赤紙ーみいけの年表

平成5年1月1日
 チェコとスロバキア 分離し独立
 チェコスロバキア連邦が31日で建国74年の歴史を閉じ、1日午前0時、後継国としてチェコとスロバキアの二つの共和国が 誕生する。冷戦後の欧州で噴き出した民族主義の高まりの一つの結果が、旧ユーゴスラビアなどの場合と異なり、平和な離 別となった。平和的な離別を可能にしたのは、戦前に東欧随一の民主主義を築いた政治風土と、互いに血を流し合ったこと のない両民族の歴史などがあったからだ。しかし、分離に伴う経済的打撃は大きく、平和的分離とはいえ、代償は大きい。

平成5年2月19日
 連合赤軍事件 永田・坂口被告の死刑確定
 「本件各上告を棄却する」ー20年に及ぶ裁判は、開廷宣言から30秒で幕を閉じた。傍聴席最前列中央には、坂口被告の 母親(78)の姿があった。「あさま山荘」で死傷した警察官の家を訪れてお詫びする旅を続け、公判では情状証人にも立 った。息子の死刑確定を確認し、閉廷後も傍聴席に座り込んだまま立ち上がれぬ、白髪の母の姿があった。

平成5年3月26日
 爆発、三井鉱山に責任 三池CO中毒訴訟 原告が勝訴
 1億円の賠償命令 福岡地裁 三井側「判決は遺憾」

 26日午前、福岡地裁民事3部裁判長は、「事故当時、坑道内には爆発を引き起こす可能性のある程度の炭じんがたい積 していたものと認められ、管理に落ち度があった」として、会社側の過失責任を認め、原告側勝訴の判決を言い渡した。

 昭和38年年11月9日、福岡県大牟田市の三井三池三川鉱第1斜坑で、ボタ(粗悪な石炭や岩石)を積み、坑口へ向け上昇 中の10両のトロッコの連結器が2両目と3両目で破断、8両が坑底に向かって暴走、脱線、爆発した。坑内の約1400人のうち、 458人が死亡、839人がCO中毒症となった。約1500人の指名解雇に端を発し、「総資本対総労働の対決」といわれた三池争議 から約3年後だった。
 福岡地検は嫌疑不十分で会社側の刑事責任を不問にしたが、72年から翌年にかけ、CO中毒患者の4家族が提訴、三池労組 主導のマンモス訴訟(410人)がこれに続いた。マンモス訴訟は87年に和解し、これを拒否した32人が裁判を続けた。

 ヤマの女に苦い勝訴 「闘い」が生活だった 「今後も声あげ続ける」
 CO中毒に侵された夫に代わり、立ち上がった妻たちにとって、生きる支えだった裁判に、「勝訴」という一つの区切りが ついた。三池争議からCO闘争、マンモス訴訟への参加、そして和解派との分裂。32人の訴訟の妻たちにとって、闘い続ける ことは生活そのものだった。
 「裁判の仲間がいなかったら、とっくに自殺していた」と永津さん(70)がいう。CO中毒の後遺症で怒りっぽい性格に変 わった夫にろっ骨が折れるほど殴られた。担当医は「夫婦の不和が原因」と言った。親類には「病人相手に辛抱が足りない」 と逆に戒められた。夜中に助けを求めたり、愚痴をこぼせるのは、同じ症状の夫を抱えた原告仲間だけだった。暴れる夫を 前にすれば、悪いのは会社だとわかっていても、夫を憎んでしまう。
 山田さん(55)は何度か荷物をまとめて家を出ようとした。その度に仲間に説得された。しかし、判決が出ても夫の体は 治らない。壊れた家庭は戻らない。今後も生活が変わらないことは、妻たちが一番よく知っている。「終わったわけじゃな い。これからも闘っていくしかないんです」。
 あの事故で、三井鉱山の刑事責任が不問になったあと、裁判で会社の責任を明確にしたい、と立ち上がったのは松尾さん (61)だった。「そうでもしないと夫から逃げだそうという気持ちに負けそうだった」。組合の応援もない。支援団体があ るわけでもない。原告仲間の多くは寝たきりの状態。判決前の話し合いも出来ず、松尾さんがつえをついて意見を聞いて回 った。「自分でもよくやったと思う。三井がこんな強い女に育ててくれた」。「夫の賠償額も請求の一割にも満たない。人の 命はこんなに安いのか。腹の中が煮えくり返って仕方がない」と、判決を振り返る。三井鉱山にかすり傷をつけることは出来 た。が、松尾さんが負った傷がいやされることはない。「事故を社会から忘れさせないため、これからも私たちが声をあげる しかない。でも、生きていくってことは、本当につらいですよ」。

平成5年6月10日
 皇太子さま、雅子さま 結婚の儀 お二人最良の日 パレード沿道に19万人

平成5年7月19日
 北日本に強震・津波 M7.8 通信・交通が寸断 奥尻島300戸炎上
 北海道南西沖地震 死者計176人

平成5年8月12日
 GHQ文書 きょうから公開 中国人連行、手口克明に
 「華北労働事情視察報告書」を書いたのは土木工業協会の主事。炭鉱班と港湾班に分かれて実際の労働状況を見に行き、 再び大使館で落ち合う。視察後の報告会で、すでに働いている炭鉱労働者などをそのまま移入すると現地が困ることから、 「俘虜(ふりょ)を良民に還元し、労工として供出すること」を決めた。
 花岡事件関係では、鹿島組(現鹿島)の花岡出張所長が本社に伝えた電報には、「華労(中国人労働者のこと)800名、 1日午後10時半、集団逃亡。補導員即死4名、重傷2名、軽傷2名」と記されている。
 検事の尋問調書の中で、ほう起のリーダーは、補導員の暴行やまんじゅう1個の食事で毎日病人が出る状況を語っており、 「このままでは皆死んでしまう。悪いことだが、補導員を殺して全員逃走しようと決心した」と訴えている。

平成5年9月29日
 コメ、空前の凶作 冷夏の打撃深刻

平成5年12月1日
 シベリア抑留死者名簿6万人分を引き渡しへ ロシア

平成6年2月23日
 長崎じん肺訴訟 最高裁差し戻す 患者救済へ時効緩く解釈 慰謝料低すぎる
 長崎県北松浦郡の旧北松浦炭鉱で働きじん肺の労災認定を受けた元従業員63人の健康被害をめぐり、生存者と遺族の 計178人が雇用主だった日鉄鉱業を相手取り、慰謝料20億6千万円を求めていたもの。

 「謝罪する考えない」 日鉄鉱業取締役(法務担当)
 原告側に謝罪する考えはない。病気にかかったことはお気の毒だが、我々はそれぞれの時代に最善を尽くしてきた。 ほとんどの従業員は病気にかかっていない。

平成6年3月19日
 北炭夕張訴訟が和解 11遺族に1億3200万円  札幌地裁
 原告の弁護団長は「北炭が支払いを認めたことで、100パーセント勝訴判決に相当すると評価したい」と話し、和解内容 は、北炭が事故の過失責任を認めたものだとの認識を示した。一方、北炭の常務は「家族や関係者の心労に報いるためにも 早期解決を選んだ」と和解に応じた理由を説明した。

平成6年6月6日
 炭鉱の悲劇見つめた30年 三池労組の慰霊祭壇閉じる
 大牟田市の三井三池炭鉱三川鉱で1963年に起きた炭じん爆発事故の直後から、三池炭鉱労組が設けてきた殉職慰霊の祭壇が、 5日閉じられた。
 額に収めて並べられた殉職組合員180人の顔写真とともに、炭鉱災害の悲劇を象徴してきたが、同労組が新築した「三池労組 会館」へ移転するのに伴い、役目を終えた。新会館に建立される三池炭鉱労働者の慰霊碑に引き継がれるという。  殉職者の顔写真はアルバムとなり、新会館の資料室に収められる。現在の事務所は会社側に返還される。
 戦後16000人で結成された同労組も、三池争議での分裂などで現在63人。歴史を伝え、拠点を残そうと会館が建設された。

平成6年7月1日
 自民、社会、さきがけ3党による村山連立内閣が30日、発足した

平成6年7月9日
 北朝鮮・金日成主席が死去、82歳 金正日体制へ

平成6年9月4日
 関西国際空港が開港

平成6年7月9日
「原告全員に賠償を」長崎・旧伊王島炭鉱じん肺訴訟で地裁判決 労災未認定も救済
 じん肺の病像については「重い進行性の疾患であり、現在の医学では治療が不可能で、症状も深刻」として、症状の程度 や経済的困窮度などによって慰謝料を算定した。

平成7年1月17日
 神戸中心に大地震 死者・不明1000人超す
  高速道路やビル崩壊 淡路島震源 M7.2 震度6 救出難航 延焼夜も続く

平成7年2月18日
 三池鉱閉山 社長が明言
 国内に残る4炭鉱のうち最大の三井三池炭鉱の存続問題をめぐって、三井石炭鉱業の久保社長は17日、大牟田市内での講演で、 三池鉱の経営悪化などを理由にあげ、「閉山は避けがたい」と明言した。社長が閉山に言及したのは初めて。

平成7年3月18日
 105年の歴史 空知炭鉱に幕<  北海道炭鉱汽船傘下で、北海道内陸部唯一の炭鉱であった空知炭鉱(従業員547人)が閉山の意向を固めた。空知炭鉱の閉山 により、北海道に残る炭鉱は釧路市の海底炭鉱の太平洋炭鉱だけとなる。空知炭鉱の閉山は、九州に残る三井三池鉱などの存 続問題にも大きな影響を及ぼすことになる。

平成7年3月20日
 地下鉄に猛毒サリン 900人被害 6人死亡 日比谷・丸の内線

平成7年3月30日
 国松警察庁長官 撃たれ重傷

平成7年5月16日
 オウム真理教麻原代表を逮捕 地下鉄サリン殺人容疑

平成7年7月20日
 筑豊じん肺訴訟 福岡地裁支部判決 石炭6社に賠償命令 国の責任は認めず
 1985年から87年にかけて480人が提訴した最大規模のじん肺訴訟。三井鉱山、三井石炭鉱業、三菱マテリアル、 住友石炭鉱業、古河機械金属、日鉄鉱業が被告企業。

平成7年9月21日
 炭労、東京撤退決めるbr>  日本炭鉱労働組合(1568人)は20日、東京都千代田区の日本教育会館にある中央本部事務所を引き払い、札幌市に 移すことを決めた。組合員の激減による財政基盤の弱体化によるもの。

平成7年10月5日
 三井三池炭鉱CO中毒 援護「打ち切り」
 三井三池炭鉱で1963年に起きた炭じん爆発事故の一酸化炭素中毒患者と遺族の援護策として労使間で結ばれている 「CO協定」をめぐり、三井石炭鉱業が「円満解決を図りたい」と事実上の打ち切り方針を労組に通告していたことが 5日、判った。
 協定は来年8年3月に期限切れとなり、これを延長せずに廃止に持ち込むとみられる。患者・遺族からは強い反発が 予想される。
 協定は改定ごとに内容の変化はあったが、在職患者の解雇制限やリハビリ通院への支援、遺族の福利厚生としての 社宅居住などが盛り込まれていた。患者・遺族には生活を支える基盤となっていた。現在、協定対象となる患者は入 院中の重症患者を含め50数人である。

平成7年12月8日
 湧き水で出炭停止 池島鉱
   三井松島産業の子会社、松島炭鉱の池島鉱業所(長崎県外海町)で大量の水がわき出し、11月下旬から出炭が止まっ ている。水が出たのは、海面下440メートルにある第3南坑道先端部で、地下水とみられる大量の水がわき出た。けが人 はなかった。

平成8年2月23日
 元国労組合員 最高裁も勝訴
 国労マークの入ったベルトを着用していたことを理由に、上司から2日間にわたり就業規則の書き写しや読み上げなど をさせられ胃潰瘍が再発したとして元国労組合員(36歳)がJR東日本と元上司に慰謝料などを求めた訴訟で最高裁は、 JR東日本に25万円の支払いを命じ、JR側の上告を棄却した。

平成8年12月27日
 炭都大牟田のシンボル 三池鉄道存続に光 閉山後、三井東圧が利用希望
 三池鉄道は1891年、三池横須浜ー七浦坑間に運炭鉄道として開通したのが始まりで、三池港からJR大牟田駅まで 大牟田市中心部をU字形に囲んでいる。炭鉱全盛期には炭鉱マンの通勤電車としても利用された。地元では「観光資源 として活用出来ないか」との声も出ている。(西日本新聞より)

平成8年12月31日
 三池炭鉱124年 迎える終幕
 「富国強兵、殖産興業」をスローガンに出発し、明治以降の日本の近代化を支えた石炭産業。戦前、戦後を通じ、その シンボルだった三池炭鉱が来年3月末で閉山する。三池争議、三川鉱炭じん爆発事故など、地底で生きる男たちが汗と「い のち」を代償に日本エネルギー史上に大きな足跡を刻み込んだ国内最大の炭鉱は、官営操業から124年、民営化してから 108年で、その歴史に幕を下ろす。
 三井石炭鉱業三池鉱業所によると、百年を超す三池炭鉱の操業で既に採掘した石炭量は約2億8千700万トン。だが、地底 にはその2倍の約6億4800万トンが眠っており、採算を度外視すれば、技術的には約1億9千万トンの採掘が可能だという。
(西日本新聞より)

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