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赤紙ーみいけの年表
昭和50年1月21日
優秀な技術活用し石炭を開発輸入へ オーストラリアなどへ調査団派遣
石油ショック以来、エネルギーの8割を石油に頼っているわが国の現状を反省し、石炭を見直す気運が高まってきているが、
今度の調査は石炭再開発へ動き出すための第一歩。今ある炭鉱は掘れば赤字、新規の開発などはほとんど不可能という国内を
あきらめ、日本の優秀な探査・採掘技術を海外で活用しようという作戦でもある。
昭和50年3月10日
博多新幹線スタート 岡山ー博多間開業 東京から6時間56分
昭和50年4月30日
サイゴン政府 無条件降伏 解放軍が無血入城 インドシナ30年戦争に終止符
昭和50年5月19日
連続企業爆破事件で7人逮捕 腹腹時計のグループ。「アイヌ、沖縄、朝鮮、台湾人民の反日闘争に
呼応して闘う」という理論に沿って、韓国に進出している企業を次々に狙い打ちしたものとみられている。
昭和50年6月15日
夕張新鉱に見る黒字採炭
北海道夕張市の北海道炭鉱汽船の夕張新鉱が営業出炭を始めて約半月、生産施設の近代化と入念な安全対策を施し、石炭業界多年の
悲願である原料炭の黒字採炭実現をめざす画期的な石炭ヤマー製鉄用の原料炭にとって、それは希望の光といえる。政府は近く新石炭
政策を打ちだそうとしているが、国内石炭資源の位置づけをよほど明確にしないかぎり、せっかくの希望の光も将来を照らすことにな
らないのではないか。(北海道支社報道部)
掘れば掘るほど赤字が増えるのがこれまでのヤマの経営実態だった。巨額の負担に耐えかねて、たくさんのヤマが次々と”安楽死”
を遂げたなかで「黒字」を看板にかかげて登場したのが北炭夕張新鉱だ。国内産では最優秀の原料炭。「黒字」を支えるきめ手は生産
施設の近代化と安全対策である。保安施設のシンボルともいえるのが坑口事務所に設けられた集中管理システム。このほか、坑口と山
ひとつ隔てた住宅区域から鉱員を出動させるため、山に専用のトンネルをぶち抜いてトロリー電車を走らせている。同鉱の従業員の数
は来年春の本格出炭時には1450人になるが、これと同規模の炭鉱だと1800は必要なのが普通。この徹底した省力化で、安い輸入炭とも
競争できるようになる、という期待もある。
コスト高の石炭より、安い石油にエネルギーを頼ろうと政府が38年以来最近まで一貫してとり続けてきたのが炭鉱つぶしの「スク
ラップ・アンド・ビルド政策」だった。この間、620もあった炭鉱はわずか35に減り、16万人の常用労働者は23500人になった。これに
ひきかえ開発された新鉱は、三菱南大夕張鉱と今度の北炭夕張新鉱、それに52年度出炭予定で開発中の三井有明炭鉱(福岡県大牟田市)
だけだ。石油ショックでこうした石炭政策に反省が促され、それまで減らす一方だった生産目標を初めて上向きの数字に切り替えた。
しかし、石炭の前途は多難だ。鉄鋼が最大のユーザーである原料炭は、輸入炭に比べ質的に落ちるし、生産量も少ない。燃料用の一
般炭は国鉄のSL廃止、火力発電の石油転換をはじめ、燃やせばばい煙と硫黄、窒素酸化合物が多いだけに公害問題を恐れて需要が減
るばかり。さらに炭鉱労働者の高齢化。若年労働者がそっぽを向いた結果だ。また、中小のヤマでは一度事故が起きると経営者が意欲
を無くして閉山にするというこれまでの歴史は今後も続きそうだと見られる。
こうした背景のなかで打ち出される新石炭政策には「米と同じような手厚い補助政策が必要だ」との声が強い。北海道、福岡などの
産炭地は知事や市長を先頭に労使ぐるみで政府や国会に要望を続けている。
ヤマ元に活気戻る
夕張新鉱のヤマ元・夕張市清水沢地区は大げさにいえばゴールドラッシュ時代の再来といった趣だ。最盛期には11万7千人を数えた
人口がいまや5万2千人に落ち込んだ斜陽の夕張市で、清水沢地区だけはいま1万2千人と当時の50%増。市役所清水沢出張所は転入手続
きに来る人の応対で職員はおちおち食事をとる暇もない。地区にひとつしかない中学校はすでに教室が満杯。笑いが止まらないのが商
店街。平和鉱の閉山でもらった退職金をふところにした人が多いだけに地区の購買力は急上昇し、2店舗あった生協がこの2年間で4店舗
に増えた。建設途上の新炭住街はこれまでの炭住イメージを一新する鉄筋コンクリートアパートで、都市郊外のサラリーマン団地と変
わらない。二間のすすけた木造の旧炭住から引っ越してきたという主婦は3DKの新居に満足そうだ。
昭和50年7月7日
「石炭見直し」の夕張新鉱でガス突出 5人死ぬ コンピューターのヤマ"安全神話"早くも崩壊
死んだ5人はいずれも今年3月閉山された平和鉱の鉱員だった。第2の職場を求めて、安全だというこのヤマにやってきたのだ。
昭和50年7月16日
住友赤平鉱で落盤 4人生き埋め 1人死ぬ 北海道赤平市赤平
けわしい石炭再建策 負担増へ覚悟が必要
安楽死から再建へー15日、石炭鉱業審議会総合部会がまとめた答申案は、石炭政策の方向をはっきりと打ち出した。だが、安い石油
に追い立てられて衰退してきた石炭が、石油の大幅値上がりによって見直しされることになったからといって、将来も本当に存続出来る
だろうか。問題は、再び石炭が劣勢に立たされたときにある。答申案は、石炭企業を出来るだけ早く黒字経営にすべきだとし、そのため
には「炭価の安定的推移」が必要だという。つまり、石油、輸入炭が乱高下しても、炭価はそれに惑わされず、毎年引き上げようという
訳だ。そしてたとえ石炭が石油より高くなっても、その時は電力業界や鉄鋼業界が負担し、さらに財政からも手助けすべきだというのが、
答申案の考え方だ。これは当然電力料金、鋼材価格の値上がりにつながり、結局は国民の負担が増えることになる。政府も国民も「負担
が増えても石炭は日本に必要だ」というはっきりとした覚悟を決めてかからねばなるまい。そうでなければ新政策も、石炭政策のただの
延長にすぎなくなるだろう。
昭和50年7月18日
皇太子ご夫妻へ火炎びん 沖縄海洋博 沖縄ひめゆりの塔で過激派
昭和50年7月29日
三井四山鉱 落盤で6人坑内に半日 無事救出
昭和50年8月5日
「日本赤軍」アメリカ・スウェーデン両大使館占拠 クアラルンプール
米領事ら50人以上人質 日本政府「仲間7人」の釈放要求をのむ
昭和50年8月30日
三井砂川鉱でガス突出 2人死に3人が重軽傷 危険を感じ逃げる途中 3年連続の大事故
昭和50年9月9日
三井砂川鉱 今度は出水 5人死ぬ
昭和50年11月2日
坑内でガス突出爆発 2人死ぬ 三菱高島鉱 長崎県高島町
昭和50年11月27日
7人死亡、17人が不明 北海道炭鉱汽船幌内鉱でガス爆発 遺体にすがる妻子 北海道三笠市唐松青山町
亡くなった小里さん(35歳)の妻は、包帯が巻かれた夫の腕をなでながら、「夫はいつも、きょうはあっても明日がないかも
しれない、だからきょうを精一杯やろうよ、と話していました。これからは夫の遺志を継いで子供のために生きて行きたい」と、
とぎれとぎれに話した。
昭和50年11月30日
幌内鉱ガス爆発事故 坑内に注水 残り13人の救出断念
昭和51年2月18日
新政策以来の"閉山第一号" 万字炭鉱
明治38年以来、採炭を続けてきた北海道空知支庁栗沢町の万字炭鉱(従業員404人)は17日、「異常な湧き水事故により、
保安技術・採算両面から見て再建は困難」として、3月20日付けで閉山することを同鉱労組に提案した。「現有炭鉱の生産を
維持する」とした政府の新石炭政策が打ち出された直後の"閉山第一号"でもあり、石炭見直し論も事故や災害には無力である
ことを見せつけられた。
昭和51年3月2日
北海道庁で爆破事件 2人死に74人負傷 「旧土人保護法」制定の記念日
道警爆破の同一犯 東アジア反日武装戦線が声明文
昭和51年5月9日
東京羽田空港乗用車トランク詰め殺人事件 犯人は歌手のK 旭川で逮捕
「カムバックに愛人邪魔」 殺しのバラード「おもいやり」 その足で巡業
昭和51年6月30日
常磐炭鉱、全面閉山へ 90余年の歴史に幕
予定されていた閉山ー常磐炭鉱は、磐城炭鉱会社と入山採炭会社が昭和19年合併して出来た。福島、茨城両県にまたがる
常磐炭田は、昭和26年頃の最盛期には125のヤマがひしめき、全国の10%に当たる424万トンを生産した。この中でも、常磐
炭鉱は1社で全国の6%にあたる300万トンを出炭し、群を抜いた大手炭鉱だった。今度の閉山の最大の原因は、高温湧き水に
よる坑内保安の悪化。坑内温度は41度、湿度100%で、坑内員は肌着1枚で梅干しをかじりながら作業をしている。開山以来
の宿命であった高温水についに勝てなかった訳である。1トン掘るごとに5千円の赤字。累積赤字は36億円にのぼっている。
46年の閉山後も同鉱が生き残ったのは、
1 従業員の職場確保 2 いわき市の共同火力への安定供給
3 地元、湯本温泉街への給湯の維持など
地域社会への「御奉公」として閉山を2年間延長していたところへ、石油ショックによる石炭見直しムードにより予定より
3年間"延命"されていたもの。いわゆる今回の閉山は「既定の方針」だったわけで、同鉱にはリプレイする「新鉱」もなく、
「これ以上の採炭は無理」と受けとめている。かつては、石炭買い付けにきた業者が札ビラをばらまき、炭鉱関係者を料亭
で連日もてなす騒ぎも続いた。栄光のヤマの歴史も今秋の完全閉山、坑道密閉により、往時の夢として忘れ去られようとしている。
昭和51年7月27日
田中前首相を逮捕。5億円受領の外為法違反。ロッキード疑獄。
昭和51年8月5日
貝島炭鉱がきょう閉山
かつての"石炭のメッカ"筑豊地区にただひとつ大手として残っていた貝島炭鉱は5日、福岡県宮田町での露天掘りによる
採炭をやめ、218人全員を解雇して閉山する。同社は明治18年開坑で、安川、麻生と並び"筑豊の御三家"と呼ばれた名門。
その閉山により、筑豊地区には中小3炭鉱が残るだけとなった。
昭和51年9月1日
本州最後 ヤマの灯消える 常磐炭鉱西部鉱業所で退山式
「ヤマは役目を果たし90余年の歴史を閉じます」ー8月31日、福島県いわき市の常磐炭鉱西部鉱業所の第一次退山式が
行われ、請負を含む410人に、9月1日付けの解雇辞令が手渡された。10月1日に残り全員が退職、同炭鉱は完全閉鎖する。
昭和51年9月7日
ミグ25が亡命飛行 函館空港強行着陸 ソ連軍中尉、米国行きを希望
昭和51年9月10日
毛沢東主席死去、82歳 中国、厳しい局面
昭和51年11月27日
夫が父が・・・なお地の底に 表札も変えず待つ妻 「もうヤマはイヤ」と子 幌内鉱爆発から満1年
「こんなむごい話があるでしょうか。遺体がある場所もわかっているのに」ー北海道三笠市唐松青山町の北炭幌内鉱が
坑内爆発事故を起こして27日で1年を迎えた。事故後、坑内火災を消すため全山注水という国内の炭鉱では例のない手も
打たれたが、24人の犠牲者の内13人の遺体は今も地下1000メートルを越す坑底に取り残されたままだ。炭住で夫や父の
帰りを待ち続ける8世帯の家では、表札が今も事故前と変わっていない。「主人が帰ってこない限りはずせません」と目
を伏せる主婦ら。悲しみは1年前と同じように続いている。
24人の犠牲者のうち未収容者も含めた9家族がヤマを去り、残る8家族が事故当日と同じように、うっすらと雪をかぶった
炭住で1年目を迎えた。「なんぼか熱いだろうと思って水を入れることに同意したけど、もしかしたらケガをして生きてい
たのでは・・・」。千代さんはいまでも注水に同意した自分を責め続けている。事故後体重が6キロ落ちた。
智恵子さん(40歳)の夫は49年11月に朝日炭鉱の閉山にあい、去年1月に「幌内で第2の人生を」と移ってきたばかりで
事故にあった。「主人が保安係員だっただけに他の人に申し訳ないような気がします。当時は同情してくれた人のなかにも、
今では補償の利子で食べれる、なんていう人もいるんです。そんなカネが欲しいなら自分の主人を殺してみろ、とカネを
ぶつけてやりたくなる時もあります」と目を伏せた。
「父さんが帰ってこないのに葬式なんか出来ない」と合同葬に反抗した長男と長女もやっと気持ちの整理がついた・・・。
昭和52年2月28日
無煙炭の炭鉱が閉山
日本4大炭田の一つに数えられた山口炭田の中で、ただ1鉱操業を続けていた山口県美祥市の大明炭鉱猪木鉱業所が経営悪化
のため、閉山することになった。大明炭鉱はわが国で唯一の無煙炭出炭鉱として生き残っていたが、同鉱閉山で国内産の無煙
炭は完全に姿を消す。現在の従業員は93人。掘った石炭は主に家庭用の練炭に使われていたが、農村部にも石油化が浸透し、
原料の無煙炭が売れなくなった。
昭和52年4月2日
炭鉱で爆発3人死ぬ 2人重体 6人けが 長崎
長崎県西彼杵郡外海町池島 沖合3キロのおおひき島にある松島炭鉱池島鉱業所(従業員2355人)のおおひき坑で爆発事故
があった。おおひき島は池島の南西にあり、海面から深さ650メートルの海底で坑道を横に掘り、両島をつなぐ予定で掘削を
続けていた。
昭和52年5月7日
三井石炭鉱業に有明炭鉱を合併 新三池500万トン出炭体制へ
「これに伴い、大牟田市の宮浦鉱を三川鉱に統合する」との合理化案を決めた。有明炭鉱と三井三池(宮浦、三川、四山の
3鉱)は、共に海底炭田として鉱区が隣接しており、合併により硫黄分が少なく原料炭として利用度が高い有明炭と硫黄分の
高い三池炭との泥炭による「売れる炭づくり」などの総合開発を図るとしている。
昭和52年5月12日
三井芦別鉱でガス爆発 犠牲者25人を確認 北海道芦別市西芦別町 三井石炭鉱業芦別鉱業所
午前6時半、救護隊が上がってきた。「ご苦労さん」。坑口を固めた仲間から声が飛ぶ。「坑道は思ったほど壊れていない。
しかし、すごい圧風が吹き抜けたんだろう。無残な死に顔だった」と保安係のひとりがつぶやいた。毛布にくるまれた夫の
遺体が自宅へ向かったとき、妻の裕子さん(26歳)はこらえきれずに泣きじゃくった。炭山まつりで賑わう炭住街はどこも
玄関の戸を閉め切ったままひっそりとしていた。事故を知らずに、祭で着飾った子供たちが外ではしゃぎ回っていたのが、
なんとも痛ましかった。
坑口で待ち構える坑員は、口々に「起こるべくして起きた事故だ」と会社側を非難。ある坑員(32歳)は、「7日に爆発事故
現場近くで仕事をしていたんだが、ガスが2.5%もあるのに上役がハッパをかけろということでハッパをかけさせられた。本当
なら1.5%で待機しなければならないことになっているのに・・・。全く会社のやり方はむちゃくちゃだ」と怒りの声も。
また、夫(42歳)と長男(18歳)の二人をいっぺんに失った美代子さん(42歳)は、「祭で明日から休みになるので、仕事
から帰ったら酒でも御馳走しようと用意していたのに・・・」と泣き崩れていた。
医師の話によると、病院で亡くなった斉藤さん(27歳)は、爆風で吹き飛ばされた岩に叩きつけられたらしく、頭蓋骨、
ろっ骨5本、脚骨が折れ、全身に無数の炭じんが突き刺さり、まるで散弾銃で撃たれたような状態だった。出血多量と呼吸
困難で、手のほどこしようがなく、「苦しい、苦しい」と叫びながら死んでいった、という。廊下でジッと手当ての結果
を待っていた家族やヤマの男たちから、せきを切ったような泣き声が。「こんな悲惨な事故は、もうたくさんだ」と誰か
が叫んだ声は怒りに震えていた。
北炭幌内鉱事故からやっと復旧のメドがついた矢先の事故だけに、「大事故さえ起きなければ」が、石炭関係者の合言
葉のようになっていただけに、札幌通産局や石炭業界は苦悩の色に包まれている。三井芦別鉱は、現在、北海道のヤマで
は太平洋釧路炭鉱に次ぐ2番目の主力炭鉱だった。今後の政府の石炭新政策遂行にも重大影響を与えそうだ。
昭和52年7月4日
50年11月、24人の犠牲者と7人の重軽傷者を出した北炭幌内鉱の坑内爆発事故で、坑内に残された13遺体のうち、
最後の1遺体が3日朝、約1年7カ月ぶりに収容された。
昭和52年9月29日
バングラディッシュ・ダッカ空港の日航機乗っ取り、政府9人の釈放をのむ
奥平・大道寺らと刑事犯2人 日本赤軍派「軍事作戦」と声明
昭和52年10月18日
人質86人、救出を強行 乗っ取り、108時間ぶりに解決
西独、第2の"エンテベ作戦" 特別部隊が突入 犯人4人を射殺 人質5分で脱出
西欧、テロとの戦いに自信
昭和52年12月26日
笑い武器に全体主義と闘い88年 チャップリン氏死去
昭和53年5月20日
「成田」厳戒下の開港 けさ2万人集会 13000人の機動隊配備
昭和53年5月1日
三井三池鉱 炭車暴走 人車に激突 1人死に103人がけが
30日午前7時20分ころ、大牟田市四山町の三井石炭鉱業三池鉱業所四ツ山鉱で、坑底の人車(20両編成)に、石炭を積んだ
30両編成の無人炭車が約4キロ暴走して突っ込んだ。炭車の事故でこれほど多数の死傷者を出したことはこれまで例がない。
昭和53年6月13日
東北中心に大地震M7.5 死者21、けが365人 震源・宮城沖
昭和53年7月28日
今年度の石炭計画 閉山初めてゼロ スクラップアンドビルドひとまず終止符
石炭業界は、昭和20年後半から30年代にかけて激しい不況とエネルギー源の石油への転機により苦況に立たされ、30年に
臨時措置法が成立。能率の悪い鉱山のスクラップ政策が始まった。初年度には閉山がなかったものの、翌年からは毎年閉山
する炭鉱が続き、31年度から52年度までに898鉱、6465万トン分がスクラップされた。今年度の閉山計画がゼロになるのは、
20年間続いた炭鉱の整備が一段落したことを物語るものだ。また、新しく鉱山を開発するには、年産100万トン級を約300億
円の資金が必要と言われるので、当分は新鉱も開発出来ず、今後しばらくの間は、大手7社(三井、三菱、住友、太平洋、常
磐、北炭、松島)12炭鉱による生産体制が柱になる。
昭和53年12月10日
円高時代 もてぬ国内炭
国内炭の値上げをめぐって通産省と電力会社が対立。今年度の石炭価格が宙に浮いている。対立の原因は、円高で国内炭
の価格が輸入炭や石油にくらべてあまりにも高くなり過ぎたため。だが、政府の石炭政策がその場しのぎで進められてきた
ことも大きく関係している。
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