も聞かれる。それだけに選管委だけでなく至るところで公明選挙の かけ声も高まってきた。

昭和30年3月29日
 やっと着いた桜の故国。興安丸けさ舞鶴入港。帰国者は815名。しかし、その帰国者の姿が見えなくなっ ても、桟橋には2人、3人、わが夫、わが子が「きょうも帰って来なかった。一体いつになったら・・・」とあきらめられずに 舞鶴港に放心の目を走らせる岸壁の妻、母の姿が見られた。

昭和30年4月18日
 16日夕刻、突然襲ったボタ山津波が食事時の炭鉱住宅街6棟25世帯をひとのみにした。犠牲者の内には35人の子供もいる。

昭和30年6月16日
 三井田川鉱、ガスにより死者4、負傷14人。

昭和30年7月1日
 石炭合理化法案とヤマの動き。「首切り法案」に反対。主婦達も立ち上がる。地元市町村も労組に合流。一方、炭鉱経営者 達は大勢としては法案を支持しながらも、一部にはこれは「値下げ法案」だと反対の気分が強く、業界の足並みはそろってい ないのが現状である。
 ※ 石炭合理化法案
    不況にあえぐ石炭鉱業を合理化して立ち直らせることを目的にして、今国会に政府が提出した。その内容は、
     @ 縦坑開発、生産の機械化 A 不良炭鉱の買いつぶし B 坑口の開設制限
   等で、左右両派社会党や業界から猛反対されている。

昭和30年7月7日
 日共、戦術を転換。「軍事組織」は解体。合法活動面に進出。しかし、これらはあくまでも当面の"戦術 転換"であって武装革命方式の変更ではない、と治安当局は見ている。

昭和30年10月8日
 三井鉱山で合理化案。炭鉱合理化法と関連。組合と団交開始。これに対し、炭鉱合理化法を首切り法だとする炭労が統一闘争 に入ろうという方針をとり、三井鉱山の動きには各方面から関心が持たれている。

昭和30年10月13日
 統一社会党、きょう発足。左右分裂以来、4年振り。

昭和30年11月15日
 「自由民主党」正式に発足。戦後最大の保守党。革新と対立時代へ。

昭和31年1月27日
 石炭業界」は立ち直れるか。カギは賃上げ闘争に。三井・三菱の妥結については、業界の内外に経営権への干渉を認めたものと して業界内外の経営者層に強い批判もある。この際の賃上げはせっかく立ち直り掛けた炭鉱の収益をもとのモクアミにしてしまう と業界では懸念している。

昭和31年2月10日
 炭労の”春季攻勢”対策で苦しい経営者側。栗木三井鉱山社長は9日、次のように語った。
1 労組との協定で”完全雇用”という言葉を使ったのはまずかった。労組にはわずか数人のストで出炭をゼロに出来る部分スト  という武器があるのに対し、経営者の対抗手段としての賃金カットはスト後の増産という形で支払いが行われたという前例があ  って実行はむずかしい。また、ロックアウトも炭鉱では保安上出来ない。要するに経営者は労組と対等の条件を持たない点に  問題がある。
2 炭労の賃上げ要求はいまの経営状況から言って全く無理だが、部分ストに対する対抗手段がない点は政府にも考えてもらいたい。

昭和31年3月14日
 石炭鉱業の大手13社(三井、三菱、北海道炭鉱、住友、古河、明治、雄別、太平洋、貝島、日鉄、日本炭鉱、杵島、大正)は、 14日緊急社長会議を開き、19日から予定されている炭労の部分ストに対し19日からロックアウトを行うとの強行態度を決め、炭労 に通告した。

昭和31年3月15日
 ヤマ元は異常な興奮。三池”街ぐるみ”闘争へ。革新商店連盟(加盟2000店)の加盟店では、「労働者と共に歩こう」と 小さい店員さんまでもが春闘の腕章を付けている。またこの日は月1回の給料日。四山鉱では賃金をもらうため集まった鉱員 や主婦達に組合のスピーカーが懸命に呼びかけていた。給料袋を開く主婦に聞くと、「米屋のカケも半分だけ払って、この金 には手をつけない」という。社宅入口にはいつものように質流れ品の処分市や露店が店開きをしているが立寄る人もいない。

昭和31年3月16日
 三池、今朝から事業場閉鎖。しかし組合ははじめの方針どおり静かに規律正しく入坑。心配された強行就労も座り込みもなか った。こうして会社が準備した鉄条網も無用となり、大牟田市の回りに待機していた警察官もとうとう現場には姿を見せず、午 前8時半には全員が引き揚げた。

昭和31年3月19日
 54山けさ閉鎖。炭労一斉ストに突入。

昭和31年4月1日
 炭労争議、妥結す。中山第二次あっせん案(一時金1200円増額)で。組織力に物言わせた炭労。

昭和31年4月2日
 三池はスト続行。会社側は賃金カット。三井三池闘争、激化。

昭和31年4月16日
 三井三池炭鉱の争議が43日目に終わった。街は一斉に明るさを取り戻した。「石炭の出る大牟田が本当の大牟田ですたい」 と通行人はみなうれしそう。

昭和31年5月15日
 朝日新聞の「親さがし運動」で11年振りに父親がわかり、はるばる鹿児島市から青森県弘前市の父親に 引き取られる15歳と14歳の兄弟。Mさん一家は満州に住んでいた。20年7月、父親は現地応召。母親は子供二人を連れて21年9月 に引き揚げたが鹿児島港で病死。兄弟は身寄りが判らずに同市の仁風寮へ収容された。一方父親はソ連から23年末帰ったが妻子 の消息は判らなかった。そんな中での親子の再会。父親は仕事が忙しく出迎えにはおじいさんが代わりに上京した。母の遺骨を 抱いてきた孫二人と涙の対面に、駅の乗客もすっかりもらい泣きした。

昭和31年7月2日
 帰ってきた中共帰国船興安丸。「島が見えるぞ」の声に帰国者達は船酔いを忘れたように床を蹴って飛び起き、 デッキに駆け上がる。二十数年振りに見る故国の山々だ。だが誰一人手も振らない、声も立てない、ただ帰国者達の瞳は雨雲に煙る 故国の山々にジッと吸い付けられている。海上保安庁巡視船”たつた”は博多湾口北西5マイルで帰国を急ぐ興安丸を迎えた。"たつ た"がマイクで「永い間ご苦労様。ようこそお帰りなさい」と呼びかけると拍手が沸き、「わーっ」と歓声が上がった。

昭和31年8月8日
 上向いてきた炭鉱景気。九州、掘って掘って、また掘っても貯炭場はがら空き。
・ 大手・中小、みな増産態勢
  昨年10月全国的な渇水で電力用炭の注文が増えたのをきっかけに、今年に入ってからも鉄鋼・ガス・造船など主要産業の活況  で需要は増える一方。閉山の一歩手前まで追いつめられていた小山で息を吹き返した所も多い。
・ "夏ボーナス"要求通りにポンと会社に余裕が出来ればボーナスの袋がふくらむのも当然。しかもほとんどが労組の要求通り  ポンと支払われた。中には1回の交渉でまとまって、労組を驚かせた所さえある。ヤマの人達も月2300円ずつ貯金し始め福岡県  労働金庫大牟田支店の貯金はここ1年間に1億1千万円も増えたと言う。
・ 商店街賑わう
  預金が増えるぐらいだから商店街も次第に賑やかになってきた。ヤマの景気は関連産業にも波及した。例えば、三井鉱山では  28年頃2、3ヶ月の手形払いだったのが今では現金払いになった。炭鉱機械をつくる鉄工所も注文は昨年よりも2割も多く、支払い  の悪いヤマは断るといった景気だ。
 しかし、筑豊炭田にはまだ1万人近い失業者が残っている。これが本物の景気になるにはまだ時間がかかると労使双方見ている。

昭和31年11月9日
 ハンガリア国内からの反ソ連軍放送は、「8日こそ、我々がソ連軍の攻撃に抵抗できる最後の日となろう。 いまや我々が捧げることの出来るのは血潮だけだ」と放送した後沈黙してしまった。

昭和31年12月13日
 日本の国連加盟決まる。安保理で全会一致。日ソ国交回復成る。

昭和31年12月26日
 ソ連から1025人、興安丸けさ舞鶴へ入港。遺骨24体も帰る。喜びの声をよそに片隅で涙にくれる人達の 痛々しい姿もあった。樺太にもまだ800人。

 北海道を襲った冷害は大正3年以来の凶作となった。そのため借金苦から自殺したり学校へ弁当を持って 行けない児童が増える一方だ。貧しい農家、漁民地帯では口減らしのために人身売買もかなりの件数にのぼっていると言われて いる。

昭和31年12月30日
 今年の石炭は3年振りの好況だった。暮れのボーナスは大手筋で平均1万4千円。しかし、S子さんの勤めている茨城県高萩炭鉱 の高萩鉱業所は中小企業だから、25日に8000円ほどもらった。まず買いたいものは3人の男の子のシャツだ。モモヒキと一揃いは とても買えない。ボーナスで払う約束で正月用の白菜を買った。年に2回のパーマもかけたい。きょう30日の日曜は公休日。久し ぶりに仕事を休んで高萩の町に行き、子供のシャツを買ったりパーマをかけたりするのだろう。そうしてささやかなお正月の支度 をするだろう。

BACK NEXT