赤紙ーみいけの年表

昭和59年1月19日
 三池有明鉱で坑内火災 72人が脱出出来ず CO中毒9人死ぬ 中で40人が倒れる
 18日午後1時50分頃、福岡県三池郡高田町昭和開 三井石炭鉱業三池鉱業所有明鉱の坑口から約3キロ入った海面下 220メートルの坑道で火災が発生した。坑内では約700人が採炭などの作業をしており、同日夕までに600人余が昇坑し たが、92人が閉じこめられた。ベルトコンベヤーの過熱による出火とみられる。福岡県警は18日午後8時、救助作業の ために機動隊レンジャー部隊60人を現地に派遣した。

 有明鉱は最新鋭鉱で、昭和49年に採炭を開始。採炭現場は有明海の下220メートルと320メートル。三池鉱業所全体 の坑道の総延長は320キロに及ぶ。35年の三池争議後、機械化、合理化は急速に進み、35年に14000人近かった三池炭 鉱の在職者はいまでは約5200人。

 ヤマの人たちには、隣の三池三川鉱で21年前に起きた炭じん大爆発の悪夢が今も生々しい。死者458人、CO中毒患者 800人余。うち74人はなお療養を続けている。「なぜこんなに通報が遅れたのか」。会社側の通報体制の甘さをさらけ 出した。福岡鉱山保安監督局に連絡が入ったのは発生から2時間後、大牟田警察署への通報は4時間余も経ってから。 役所や警察も怒らせ、その対応を遅らせた。

昭和59年1月20日
 明暗親子 26時間ぶり父生還 「息子は目の前で・・・」絶句。「息子たちは俺の目の前で死んでいった」。26時間 ぶりに暗闇の地底から救出された藤原さん(41)は病院のベッドでうわごとのようにそう叫び続けた。「父さんだけで も無事だったんだから・・・我慢しようね」。自らに言い聞かせるように声をかけ、泣き崩れる妻と娘。死者83人とい う大惨事を引き起こしたヤマは父と子の運命を非情に引き裂いた。

昭和59年1月22日
 「母と妹を頼む」 有明鉱惨事地底で遺書。最愛の妻の名、そして「母と妹を頼む」。添えるようにわが名も。事故 現場から約400メートル離れた排気坑道の圧縮空気のパイプの上に、最後の伝言はあった。支部長は、「奥さんら遺族に は伝えられない。この心の痛みは炭鉱マンだけにしか分かってもらえないでしょう」と言った。ヤマの仲間として、 「遺書」の走り書きの内容を地上に持ち帰るという業の恐ろしさ、うしろめたさを感じたのだろうか。名前の公表を最 後まで拒んだ。

昭和59年2月25日
 炭鉱用COガスマスクに欠陥 三池有明鉱事故で多数の死招く 高熱発生し火傷 通産省17年間も放置
 問題のマスクは、吸い込む空気が最高117度にもなることが、17年前にすでに専門家の試験で指摘され、火傷の恐れ ありとして改良が勧告されていた。

昭和59年3月15日
 83人死亡の三井有明鉱 57日ぶりに操業 後遺症に悩む仲間多く

昭和59年3月19日
 グリコ社長を連れ去る 自宅に銃持ち二人組 「10億円出せ」と脅迫文 西宮市

昭和59年8月10日
 三菱炭鉱南大夕張鉱で山はね 1人死に9人けが
 山はねー坑道の天井が堅固な場合に比較的軟らかい地盤に地圧が集中して地盤が急激な勢いで跳ね上がる現象。 じわじわ盛り上がるのを「盤ぶくれ」といっている。

昭和59年10月1日
 英炭鉱スト7ヶ月目 支援の労働党も苦境
 炭鉱ストでは、ストに反対する組合員の就労を阻止しようとするピケ隊と、これを規制する警官隊の衝突が次第にエスカ レート、警官隊に対する待ち伏せ襲撃事件も起きた。マスコミは、
 1 鉱山労組は暴力的だ
 2 採算が合わなくても炭鉱の閉山を認めない同労組は非妥協的だ
 3 同労組のスカーギル委員長は組合員の意志を問わずに争議を続けており非民主的だ
と非難を浴びせている。

昭和59年11月14日
 石炭3労組があす大同団結
 石炭関係の三つの労働団体が協力して15日、石炭労働組合協議会を発足させる。斜陽化する石炭産業の中で、労働条件 の向上や雇用を確保しようというもので、戦後初めての大同団結。参加するのは、総評系の日本炭鉱労働組合(1万300人)、 同盟系の全国石炭鉱業労働組合(4800人)、中立の全国炭鉱職員労働組合協議会(2800人)。

昭和59年12月17日
 三池有明鉱 天盤崩れ 1人死亡 採炭支柱を回収中

昭和60年3月11日
 青函トンネル本坑貫通 53.85キロ世界最長 着工から21年

昭和60年4月24日
 三菱高島鉱で火災 坑内の11人死亡 長崎県
 高島鉱業所は高島町唯一の基幹産業。約6500人の町民のうち8割前後がなんらかの形で同鉱業所を頼って生活している

昭和60年5月18日
 三菱南大夕張鉱でガス事故 死者62人 祈りむなし無言の帰宅 包帯で「顔が見えぬ」と遺体に追いすがる妻子
 「家族に見せられぬ」 救助隊員、坑内の惨状を語る
「遺体の一部がもげていた。リュックに入れて運び出した。家族にはとても見せられない」
「手前にあった2、3体は皮が爆風でめくれ上がっていた。乾いてペラペラになり風で揺れていた」

昭和60年8月8日
 滋賀県警山本本部長が自殺。7日午後5時40分ころ、本部長公舎の庭で、灯油を全身にかぶり焼身自殺して いるのを妻が発見。「疲れた」と最近親しい人に漏らしていたという。

昭和60年8月13日
 524人乗り日航機墜落 長野・群馬県境で炎上 坂本九さんも逝く

昭和60年8月21日
 「三池」原告団 13年目の分裂 和解拒否派(30人)が別組織
 和解交渉の受け入れを決めている三池労組(中原組合長)と原告団(約390人)は、すでに新原告団グループを除名して おり、約87億円の損害賠償を求めて提訴して以来、同一歩調をとってきた原告団は、13年目で完全に分裂した。

昭和60年11月3日
 阪神 初の日本一 西武に4勝2敗

昭和60年12月26日
 31億円の賠償 国などに請求 筑豊のじん肺患者ら
 炭鉱の坑内作業で肺を侵されたのは国と会社が作りだした劣悪な労働条件が原因と、福岡県の旧筑豊炭田で働いてじん肺に かかった患者と遺族115人が、国と大手炭鉱会社6社を相手取って総額31億4070万円の損害賠償請求訴訟を26日福岡地裁飯塚支 部におこす。訴える企業は、三井鉱山、三井石炭鉱業、三菱鉱業セメント、住友石炭鉱業、古河鉱業、日鉄鉱業。

昭和61年2月26日
 フィリピン・マルコス独裁政権崩壊 新時代へアキノ政権

昭和61年3月6日
 三菱高島鉱閉山へ 親会社の三菱鉱業セメント決断 累積赤字300億円
 これまでは国内出炭2千万トン体制を国がとってきたため、採炭を続けてきたが、第8次石炭鉱業審議会が国内炭の生産量を 縮小する方針を打ち出すことが確実なため、閉山に踏み切ることになった。高島鉱は年産60万トンで、国内炭全体の4%を生産 しているにすぎない。しかし、従業員は1300人おり、高島町の町民5700人はほとんどが高島鉱関連の仕事で生活している。また、 三菱鉱業セメントにとっても同鉱は、100年余の歴史を持つ発祥の地。

昭和61年3月14日
 国内炭鉱の存続訴え
 国の第8次石炭政策で、国内炭の生産量が減らされる可能性が強まる中、石炭労協(19000人)の「炭鉱(ヤマ)と産炭地 (まち)を守る第8次石炭政策確立中央集会」が13日、東京で開かれ、政府に国内炭鉱存続を求める決議をした。

昭和61年5月22日
 存続可能は3炭鉱 政調会長「閉山はやむなし」
 自民党の藤尾政調会長は22日、北海道横路知事、福岡県奥田知事、長崎県柴田副知事らが現存炭鉱の存続を要請したのに 対し、「鉄鋼業界はムリムリ国内炭を買っている。時間をかけ撤退作戦を考える必要がある」と述べ、一部炭鉱の閉山もや むをえないとの考え方を示した。さらに、存続可能なのは、太平洋炭鉱(北海道)、三井三池炭鉱(福岡県)、松島炭鉱池 島鉱(長崎県)の3炭鉱に絞られると明言した。

昭和61年7月5日
 労組に10億円調達要請 三井三池 7月給料の資金不足
 金策を要請されたのは、わが国最大の出炭量を誇る三井石炭鉱業三池鉱業所従業員の8割が入っている三池炭鉱新労働組合 (組合員3400人)。その要請内容は、「支給総額約13億円のうち不足する10億円を組合の名で労金から借りてほしい」という もの。組合執行部は、「緊急避難的措置としてやむを得ない」として協力する方針。三井石炭鉱業の資金繰りが悪化したのは、 原料炭ユーザーの鉄鋼業界が、基準炭価での支払いを拒否、約3分の1の輸入炭並み価格で仮払いする「実力行使」に出たため だ。これにより、三池鉱業所の場合、月平均15億円前後の減収になる 計算。

昭和61年7月16日
 国の責任問う「筑豊じん肺訴訟」 初の口頭弁論
 国と三井鉱山など6社は、「請求の棄却を求める」と厳しく対決姿勢を示した。

昭和61年8月1日
 国内石炭半減の方向 炭鉱の閉山は必至
 鉄鋼業界などの強い炭価引き下げ要求で、出炭水準は事実上現在の半分の年産800万トン程度に縮小され、大手11炭鉱の 大半が閉山に追い込まれる公算が強くなった。このうち、比較的条件の良い北海道の太平洋、九州の三井三池、松島池島し か残せず、それも減産を迫られるという見方が強い。

昭和61年9月4日
 閉山の危機に揺れる産炭地
 長い歴史を持つ国内石炭産業が存亡の危機に立たされている。採炭条件の悪い国内炭鉱に追い打ちをかけるように、最近 の円高は、国内炭、海外炭の価格差を一気に広げた。鉄鋼業界など国内炭需要業界は「これ以上高い石炭は買えない」と言い 始め、電力業界も引取量を削減しようとしている。4、5年以内に主要11炭鉱のうち8鉱が閉山に追い込まれる、という厳しい 見通しとなった。

(北海道)
 8月下旬、北海道赤平市で開かれた石炭産業危機突破北空知総決起集会。集まったのは炭鉱関係者だけではない。赤平市と 周辺3市町から、婦人団体や商工業者までが駆けつけ、「閉山は地域の崩壊につながる。絶対に許せない」と声を振り絞っ て訴えた。まちを支えてきた炭鉱が死にかけている、という危機感が産炭地に広く、深くしみ込んでいる。産炭地は「閉山」 という言葉はタブーにしながらも、「石炭はいつかはなくなる」と脱石炭を図ってきた。しかし、石炭に依存するところほど 地理的に不便で、企業誘致は思うように進まない。それではと、観光開発に努める自治体も多いが、代表格の夕張市「石炭歴 史の村」ですら、58年の開村以来赤字が続いている。それでなくても北海道は、深刻な経済危機の最中にある。北洋漁業 は日ソ交渉で壊滅的な打撃を受けた。農家は乳価の下落に苦しみ、減反の拡大におびえる。来春は国鉄の分割・民営化で 13000人の余剰人員が生まれる。その上に石炭危機なのだ。北海道は崖っぷちに追い込まれつつある。

 (九州)
 「なんも手を打たんなら、無人島になってしまう。町が消えてしまうかも知れんのですよ」、長崎県西彼杵郡高島町の町長 は、迫ってきた閉山に危機感をむき出しにする。長崎市の南西14キロの海上に浮かぶ周囲6.4キロの島。山肌に高層の炭住アパ ートが林立する。人口約5400人。ほぼ全員が、町の唯一の産業ともいえる三菱石炭鉱業高島鉱にかかわっている。水道、自家 発電所からの電気、二つの共同浴場までが炭鉱所有という、典型的な「一島一町一企業」の自治体だ。これが閉山すると最終 的に町の人口は1000人になる。
 福岡県大牟田市の三井石炭鉱業所三池鉱は、日本最大のヤマであるところから、「最後まで残ることが約束されている」と、 地元は受けとめていたが、事態はヤマの男達の目に見える形で日増しに悪化している。
 「政府の狙いは、国内炭の葬式を出すこと。このままでは例え生き残っても、閉山の順番待ちでしかない」と安永三池炭鉱 新労働組合長はみる。黒田大牟田市長も「鉱業所は大牟田だけではなく、周辺2市2町の文字通りの屋台骨なのに」と先行 きを警戒している。大牟田市は三井グループ8社の企業城下町だが、いくら石炭の危機が叫ばれても、ヤマへの就職希望の若者 の履歴書は200通以上にのぼる。「ヤマがいいんじゃない。行き場がないんです」と中原三池炭鉱労働組合長は声を落とした。

昭和61年10月30日
 国内炭引き取り63年度まで 1000万トン 電力業界初の表明

昭和61年11月13日
 第8次石炭政策の答申案 閉山・離職対策に全力 通産省

 石炭労働組合協議会(約2万人)の野呂会長は12日、「国内炭をつぶす方向を打ち出した第8次政策答申案には賛成出来ない」 と語った。
 日本炭鉱労働組合(総評系、橋本委員長、2万500人)は、第8次石炭政策を不服としてきょう24時間の抗議ストを行う。

昭和61年11月15日
 第8次石炭政策答申案が決まった12日、石炭鉱業審議会委員でもある中田夕張市長は「石炭を離れて地域経済を何とかする にはあと7年欲しい。答申案にはがっかりさせられました」と市長室で肩を落とした。夕張市の試算では、三菱石炭鉱業南大夕 張鉱業所と北炭真谷地炭鉱の2鉱が閉山した場合、市の人口31000人の3割にあたる9200人の失業者が出る。人口は短期間に 12000人までに落ち込み、市の体をなさなくなるのだ。夕張市本町の商店街には、一日中、シャッターを下ろしたままの商店が 何軒もあった。午後8時には客足は途絶え、商店街は真っ暗になる。炭鉱に入る道端には「鉱員募集」の看板があったが、振り 返る人はいなかった。同町の居酒屋に入ると、「ヤマが無くなったら、この街はどうなるのだろう」と酔いの回った中年の男性 がつぶやくのが聞こえた。連れの中年の客が「どこかほかに行かねばならんのかなあ」と受けると、酒の座はとたんにしんみり となった。

昭和61年11月27日
 三菱高島鉱が閉山 全鉱員を解雇
 明治から昭和にかけ105年の歴史を持つわが国最古のヤマ三菱石炭鉱業高島鉱業所は27日、閉山した。866人の鉱員は 全員同日付けで解雇された。ヤマの思い出にと、10キロもある石炭を背負って昇坑してきた鉱員もいた。

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