赤紙ーみいけの年表

昭和54年1月27日
 猟銃乱射 銀行にこもる 警官2人が犠牲 人質約30人 大阪・三菱銀行北畠支店

昭和54年2月27日
 坑外の100人解雇 北炭夕張 大幅な合理化示す

昭和54年3月17日
 元三池労組組合長宮川睦男氏、肺ガンのため死去。62歳。昭和28年から46年までの18年間、組合長を務めた。

昭和54年4月11日
 北海道歌志内市 空知炭鉱でガス爆発 2人死亡、2人重体

昭和54年5月16日
 三菱石炭鉱業南大夕張鉱業所 ガス爆発で2次災害 死者11、不明5人
一次救助隊を襲う ガス突出から4時間後 救助隊を包んだ爆風・炎 続々遺体

昭和54年6月1日
 石炭の復権(上)
 「コールフィーバー」という新語が出来るほど、"石炭熱"が燃え上がっている。イラン政変による石油需給ひっ迫や 米スリーマイル島原子力発電所の事故で、石油や原子力の先行きに暗雲がたれこめ、石炭が見直されているためだ。今 月下旬、東京サミットでも石炭利用が話し合われる。ここでわが国の石炭の現状と将来を考えてみよう。

 炭坑節で有名な九州の三井石炭鉱業三池鉱業所はいま、貯炭の山だ。三池だけではない。三菱石炭鉱業高島鉱業所、松島 炭鉱池島鉱業所など九州の炭鉱は、どこも貯炭の山また山。長崎県西彼杵郡の、周囲4キロしかない狭い島の池島炭鉱 は貯炭場拡張の余地はほとんどない。北海道の産炭地も同様で、貯炭場がなくなった炭鉱では、小学校の運動場を借りての 貯炭。積み出し港の苫小牧周辺では、原野の中に野積みされている。その原因は国内の不況と海外炭との格差。海外炭 に比べ、原料炭は9千円、一般炭が6千円も高い。「採炭技術の合理化もぎりぎりまでやっており、一人の採炭量も昭和24年、 25年の10倍にもなっている。これ以上炭価を下げるのはムリ」と池島鉱業所長。
 わが国の石炭可採埋蔵量は10億トン。全世界の4932億トンに比べるとわずかだが、石油の埋蔵量よりはるかに多い。 だが、オーストラリア、米国、中国など大産炭国に比べて埋蔵の条件が悪い。池島炭鉱採炭現場は水面下650メートルの海底。 坑道の総延長は80キロにも達する。昇降機、人車(軌道車)を乗り継いで1時間はかかる。
 36年には年産5500万トンを超えた石炭も、中東からの安い石油に押されっぱなし。30年以降、790の炭鉱が閉山し、25万7千 人の労務者が離職した。53年度末の炭鉱は29、労務者は2万117人。経済的にも技術的にもわが国の石炭産業は「年産2千万ト ン体制」を維持するのがやっと。
 ところが、最近の石油需給ひっ迫や原油価格高騰で、石炭株が急上昇、大手電力が石炭に逆戻りする情勢となってきた。 石炭の現状はバラ色ではない。だが、石炭が復権しつつあるのはたしかである。

昭和54年9月21日
 暖房炭の売れ行き好調 北炭幌内鉱が増産態勢へ
 灯油不足や値上がりから石油の見直し論が出始め、7月ごろから急速に暖房炭の売れ行きが伸び出した。北海道三笠市の 北炭幌内炭鉱は、10月初めから増産態勢に入る。これまで石炭不振で暗いニュースが続いた山元は久しぶりに活気が出ている。

昭和54年10月20日
 炭鉱が復活! 山口の旧大嶺炭田 SL用にも引き合い
 石油危機による石炭見直しが脚光を浴びている中で、かつてわが国最大の無煙炭田だった山口県美袮市の旧大嶺炭田に、 年産3万トンの炭鉱が復活。11月1日に開鉱式を行い、露天掘りによる無煙炭の本格採炭をはじめる。無煙炭のヤマは昭和 52年2月に閉山した大嶺炭田の大明炭鉱を最後に完全に姿を消していたが、最近の石油不安の深刻化や、現在無煙炭の国内 需要の大半をまかなっているベトナム炭の輸入が中越紛争後激減したなどの国際経済情勢に加え、採炭コストが比較的安上 がりですむ露天掘りも出来る炭層がまとまって残っていたなど、内外の条件がうまく噛み合って、ヤマをよみがえらせた。 この炭鉱は美袮市に本社がある吉部鉱業が開発する美袮炭鉱。
 炭鉱の再開発は、石炭鉱業合理化臨時措置法で原則的に禁止されている。しかし、同炭鉱は、
 1 炭層が海抜200メートル前後の山脈に露出していて開発が容易
 2 無煙炭の供給が不安定になってきている、などの点が考慮された。
 同社の計画では、主に農村を中心に使われている練炭、豆炭用に販売する。この夏から山口線にSLを復活させた国鉄 からもC57、C58の機関車の燃料として引き合いが来ている。従業員は旧炭鉱時代の坑内作業経験者で美袮市に住む約60人 を確保済み

昭和54年10月24日
 懐かしや練炭復活 灯油不足で消費者も自衛? 専用コンロも飛ぶ売れ行き

昭和55年1月9日
 栄光のシンボルで無期限スト
 大牟田市の三池炭鉱労組は財政ピンチのため、同労組の書記労組員3人を8日解雇した。これに抗議して解雇された1人が 事務所前にある同労組にとって栄光のシンボルである記念塔によじ登り、無期限ストを始めた。かつて鉄の団結を誇り、首 切り反対を叫んで三池大争議を共に闘い抜いた仲間が「なぜ俺を・・」と。が、かつて5千人もいた組織は今680人。組合収 入が激減し、幹部は「身内を削る以外に生き残る道はない」と言う。三池の栄光の歴史を知る市民たちも寒空を見上げ、 「昨日の味方はきょうの敵」とハラハラ。

昭和55年1月23日
 サハロフ氏は流刑 夫人と共にゴーリキー市へ 米、ソ連を強く非難

昭和55年3月7日
 閉山した羽幌炭鉱 "宝の山"掘り返そう 町民の暖房用 役場が計画中 現行法では無理だがユニークなアイデア
 10年前に閉鎖した北海道留萌支庁羽幌町の旧羽幌炭鉱を、同町が自分達の手で再開、町民に暖房用の安い石炭を供給 する計画を進めている。埋蔵量はざっと3億トン。この「宝の山」を見逃す手はない、というもの。「再開するならヤマ へ戻る」と希望している人たちを雇う方針。
 だが難題は法律。鉱業法によると鉱物を掘る場合、通産局から鉱区の認定を受け、鉱業権者とならなければならない。 ところが、羽幌炭鉱は昭和45年の閉山により鉱区が消滅しており、「石炭鉱業合理化臨時措置法」で誰が出願しても、 改めて鉱区は認定しないことになっている。

昭和55年5月25日
 日本、モスクワ五輪不参加 政治的要請に屈服

昭和55年11月11日
 産炭地地域振興法 10年再延長を答申 地元の努力も促す 産炭地審
 産炭地域振興臨時措置法は、30年代に相次いだ石炭鉱山の閉山で、産炭地域に多数の離職者が生まれ地域経済の沈滞、 生活環境の悪化などの社会問題を引き起こしたため、36年に国が産炭地域への企業誘致、地元自治体への財政援助など を図るため制定した。10年間の時限立法で、46年に10年間の延長措置をとっている。対象地域は、北海道の石狩地域、 九州の筑豊地域などの216市町村に及び、北海道、福島、茨城、山口、福岡、佐賀、長崎、熊本の8道県にわたっている。

昭和55年12月10日
 ジョン・レノン(40歳)射殺さる

昭和56年8月1日
 北海道赤平市・赤平炭鉱でガス突出 1人脱出、5人不明

昭和56年10月7日
 エジプト・サダト大統領暗殺 中東和平主柱失う

昭和56年10月17日
 ガス突出42人死亡 再建中の北炭夕張新鉱 52人がなお坑内に 火災発生、救助を中止

昭和56年10月17日(夕刊)
 不明の51人も絶望 救護の10人も帰らず 人命軽視に高まる怒り
注水へ抗議の怒号 社長に「お前入れ」"注水"発言は軽率 通産省、北炭社長に注意

 地上から送られる空気を吸いながら坑内で救出を待っていた人たちも、救出に向かった仲間のうち10人も、みんな絶望。 ガス突出に続く坑内火災の発生で、最悪の状態となった北海道の北炭夕張新鉱。
 いらだち、焦り、怒り、悲しみの一夜が明けた。炭鉱の排気口からは青空に向かって一筋の煙が立ち上っている。坑内 火災を示す煙だ。
 「坑内に水を入れることも考えている」。技術担当の常務が話し始めた途端、家族の間から一斉に怒号が巻き起こった。 女性たちからはすすり泣きの声。「勝手に決めるな。自分らで勝手に判断するなっ」さらにやりとりが続いた。
 社長「組合とも協議しまして・・・。ただいま組合幹部が説明に」
 家族「組合?事故の責任は会社にあるんだ。なんで組合が出てくるんだ」
 社長「責任は会社にございます」
 家族「行方不明ってのはな、坑内にいるってことなんだ。あれだけ無線で交信していたんだ。電池が切れるってこともある んだ。ケーブルが切れた可能性もある。お偉方の判断で50人もの人間が死んだって判断出来るのかよ」
 社長「現場は、人間が進めるような状況ではありません」
 家族「近くの三菱大夕張に応援は頼んだのか。頼んでない?自分らでやれるって甘くみたんだろう。なんで頼まない。いま からでもやれ」
 社長「救護隊員の数が増えても、現場に入らなければ意味がありません」
 家族「あんたが行って見てきたのか?社長、お前が行け。行動しろ」
 社長「・・・わかりました。もう一回状況をつかみ、なんとか救出の努力をしてみたいと思います」

 会場を出る社長の背に、「水はいつでも入れられるんだよ。そうしたらもう中にいる人は出せないんだぞ」と、怒りが 浴びせかけられた。

昭和56年10月18日
 2千万トン体制が重荷 政府増産ごり押し 会社、援助欲しさでムリ
 「安全軽視」相次ぐ証言、警報聞き流して作業続行 山鳴りも数日前から
 下請け、また犠牲 死者・不明の4割占める
 映画「幸福の黄色いハンカチ」の舞台になった夕張の炭住街、「もしや」の奇跡待つ

昭和56年10月22日
 「お命ちょうだいしたい・・・」、説明会で声をふりしぼる社長
 坑内水没作業について北炭社長は答弁を重ねたが納得してもらえず、「命をちょうだいすると言え」と言われ、意を決した ように声をふりしぼった。「注水することで命を絶ちます。お許しいただきたい。お命をちょうだいしたい・・・ということ です」と。その一瞬、会場が静まり返った。あちこちで家族が肩を震わせ始めた。

昭和56年10月24日
 ヤマは泣いた。23日午後1時半、北海道夕張市内にサイレンの響き。注水。夕張川の水が、地下1000メートル、数百度に熱せ られた坑道の奥底に注ぎ込まれた。火を消しヤマを維持して、59人を収容するという「坑内水没」。父や兄、夫を失った家族 の怒り、悲しみ、さらに水蒸気爆発という危険を含んで、水はひたひたと暗い坑道へ流れ続けている。
 送水バルブを炭鉱職員が開いた。同時に、夕張市全域にサイレンの音が響き、犠牲者の霊を弔った。鎮魂の音が山々にこだま し、晩秋の空に消えた。4万市民は仕事の手を休め、深々と頭を下げた。59人の家族は、仏壇へ向かい手を合わせ、ジッと動か ない。坑口エレベーターの前にしつらえられた、ささやかなふた差しの献花の前には、作業員300人が集まった。ヘルメットを 脱ぐ者。目深にかぶりうつむいて唇をかみしめる者。鼻をすする音が聞こえ、地上と地下の仲間たちとが断ち切られる瞬間を 懸命にこらえていた。
 新鉱から約5キロ離れた清水沢駅付近でもその瞬間、下校途中の学童や交通巡視員、道行く人が足を止め、新鉱の方向を向い て黙とうを捧げた。
 北炭社長、再建をあせったのが事故の原因と認めた。

昭和56年11月2日
 「組合側にも北炭の再建計画が達成できないことに焦りがあったのは事実」と、炭労委員長は1日、夕張市の臨時大会で 犠牲者に詫びる挨拶をした。

昭和56年11月16日
 遅れる遺体収容作業 北炭夕張惨事から1ヶ月 下請け企業で解雇続出
 北炭に依存する夕張市には、経済不安の影が差し始めた。採炭ストップのままだと今年度、北炭から入る予定の税収13億 3千万円が入らなくなると財政危機を心配する。

昭和57年1月4日
 北炭夕張 再建へ労使決意。夕張市の北炭夕張炭鉱は、49人の遺体をなお地底に残したまま新年を迎えた。正月休みも返上、 1日約250人で遺体収容作業を続けているが、4日は約3000人の全員が就労、坑道の補修作業も併せ、再建へ向け全力を挙げた。

昭和57年1月27日
 103日振りに採炭 北炭夕張 坑底にはまだ44人の遺体が残されている

昭和57年3月29日
 最後の遺体を163日ぶり収容 ほとんどが白骨化し身元確認が難航

昭和57年8月21日
 北炭夕張 閉山を政府了承 2千人の従業員解雇 「退職金さえももらえぬ」 商店街にも不安広がる
 税金数百億円の投入で開発されたヤマが、営業出炭わずか数年でなぜ崩壊したのか。国費を無駄に終わらせた通産省はどう責任を 取るのか。しかも、過去何百と続いた閉山の歴史の中で、労働者の賃金、退職金、社内預金などの労務債を踏み倒すという初めての ケース。北炭経営陣への責任追及の声は厳しいものになろう

昭和57年9月21日
 炭労8年ぶり全山スト。昭和49年8月の北海道・朝日炭鉱の閉山反対闘争以来、8年ぶり

昭和57年10月7日
 沈む炭都・夕張 ヤマの灯が消える日
 グォーッ、バリッ、バリッ。夕張市北部の高松地区でブルドーザーが大きな音をたてて炭鉱住宅をつぶしていく。つい最近まで 鉱員家族が住んでいた、生活のにおいがまだ残る家々を。
 昨年の事故以来、すでに100人以上がヤマを去った。豊島さん(46)は、三井砂川炭鉱の坑内で、5ヶ月前まで一緒に汗を流した 仲間たちの顔を思い浮かべる。「9月は公休も出て満勤。北炭に早く見切りをつけてよかった。でも・・、この寒空に放り出され る仲間のことを思うと・・・」と顔を曇らせた。この不況下、中高年層の転職は、おいそれとはいきそうにもない。
 朽ちかけた棟割りの炭住が並ぶ平和・千代田地区。下請け従業員が住む「組夫長屋」と呼ばれるここには、ヤマ特有の温もりの あるざわめきがあった。いま、クシの歯が欠けたように空き家が目立つ。北炭を支えてきた下請け従業員はこの1年間の再建過程 で真っ先に首切りの対象に。災害当時26社898人だったのが、現在は6社240人前後しかいない。
 夕張市街を見下ろす高台に、今月3日、高さ25メートルの観音像が建った。「炭鉱後」をにらみ、北海道大ぼさつ観光が進め ている「観光霊場作り」の目玉像だ。炭都の再生へ市は「石炭からの脱皮」に力を入れる。「活路は観光事業と開発」という市長 の音頭取りで、昨年7月「石炭歴史村」が誕生した。古い炭層を利用した模擬坑道やヤマの風俗などを集めた六つの施設がすでに 公開された。もうひとつの目玉はメロンブランデー。年間10億円以上を稼ぐ夕張メロンからブランデーを造ろうというもの。
 これらの計画が思惑通りいくかどうか。北炭夕張新鉱は固定資産税、鉱産税、住民税のほか、市営住宅の家賃まで滞納し、市の 債権総額は約13億円にのぼる。この弁済がない限り同市の赤字再建団体への転落は必至だ。
 重苦しい空気の中、ヤマ元では去る者、残る者の選別作業が間もなく始まる。

昭和57年10月16日
 閉山の町で黙とう 北炭事故から満一周年
 93人の犠牲を出したガス突出事故から16日で1年。一周忌を迎えたこの朝、閉山した坑道密閉作業に入坑する坑内員や、多く の遺児が通うヤマ元の小・中学校の朝礼で、それぞれ黙とうをし、改めて仲間や父の冥福を祈った。
 炭住街のはずれにある清陵小学校は午前8時半から約320人の児童全員を体育館に集め、臨時の朝礼をした。校長が、「お父さ んを亡くした14人のお友達は、大きな悲しみをこらえて1年間よくがんばりました。これからもいろいろ苦しいことがあるかもし れないけれど、お母さんを助けて強くたくましく生きてほしい」と励ました後、全員が黙とうした。

昭和57年11月4日
 北海道空知支庁上砂川町の三井砂川鉱で坑内ガス爆発。5人が死亡。

昭和57年11月12日
 ブレジネフ書記長死去 政権の座に18年間

昭和58年2月25日
 戦時中の日系人強制収容 「不当」と結論 米調査委が最終報告書
 「否定された人間の正義」と題されたこの報告書は「12万人の日系人に対する強制隔離政策は、個人個人について調べる ことなく、また、日系人の米国に対する忠誠心などを考慮されることもなく行われた」と述べ、こうした行為になぜ至った かについて「真珠湾攻撃の40年も前から、西海岸地区にあった反日の扇動や法律、日本人に対する人種偏見、敵意が大きな 要素となった」と述べている。
 

昭和58年7月12日
 北炭再建断念の背景
 宇野通産相は11日、横路北海道知事に対し、「再開発は不可能」との通産省の最終判断を正式に伝えた。再開発が無理な 注文であることはすでに明らかになっていたが、政治家のメンツや責任の押しつけ合いが決着を無意味に延ばしてきた。開 発着手から閉山まで、経済合理性より政治判断が優先されてきた夕張鉱の結末は、通産省の石炭政策のあり方に深刻な反省 を迫っている。夕張鉱につぎ込んだ国費は400億円にのぼるが、財政赤字のいま、この大部分を取りはぐれる責任をどうとる のか、何ら明らかにされていない。

昭和58年8月17日
 密閉を開始 北炭夕張炭鉱。作業は9月10日までに立て坑や斜坑、排気坑など6箇所をコンクリートで固め、完全に密閉さ れる。出炭をはじめてからわずか8年にして、深い眠りにつく。

昭和58年8月22日
 フィリピンの野党指導者アキノ氏暗殺される 帰国の直後に銃弾 マニラ空港

昭和58年9月2日
 大韓航空機、ソ連が撃墜 米発表 「269人全員が死亡」

昭和58年10月3日
 ヤマと涙の別れ 北炭夕張 労組が解散大会
 人車坑道前の広場に組合員、家族ら約300人が集まり、組合旗やプラカードなどを焼いて、ヤマの男も女も子供たちも 泣きながら見守った。

昭和58年10月10日
 ビルマ国立墓地で爆発事件 韓国4閣僚ら19人死亡
 全大統領到着の寸前 北朝鮮の陰謀と韓国政府公式発表

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