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赤紙ーみいけの年表
平成9年2月8日
「とうとう出て行かなんですよ」 ヤマと苦楽44年 700円炭住と別れ
木下さんは、昭和38年11月9日に起きた三川鉱炭じん爆発の犠牲になった。36歳だった。タエ子さんは33歳。当時の法律
では、40歳以下で子供のいない妻に遺族年金は支給されなかった。三井鉱山が設立した布団カバー縫製工場で働いた。労使
が結んだ「CO協定」で月700円の社宅に住めることはわずかな救いだった。しかし、年度末を期限に退去が命じられた。最
大規模の野添社宅は解体が進む。タエ子さんの家の周囲は鉄条網で囲まれた広大な空き地となり、セイタカアワダチソウが
生い茂る。炭鉱がなくなる日がくるなんて、考えたこともなかった。決して広いとはいえない6畳と4畳半の二間を見回して
いたら、様々な思いが去来して座り込んでしまった。嫁入り道具のたんす、食卓。木下さんの遺体を安置した畳。抱きしめ
て泣くためにかもいに吊した背広。タエ子さんはしばらくの間、親類宅に身を寄せる。(西日本新聞より)
平成9年2月9日
「闘いの歴史 忘れられるとやなかろか」 大牟田の元革新市長 細谷氏告別式
細谷さんは昭和30年から、全国初の社会党公認市長として大牟田市長を2期8年務め、昭和38年11月からは衆議院議員に
9回連続当選した。平成2年に引退。1月19日、84歳で亡くなった。
三池争議当時、大牟田市長として鉱員1200人の指名解雇撤回を掲げてスクラムを組んだ細谷さんをしのび、全国から元炭
鉱マンら900人が集まった。その死と時を合わせるように、三井三池炭鉱の終えんが迫っている。
千葉県から告別式に参列した元三池労組員の弥吉さん(75)は「社会党の存在そのものが私たちの精神的な支えだった」
という。だが、細谷さんの後を継いで衆院議員になった長男(57)は、昨年10月社民党を離党。民主党にくら替えして落選
した。「革新のとりで」は様変わり。社民党も、三池閉山を容認した。「革新の時代が、細谷さんや炭鉱とともに去ってい
く気がします」。告別式会場には、社民党の土井たか子党首や村山富市前党首の姿はなかった。
会場では三川鉱炭じん爆発で夫が一酸化炭素中毒になり、いまも三井鉱山の責任を追及し続けている松尾さん(65)が、
細谷さんの遺影をじっと見つめていた。「被災者の痛みや、労働運動の意義を知る人が次々と亡くなっていく。閉山で、私
たちの闘いの歴史も忘れられるとやないかと心配です」。(西日本新聞より)
平成9年2月12日
「山の神さん」役目終えた 閉山とともに解体
はるか雲仙を望む大牟田市新勝立町の丘の上。炭鉱マンの崇敬を集め、三井三池鉱の栄枯盛衰を見守ってきた「山の神神社」
は、閉山で役目を終え、解体される。
鉱山の守護神、愛媛県の大山祇(おおやまずみ)神社から分霊して、三井鉱山が建てた。祭られた時期は1905年以前としか
記録がない(大牟田市教委)。近くの勝立鉱が出炭を始めた1895年ころではないかという。専属の神職はおらず、大牟田市内
の駛馬(はやめ)天満宮宮司、田尻家が兼任した。
新勝立町の「山の神さん」は三池争議(1960年)ころまで賑わった。大牟田有数の桜の名所。春と秋の大祭では炭住街にみ
こしが繰り出した。夜は露天が並び、坑道補修用の丸太でかがり火がたかれた。炭鉱マンの家庭は競ってお札を買い求め、
自宅に祭った。若い男女の出会いの場でもあった。
「山の神さん」の登り口の旧炭住街には、牛乳工場が進出する。(西日本新聞より)
平成9年2月14日
大牟田市野添社宅の共同ぶろ ふれあいの場 今はひっそり 「寂しかね」
野添社宅は戦後間もなく建てられた三池鉱最大規模の長屋式住宅。炭鉱最盛期には約360世帯が生活し、共同ぶろの半円形
の湯船は毎晩芋の子を洗うような賑わいだった。炭鉱マンたちは係は違っても、知らない顔はない。汗を洗い流しながら
お互い声を掛け合い無事を確かめ合った。三池争議で労組が分裂した1960年は共同ぶろも荒れた。脱衣場で反目する組合員の
奥さん同士のの肩が触れると「わざとぶつかったとな」「なんば言うか」と下着姿でつかみ合い寸前、という場面が何度もあ
ったという。だが、約50ヶ所あった三池の共同ぶろは、相次ぐ合理化で社宅と共に次々に取り壊され、今残っているのはわず
か4ヶ所。共同ぶろにかつてのにぎわいはない。(西日本新聞より)
平成9年2月15日
父の思い出と生きたヤマ 炭じん爆発無念の死 あと継いで33年
椛島さん(52)(大牟田市)は、その時、名古屋にいた。18歳だった。1963年11月9日。テレビの臨時ニュースが「三井
三池三川鉱の炭じん爆発事故」を伝えた。実家の電話は話し中。胸騒ぎがして、夜行列車に飛び乗った。翌朝、下関駅で
新聞を買った。死亡者名簿に父の名があった。実家にたどり着くと、真っ黒な作業着のまま、父が棺に納まっていた。
「頭の中が真っ白で、声も涙も出なかった。だれかに背中をボーンとたたかれ、ハッと我に返った。遺体の着替えを
始めると、左胸のポケットから写真が1枚出てきた。学生服姿の自分が写っていた。涙が堰をきってあふれ出た。
炭鉱マンとして生きるのが父の遺志に沿うと思い、大牟田に帰って64年3月に入社。若い労働者は採用と同時に新労へ
誘導された。三池労組員は露骨な就業差別を受け、雑用しかさせてもらえなかった。そこをあえて父が所属していた旧労に
入った。給料は名古屋時代の半分以下になった。それでも最後まで父と同じ三池労組員として生きる。そして、父がひそか
に自分に傾けてくれた愛情を、同じように妻と二人の息子に注いできたつもりだ。「円満な家庭が私の一番の財産。すべて
あの写真のお陰です」。「ふつうの家庭なら、55歳まで働いて、ご苦労さんとお祝いでもするのでしょうが、それができな
いのがちょっと残念です」とも語った。
下請け 悲哀にじむ 救済かやの外、再就職あてなく
「炭鉱マンの再就職問題が深刻だって?解雇される下請従業員の苦しみも考えてほしい」。社長はこう言って、貯炭の山
をにらみつけた。
三池鉱の下請会社は16社。掘り出された石炭を貯炭場までトラックで運ぶ会社、社宅の共同ぶろを管理する会社、坑道を
支える鉄や木の枠を納入する会社・・・。それぞれがさらに下請けを抱える。孫請け、ひ孫請けを含めるとこの数倍にも上
る。これらの中小企業群が三井三池を支えてきた。ほとんどは労働組合もない。失業手当てが延長される黒手帳、緑手帳を
もらえる下請け会社の従業員はわずかに240人。「解雇する俺もつらいよ」と社長は頭を抱える。
匿名を条件に、下請けの悲哀を語る。「三井さん以外と取引をして、仕事ば減らされたこともあった。三井さんに忠誠を
尽くしたから、これまで食ってこれた」、「おれたちは、ヒヨコやった。えさもらわんと、自分の力じゃ飛べん。だからイ
エスマンばかり育った」「うちの会社には、閉山影響調査のアンケートさえ届かんかった」と不信が募る。三池鉱の従業員
1300人と比べ、再就職対策に差がありすぎる、ともいう。(西日本新聞より)
平成9年2月16日
「諏訪小校歌」歴史歌い継ぐ
「諏訪のかわなみ有明の 海に落ち合う 四山の 炭の都の この町に 我等五百 日々集う」
大牟田市諏訪町の諏訪小学校の校歌。校区内には三井三池鉱業所があり、児童の保護者の約8割を炭鉱マンや関連企業の
従業員が占める。歌詞の「我等五百」の部分は当初「我等一千」だった。児童数は54年に千人を突破、58年には1400人を超
えた。だが相次ぐ炭鉱合理化で、70年代初めには500人に落ち込み、歌詞は下方修正。現在は221人。
しかし、江口校長や元同校教諭らは「閉山しても、学校が炭都の中心にあったことは事実。歌詞を変えるつもりはありま
せんよ」という。校歌が歴史として受け継がれていく。(西日本新聞より)
平成9年2月19日
大牟田、荒尾に2つの水道 「市水」と「社水」
市が供給する「市水」、三井鉱山が経営する「社水」ー福岡県大牟田市と熊本県荒尾市には二つの水道が混在する。市側
は水道一元化を目指すがネックになっている水道料金は、大牟田市の場合、月間使用料20トンで市水が約3000円、社水は
1900円(1トン当たり95円)。
三井の社水は明治42年に始まった。大牟田市の水道事業開始より12年も早い。同市内を流れる諏訪川と熊本県の菊池川に
取水権を持ち、給水対象は当初、炭鉱施設と炭鉱社宅だけだったが、周辺の一般民家へも広がっていった。
「市町村の運営が原則」とする水道法のもと、72年には国の指導で大牟田、荒尾両市と三井鉱山が水道一元化に基本合意
した。行政側は閉山を機に移管を一気に進めたいと、三井側に施設の無償譲渡を申し入れる方針。しかし、三井側は「今の
ところ、水道事業をやめることは考えていない」としている。
生活に重大にかかわる”水源”の行方に、両市民の関心は高い。(西日本新聞より)
平成9年2月22日
閉山目前、大量の遺骨 大牟田の造成地 国策に散った受刑者
黄ばんだ人の骨が数十体、赤土から見つかった。大牟田市新勝立町の工業団地造成地。明治から昭和初期にかけて三池炭鉱
で採炭作業に従事しながら、落盤などで死亡した受刑者たち。長く炭住の地下に眠り、これまで見つからなかった遺骨が、
閉山間近になって出土した。「この人たちこそ殖産産業の人柱」。三井三池の負の歴史を語り継ぐ「大牟田囚人墓地保存会」
代表、浦川守さん(78)は、遺骨を引き取って供養する。
工業団地が出来るまで、この丘陵地は三井三池鉱で最大規模の炭鉱社宅地だった。ここから1キロ余り離れた三池工業高校の
場所には昭和6年まで、坑内で働かせるための、西日本全域の懲役15年以上の受刑者を収容した三池集治監があった。
「炭住が出来る前は受刑者の墓だった」という伝え通り、炭住の土壁から骨の一部が見つかった。丘には「解脱塔」と彫ら
れた石碑。明治21年に集治監吏員が建てたと記されている。閉山と時を合わせるように出てきた大量の骨に、浦川さんは因縁
を感じる。
受刑者が主に入坑したのは宮原立て坑。「修羅坑(シラコ)」「監獄ヤマ」と呼ばれた。集治監から約500メートルの道を、
カキ色の獄衣に編み笠、手足を鉄の鎖でつながれた集団が行進した。昼夜2交代制の12時間労働。看守はムチを用い、怠ける者
には減食刑を科したという。
集治監での死者は記録にあるだけで2400人を超す。その多くは、雑木林だった勝立の丘に埋められた。集治監廃庁後、十数
体は元職員が拾骨したが、本格的な発掘は行わず、全部掘り上げたことにして炭住が建てられたという。
「企業が来なくなるから遺骨のことは公にしないで」と市の担当者が頼みにくる。だが、浦川さんは揺るがない。「囚人労
働者こそ、近代日本の礎。私たちには事実を子孫に伝える責任がある」。(西日本新聞より)
平成9年2月23日
「厚生床屋」
3月末の三池炭鉱閉山で「炭住の散髪屋」の大半は廃業する。炭住の散髪屋は炭鉱マンの福利厚生のために社宅を無料で借り
て営業。「厚生床屋」とも呼ばれる。石炭生産の最盛期、三池炭鉱社宅には、大牟田市と荒尾市に計23店あったという。
しかし、相次ぐ坑口閉鎖や人員合理化で、今残るのは大牟田市内の6店だけ。(西日本新聞より)
平成9年3月3日
三池四山港沖立て坑やぐら 田川で「石炭の語り部」に 33年ぶりの里帰り
大牟田市四山町の三井三池炭鉱四山港沖立て坑やぐらの鉄骨や巻き上げ機など約10トンが3日、田川市の地域おこしグループ
「コールマイン田川実行委員会」に引き取られる。2月に解体されたこの立て坑は、かつて三井田川鉱から三池鉱に移されたも
の。古里で炭鉱の記念塔の材料として利用されることになり、「石炭の語り部」として生まれ変わる。(西日本新聞より)
平成9年3月4日
三池炭鉱 囚人労働者70人の遺骨 無造作に積み重なり 公園造成で見つかる
明治から昭和の初めにかけ、福岡県大牟田市の三池炭鉱で働かされ、死亡した囚人たちと見られる大量の遺骨が同市新勝立町
の公園造成工事中に見つかり、死没囚人の法要を続けてきた囚人墓地保存会(浦川守代表)は解脱塔の隣に新たに合葬の碑を建
立、納骨した。見つかったのは囚人が収監された三池集治監の墓地跡の南端で、囚人を弔うために建立された解脱塔のそば。
遺骨は約70体が深さ約1メートルの地点に12平方メートルにわたって埋められていた。骨は狭い範囲に積み重なり、過酷な坑内
労働で死亡したあとも無造作に葬られたことを示していた。
三池炭鉱の囚人労働は官営だった1883年に三池集治監が設置され、422人が七浦鉱で働かされたのが始まり。民営化され三井に
経営が移った前年の1888年には炭鉱総労働者の7割の約2100人にも上がり、年間70〜100人が呼吸器系の病気などで死んでいったと
いう。集治監では1893年に約2千平方メートルの墓地用地を購入して埋葬を続けていた。
保存会の浦川代表は「長い間、虫けらのように埋められ、お墓参りする人もなかった。三池炭鉱の閉山と時期を同じくして骨が
見つかり、巡り合わせを感じる」と話していた。(西日本新聞より)
平成9年3月8日
公園など社有地買い取り求める 三井側が大牟田市へ
三井鉱山は大牟田市に対し、高取小学校、勝立中学校の2学校用地とは別に、児童公園などに利用されている社有地5ヶ所の
買い取りを求めていることが7日の同市議会で明らかになった。三井側は、土地売却資金を債務返済に充てたい意向。
(西日本新聞より)
平成9年3月12日
「がんばろう」の作詞者 森田ヤエ子さん(69)=福岡県山田市
去年だったかしら、筑豊じん肺訴訟を支える集会が、飯塚であったのよ。4、5百人の参加者に「がんばろう」の歌唱指導をした。
そしたら司会者の女性が私に言うの。「歌のことも、あなたのことも、よく知りませんでした」って。「がんばろう」は古里でも
忘れられているのね。
上山田鉱閉山後、ある人が職を世話してくれたの。決まりかけたんだけど、上司の人が「がんばろう」の作詞者やら使いきらん
ばい」ですって。あの歌を書いたばっかりに日雇いになったんよ。でも、労働者であり続けることができてよかったって、今は思
ってる。「がんばろう」も最近は敬遠されがち。総評の解散式(89年)でも歌ってもらえなかった。三池闘争を指揮した社会党
(現社民党)自身が、労働者に頑張ってもらったら困る政党になっちゃったから・・・。歯がゆさはありますね。忘れてほしくな
いのは、「すべてに疑いを持て」ということ。会社の言いなり、政党の言いなり、組合の言いなりになるな。進路は自分達で考え
て、切り開いてほしい。(西日本新聞より)
平成9年3月13日
与論島出身者の集会所「与洲会館」 返還迫る三井に「置き土産」切望 残して
福岡県大牟田市入船町にある鹿児島県与論島出身者の集会所「与洲会館」で、大牟田・荒尾地区与論会の元会長西脇さん(84)
は言葉に力を込めた。
今月末の三井三池炭鉱閉山に伴い、三井側は西脇さんらに無償で貸していた元社宅の古い集会所を返すよう求めてきた。古里
を遠く離れ、地元の労働者よりも安い賃金で石炭生産に励んできた同島出身者が心をひとつにできる場が集会所だった。
与論島の人たちが三池に集団移住したのは、三池港開港翌年の明治43年。当時島は暴風雨などで農作物が壊滅状態になり、三
井が募った石炭の荷役作業に島ぐるみで応じた。大正時代までに新天地を求めてきた島民は計1226人。
移住二世の西脇さんは昭和11年から三池港や三川鉱で働いた。当時、同島出身者は、言葉や生活習慣の違いから差別的な扱い
を受けることもあり、数百世帯が住んだ炭住の集会所は「与論共同体」を確認する場でもあった。「服従ハスルモ屈服ハスルナ
常ニ自尊心ヲ持テ」。与論会前身の「与洲同志会」の綱領を決めたのも集会所でだった。しかし、三井側の答えは「建物を処
分したい。他の場所を世話する考えもない」。西脇さんはつぶやいた。「島の人は四世代にわたり三井に貢献した。大会社なん
だから、閉山の置き土産にできんことはなかろうに」。(西日本新聞より)
平成9年3月28日
三井は何を残し 大牟田はどこへ 108年 評価と批判
大牟田市議を務めた1970年代後半、橋口さん(65)は、消防車も通らない路地を拡幅しようと「隣接地を譲って」と三井に
頼んだが、にべもなかったという。「骨の髄からケチな会社。出ていってもらった方がすっきりする」。
太平洋戦争末期、同市の三井病院勝立分院で働いた藤井さん(75)は、強制連行された朝鮮人の叫び声が今も耳から離れな
い。収容所で、ひん死の青年が「アイゴー、アイゴー、オモニ」と母親を呼んでいた。「嫌な時代でした。国策とはいえ、
ひどいことをしてきた。坑内事故はまさに地獄絵でした」。
三井三池製作所社長も務めた小林さん(70)は、「寒村だった大牟田をこれだけ発展させたのは三井ですよ。市民一人ひと
りの財産でもある」と胸を張る。「体育館も旧市民会館も建設費の大半は三井が出した。土地だって破格の安さで譲った。
施設に三井の名前をつけていないから気づかれないだけです」。
三池鉱下請会社のアサヒ汽工社長原田さん(48)は、「三井の傘下にさえ入れてもらえれば、ぬくぬくと経営できる中小企
業群ができた。利益は、三井を中心にグループ内だけを循環していた」と振り返る。「栄養源を断ち切られる我々は、閉山で
初めて血を流す。自立をするか、死ぬかだ」。(西日本新聞より)
平成9年3月29日
寂しか・・・その朝、三池は雨 炭鉱マン20年 感慨胸に最後の入坑
三池炭鉱の「最後の採炭」の日がやって来た。29日早朝、まず一番方の炭鉱マンが入坑した。一抹の寂しさと、明日への
不安。整理のつかない思いを胸に、二度と見ることのない坑内の風景を目に焼き付けた。
午前5時30分。雨。運搬係の日高さん(49)は、福岡県大牟田市小浜町の木造平屋の社宅を出た。「かあちゃん、行ってく
るけんね」いつもと変わらない光景。一つだけ違っていたのは、出勤前の日課で仏壇に手を合わせた時。約20年前に亡くなっ
た父に向かって、「きょうが最後やけん」と心の中で報告した。父も筑豊・貝島炭鉱の仕繰り工だった。ハンドルを握りなが
ら、日高さんは、「今の気持ち?何て言うたらいいか、わからん」とつぶやいた。
午前9時。大牟田市の銀座通り商店街は人影がまばら。創業72年の時計店を営む古賀さん(55)は「ヤマが消えても明るい
将来になってほしか」とぽつり。
午前10時の大牟田市役所。ある職員は、「予定されていたこととはいえ寂しい。市民が希望をもてる街づくりを進めたい」
と顔を引き締めた。(西日本新聞より)
平成9年3月30日
三池炭鉱きょう閉山 1207人解雇 最後の採炭 キャップランプに光る涙
日本の近代化や戦後の経済復興を支えた福岡県大牟田市の三井石炭鉱業三池鉱業所が30日閉山する。2月17日に会社側が
閉山を提案してから42日目。労組側の強い抵抗もなく、1世紀を越す採炭の歴史に幕を引く。
採炭最終日の29日は、いつもの通り3交代の出炭作業が行われ、午後10時に「三番方」が三池有明立て坑(福岡県三池郡
高田町)から最後の入坑をした。地域の基幹産業が消えることで、ヤマ元の大牟田市、熊本県荒尾市一帯は地域再生の大き
な課題を抱え込むことになる。
「ありがとう」ヤマに別れ 炭車 最後の警笛
仕繰り工の荒巻さん(54)は入社から33年間使い続け、塗装のはげた三本線入りのヘルメットを持ち帰り、棚に飾った。
三本線は「抵抗、団結、統一」の三池労組のシンボル。坑道の補修一筋。日曜出勤もいとわず、月に29日も働く「がまだし
モン(頑張り屋)」として若手の尊敬の的だった。「仕事に出たら負けんようにきちんとやったから、新労の人もついてき
た」と自負する。
一番方の最終炭車を運転した運搬係の日高さん(49)は、仕事が終わると、炭車をきれいにふいて「長い間ご苦労さん」
と声をかけた。「お別れにクラクションを一発、ボーンと鳴らしました」。愛用したハンドルは持ち帰った。
仕繰り工の池田さん(42)は常一番(日勤)の作業後、同僚100人と坑底に御神酒をまき、炭じん爆発などの殉職者に黙と
うを捧げた。「今まで世話してくれてありがとう」と採炭現場に向かって、心の中でつぶやいた。
三池新労の中村さん(40)は「明日からはみんなバラバラ。海外炭との価格競争に敗れての閉山というのが悔しい」と話した。
生き残り探る2鉱
4月以降、国内の炭鉱は太平洋炭鉱釧路鉱業所(北海道釧路市)と松島炭鉱池島鉱業所(長崎県外海町)の2箇所だけとなる。
共に今のペースで60年以上は操業出来る。関係者の間では世界に誇る高度な炭鉱技術を保持していくため、2001年度の新政策
終了後も、2山か、あるいはどちらか一方を存続させる構想が持ち上がっているという。しかし、国内炭の価格は海外炭の3倍
を超えており、情勢は厳しい。(西日本新聞より)
平成9年3月31日
最後の日 万感交錯 「記念の石炭」で膨らむ作業袋
三池炭鉱に「運命の日」が訪れた。30日、最後の採炭を終え、肩をたたき合う炭鉱マンたち。会社と二つの組合幹部は
会見で、これからの人生への決意と無念をにじませ、他会社に出向した元掘進員はひっそりと閉鎖式に足を運んだ。わき
出る思い出、未練、それぞれの新たな船出。万感の思いを胸に、ヤマに最後の別れを告げた。
同日午前6時20分、一番最後の採炭を終えた3番方の炭鉱マン。昇坑の際、様々な思いが交錯した。「最後のケージが何
とも言えんやった」「自分が掘った坑道を帰りに人車で通った。場所ごとに20年間の思い出がある」「これで坑内を見る
のも最後かと思うと複雑な思い。昇坑の人車が到着した時、がっくりと力が抜けた」
三池労組 ヤマは消えても団結 15人で闘い抜いた
1960年の三池争議を闘い、"日本最強の組合"と呼ばれた三池労組の決起集会が30日午後、大牟田市労働福祉会館で行わ
れた。かつて2万人を超した組合員はわずか15人になったが、芳川勝組合長(54)は閉山の日まで旗を守り抜いたことで
「私たちは会社に勝った」と目を潤ませながら総括した。
終戦から半年の昭和21年2月3日。三池労組の結成大会は、同会館の笹林公園に1万人余が集まって開かれた。それから
51年。約500人が参加した集会の冒頭、ビデオが三池争議や63年の三川鉱炭じん爆発事故の様子を伝える。じっと見入る人、
目頭を押さえる人・・・。「労働者の犠牲の上に炭鉱が築かれた。三池労組は労働運動にさん然と輝く1ページを印した」。
主催者の石橋大牟田地評センター議長が切り出した。炭鉱最後の日、15人のうち、三井大牟田病院で働く一人を除いて全員
が解雇された。芳川組合長は壇上で鉢巻き姿の組合員を背に、「15人で最大限、どういう闘いをやるか苦悩してきた」。
CO中毒で入院中の組合員に話が及ぶと、涙で声が詰まる。「今から就職、住宅問題がある。街の衰退を許さない取り組みを
していくため、協力をお願いします」と締めくくった。最後に歴代組合長、炭鉱主婦会長12人も壇上に上がり、全員でスク
ラムを組み「炭掘る仲間」と「がんばろう」を力強く歌った。(西日本新聞より)
平成9年5月21日
三池港 一部を無償譲渡 三井鉱山社長が言明 福岡県 港湾整備前進へ
三池港は三池炭鉱の石炭積み出しを主とする三井鉱山の専用港。このため公共埠頭がなく、全国で唯一港湾計画を持た
ない重要港湾となっている。(西日本新聞より)
平成9年10月25日
闘争の歴史 ビデオに 三池労組作製 「運動の記録を後世に残す」
3月末に閉山した三井三池炭鉱の三つの労組のうち、ただ一つ存続している三池炭鉱労組が、三池争議や三川鉱炭じん
爆発後のCO闘争などの組合の歴史を記録したビデオ「みいけ」を製作した。ビデオは、組合員や支援者らが断片的に残し
ていた8ミリや16ミリフィルムを編集、55分にまとめた。1959年からの三池争議に始まり、CO闘争、最後の閉山闘争までが
記録されている。(西日本新聞より)
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