赤紙ーみいけの年表

昭和46年1月24日
 「日炭若松」が閉山へ
 公害規制がきびしくなり、硫黄分の多い同社の石炭が売れなくなったのが主な原因。日本炭鉱=本社 福岡市。 昭和20年7月、日本鉱業の炭鉱部門が独立して設立。事業所は若松鉱業所だけだった。

昭和46年2月17日
 過激派学生集団「京浜安保共闘」銃11丁、弾500発を強奪。

昭和46年2月18日
 閉山間近 広がる重苦しさ 常磐炭鉱磐城鉱業所
 5千人近い失業者をどうするー88年の歴史を持つ本州ただ一つの大手炭鉱として知られている岩手県いわき市 常磐炭鉱磐城鉱業所 の閉山の影響は、まるで目の前のズリ山が崩れて来るような重苦しさで広がっている。解雇される4千9百人の全従業員のうち1400 人は新会社や系列会社に回ることになっているが、残る3500人の身の振り方はまだメドがつかない。それに、親会社と運命を共 にする下請け企業の失業従業員も千数百人いる。衰退する一方の石炭業界にあって、合理化に努め、生き延びてきた常磐炭鉱だが、 ”高硫黄炭が大気汚染の元凶”と嫌われてきたのが命取りになり、閉山の時期が一挙に早まった。会社側には退職金の融資はなく、 閉山交付金に頼らなくてはならないという。

 ヤマの男たちの行く手はけわしい。
 いわき市常磐湯本町ー立ち並ぶ温泉旅館の湯煙の彼方の丘に、同鉱業所のズリ山がそそり立つ。ふもとにハモニカ長屋と呼ばれる 炭鉱住宅街が石炭のばい煙に汚れズラリと並んでいる。この住宅に住んでいるのは5800世帯、2万人。常磐炭鉱の前進は、明治16年 創業の磐城炭鉱だから、2代、3代と石炭を掘ってきた”ヤマ一家”も多い。40代のヤマ男達は言う。「穴掘りしかしたことのねえ 俺達だ。失業したらみじめになる。子供が高校を卒業するまで新会社に残してもらいてえ」。
 常磐炭鉱がいわき市(人口33万人)に落とす金は、年間76億5千万円。市全体に与える影響も大きい。いわき市長はこの閉山を、 「市の屋台骨がゆすぶられるような」と表現した。下請け企業を含めるとヤマに働く人と家族は約3万人。ヤマに働く人たちの購買力 に頼っていた地元の一般商店200店もピンチだ。従業員達が当面頼らなければならぬのは退職金だが、平均年齢42歳。その退職金 は鉱員260万円、職員429万円となり、いずれも分割払い。ヤマがダメなら常磐湯本の生きる道は観光や温泉だが、その温泉も 石炭と共にある。炭鉱が経営するハワイアンセンターも旅館62軒も、西部鉱から湯が送られていた。地底から配湯する費用年間12 億円も、炭鉱会社が負担してきた。2年後には閉鎖するこの西部鉱と共に、温泉をどうするーの難題にもぶつかりそう。一時は全面 閉鎖と腹を決めていた経営者が、段階的閉鎖に方針を変えたのも、この温泉問題が大きな理由の一つだった。

昭和46年2月22日
 成田空港 強制代執行始まる。反対派1500人を結集。

昭和46年4月29日
 閉山申請出す 常磐炭鉱磐城鉱 3800人を解雇
 5月8日新会社の常磐西部炭鉱会社(従業員1065人)が発足するが、それでも約2千人が県外就職を余儀なくされる。

昭和46年6月27日
 北海道・住友石炭奔別鉱閉山、本決まり 7月30日限りで閉山し2300人全員が解雇される

昭和46年7月17日
 住友歌志内鉱でガス事故 全員絶望の恐れ 20遺体確認 残る10人救助難航 炭住街包む悲痛な叫び

昭和46年9月15日
 最過激派集団の赤軍派と京浜安保共闘の合体による「連合赤軍」が武闘宣言

昭和47年1月13日
 3月末に閉山 日鉄伊王島。日鉄鉱業伊王島鉱業所(長崎県西彼杵郡伊王島町)は、3月15日で採炭を終了し、3月30日閉山、 従業員1400人を解雇すると組合側に通告した。

昭和47年1月25日
 奇跡の元日本兵 28年振り発見 グアムの密林 横井軍曹

昭和47年2月17日
 坑内8650メートルから生還 大牟田三池鉱 落盤・・・8時間後救助

昭和47年2月19日
 ガス突出 9人が死ぬ 5人救出 北海道岩見沢市・朝日炭鉱

昭和47年2月20日
 過激派 婦人を人質に5人 "ろう城"
 南軽井沢 会社の保養寮に逃げ込む 発砲し抵抗

昭和47年2月29日
 泰子さん218時間ぶり救出 連合赤軍5人を逮捕 殉職2、負傷12人 警官に大きな犠牲  犯人の父親(大津市粟津町)が自殺
 家人や警察の話では、家族3人でテレビの「浅間山荘」攻略の実況中継を見ていたところ、午後6時前、テレビが 「機動隊員が屋根裏に入るところ」と放送した直後、父親はスッーと席を立ち、いなくなった。捜したところ、同 6時10分頃、便所前の土間のかもいに洗濯物を干すロープをかけ首を吊って死んでいたという。背広の内ポケットか ら「・・・死んでおわび申し上げます。あとに残った家族を責めないで下さい・・・」と走り書きした遺書らしき ものが見つかった。

昭和47年3月11日
 "粛清"の全容わかる 連合赤軍 男8人、女4人
 榛名山アジトで8人の死体確認 人民裁判=総括=死刑 底知れぬ恐怖と独善

昭和47年4月17日
 川端康成氏、自殺 遺書は見当たらず 日本の伝統美を終始追求 ノーベル賞(文学)初受賞者

昭和47年5月15日
 沖縄県スタート 戦後27年 祖国に復帰 険しい前途 曇った空に日の丸 涙ぬぐう人 押し黙る人

昭和47年5月31日
 日本人ゲリラ3人が乱射 テルアビブ空港の待合室 死亡26、重軽傷72 犯人2人死に1人を逮捕

昭和47年7月22日
 第2豊州炭鉱の閉山きまる。福岡県田川郡香春町中津原の第2豊州炭鉱(従業員456人)が7月25日で閉山、全員解雇される ことになった。これで、最盛期には265あった筑豊のヤマは10鉱になる。

昭和47年9月6日
 アラブ・ゲリラがミュンヘン五輪襲う 人質も全員死亡 「黒い9月」の犯行 

昭和47年11月3日
 ガス爆発、31人不明 煙で入坑出来ず 石狩炭鉱
 北海道空知支庁奈井江町東奈井江327  石狩炭鉱(従業員130人)は、昭和36年三井砂川から分離、設立された小炭鉱で、 鉱業所は石狩鉱業所のただ一つ。

昭和48年1月9日
 山野鉱が閉山。福岡県嘉穂郡稲築町の山野鉱業は、坑内条件の悪化に伴う経営難から3月末で閉山することを決めた。同鉱 は、石炭王国筑豊に残っている最大のヤマ。2千人近い従業員を抱える山野鉱の閉山は、山元の稲築の地盤沈下だけにとどま らず、同鉱が筑豊炭田の最後の砦と言われているだけに、関係方面に与える影響は大きい。最盛期には265を数えた筑豊の炭 鉱も6鉱を残すだけとなる。

昭和48年1月10日
 三池炭鉱労働組合の一組合員だった楠元辰雄、肺ガンにより京都において死亡。享年61歳。父はたばこは全く吸わなかった のに肺が真っ黒だったという。炭鉱夫時代に日常的に吸っていた炭塵の影響があったのか。

昭和48年2月25日
 足尾銅山360年の幕閉じる
 わが国の「公害の原点」と言われる栃木県足尾町の古河鉱業足尾銅山が24日、閉山した。

昭和48年3月10日
 崩落、6人生き埋め 三井砂川鉱
   三井砂川鉱ー大正3年創業。直轄従業員約1500人。道内では大手炭鉱の一つ。北海道空知支庁上砂川町に所在。

昭和48年3月13日
 77時間ぶりに助かる スルメ一枚を頼り 狭い空間に1人潜む 他の5人は遺体で発見 三井砂川鉱事故

昭和48年4月9日
 巨匠ピカソ死去 91歳

昭和48年5月11日
 87億円請求しマンモス訴訟 炭じん爆発で三池労組
 昭和38年に死者458人と一酸化炭素中毒患者800余人を出した「三井三池三川鉱炭じん爆発」事故で、三池労組 (組合員1300人)は三井鉱山を相手取って、総額87億円の損害賠償請求訴訟を福岡地裁におこした。これら原告 は同労組関係だけで死者の遺族を含む422人にのぼり、炭鉱災害で会社の民事責任を法廷で追及する組合ぐるみの マンモス訴訟となる。

昭和48年5月30日
 常磐炭鉱西部鉱業所で坑内火災 猛煙の中、287人を救出 3人死に25人中毒症状 福島県いわき市渡辺町

昭和48年6月26日
 北炭夕張鉱で崩落 1人死に2人が不明 1人救出 夕張市小松

昭和48年7月21日
 アラブ・ゲリラ 日航機乗っ取る オランダ離陸直後 「革命組織のため」と機内で演説 犯人は日本人か

昭和48年8月9日
 金大中氏(韓国元大統領候補)誘拐さる 白昼、都内のホテル

昭和48年8月31日
 三井鉱山は30日、石炭生産部門を分離し、三井石炭鉱業として発足させた。有吉社長は記者会見で、「親会社は海外 で石炭を開発し、液化して日本に運ぶことを目標とする」と再建計画を語った。また、分離会社については、「三池、 砂川、芦別の3鉱業所は閉山するようなことは絶対にしない」と言っている。

昭和48年9月12日
 チリ 軍・警察がクーデター 社会主義政権に幕 アジェンデ大統領自殺か 口に銃弾

昭和48年11月10日
 三池炭じん爆発CO闘争 やっと法廷 10年目に口頭弁論開始
 「会社側が合理化・経費節減により、坑内にたまった炭じんに対する散水・炭粉散布などの安全対策をしなかったため」 と事故の原因を強調、続いて遺族やCO中毒後遺症に悩む患者たちの生活実態について陳述した。

昭和48年11月23日
 常磐・茨城が石炭増産へ 石油不足で脚光浴びる
 通産省は石油エネルギー不足の緊急対策として、いったん切り捨てた石炭資源の再活用を打ち出し、常磐炭鉱の茨城鉱 業所に増産協力を要請した。増産した石炭の大半は、福島県いわき市にある常磐勿来火力発電所に回されるという。

昭和48年12月10日
 炭労緊急大会 石炭増産には応じぬ 政府の一時しのぎを警戒
 エネルギー危機 石炭捨てたバチだ 炭労元委員長原茂氏語る
 ごはんを炊くプロパンがない、と主婦が悲鳴をあげる。個人タクシーは燃料倒産に追い込まれ、あくどい燃料屋が灯油をため込む。 これから日本人はどこへ行くのかー「答えは一つです。石炭という貴重な国産エネルギーを投げ捨てて、丸裸になった。そのバチが 当たったのです」。かつて世間が石油へ石油へと血道をあげていた時代、11万人の首切りに反対して三池の大闘争を指導し、敗北 した炭労元委員長は、いま静かにこう話した。
 エネルギーを使う電力、鉄鋼、自動車、化学などの主要産業は戦後、争って石炭を石油に切り替えた。ただ石油の方が安く手に入 るという理由だけで。石炭で働く労働者も企業も邪魔者になっていった。「国中が寄ってたかって全国のヤマを取りつぶした。経済 界、財界は元来欲望の固まりみたいなものだから、安いエネルギーに走ったのは当たり前かも知らん。だが、それにもっともらしい 理屈をつけた御用学者たち、エネルギー政策を全く持ち合わせなかった政府の責任は重大です」。自分の国の石炭を持たずに石油を 売ってくれと外国の石油資本に頼むのは、足下を見られて値段や量を相手に決められるだけ、と原さんは言う。「北海道や九州には、 無尽蔵に近い石炭があるんです。それを例えば10年後に1億トン、20年後に2億トンと長期採炭計画を立てるだけでも、高姿勢の外国 石油資本とせめて対等に話し合うきっかけになりはしないか・・・」「将来へのしっかりとした石炭エネルギー政策を立てないで現 状のままの下手な増産は、ヤマの事故につながるだけ。それにいまさら石炭が見直されたからといってすぐ集まれと言われても、 もう労働者はこないでしょう。捨てられた女房と同じ心境ですから・・・」。原さんの言葉には、爆発事故と閉山のくり返しでヤマ を追い散らされた40万人以上におよぶ労働者たちの、悲痛な気持ちが込められていた。

昭和48年12月22日
 石油「緊急事態」を告示 石油・電力20%減 テレビ時間制限・広告ネオンの禁止・バー閉店早める

昭和48年12月22日
 完成した「筑豊石炭鉱業史年表」 波乱の跡 忠実に記録 学者・民間研究者が協力
 時代は天保元年から昭和43年までの約1世紀半の歴史を年表形式で記録した700ページの大部。昭和43年、地元田川市で 石炭資料収集に当たってきた民間団体田川郷土研究会は、自らの手で記録する以外にないというせっぱつまった動機から だった。しかしいくつかの壁が立ちはだかり、いくつかの挫折の危機があった。それを乗り越え、持続させたのは何か。 「石炭産業の無惨な崩壊に対する抗議と、過去、現在を直視することで将来を展望しようとする共通の視座」とスタッフ 40人は口をそろえる。また、田川郷土研究会事務局長は、「筑豊に生まれ育った私たちが、私たちの郷土の歴史を総括し、 その体験から未来を掴み取る手がかりがほしかった。いってみれば、あとに続く世代への私たちのメッセージだ」と語る。 年表の編集総記は次の言葉で締めくくられている。「石炭が、筑豊にとって、さらに日本の近・現代にとって何であった のか。日本の近・現代産業社会の深奥部に何が潜むのかを語り、筑豊の地底に眠る幾万、幾十万の人々への鎮魂歌ともな れば、編さん者一同の喜び、これにすぐるものはない」。

昭和49年1月7日
 意識不明 10年後の死 三池事故CO中毒の宮嶋さん(33歳)
 三井三池事故の大爆発以来、CO中毒のため意識が戻らず、"生けるしかばね"として生きた10年2カ月だった。宮嶋さんの闘病 生活は全く悲惨なものだった。目も見えず、ものも言えず、耳も聞こえず、最近はすっかりやせ衰え、背中が腐ったようになっ て、所々血が噴き出していた。宮嶋さんの両親は、「息子は人間ではなかった。ミイラのようになり、化け物だった。せめて 昔の姿で死なせたかった。この恐ろしさを会社の幹部に見てもらいたかった」と涙を浮かべながら訴えていた。

昭和49年2月14日
 ソ連のソルジェニーツイン氏、西ドイツへ国外追放

昭和49年3月8日
 石炭政策、大幅に改定 通産相が施策 資源として再評価

昭和49年3月28日
 電力用炭を40万トン増 電事連会長が表明 石油依存を反省
 27日の石炭特別委員会において、社会党の多賀谷氏は、「英国、西独とも火力発電に占める石炭エネルギーは70%以上なのに、 わが国は9%である。なぜ、こんな状態になったのか」とただした。これに対し加藤会長は、
 1 わが国は産炭地と火力発電所の所在地が離れている
 2 石炭は硫黄酸化物や煤塵を出し、公害規制が厳しくなって使用が困難になった
ことなどを理由にあげた。

昭和49年7月23日
 石炭消費、増加打ち出す 鉱業審議会総合部会が長期展望  離職者再雇用もめざす 通産省

昭和49年8月4日
 一般炭の輸入が本格化 電力を中心に需要 国内炭にも活路
 石油危機以後、石炭再利用の気運が高まっているが、その具体的な動きとして、今月から火力発電用一般炭の輸入が本格化する。 また、わが国最大手の石炭会社である三井鉱山は硫黄分の多い同社の三池炭と混ぜるため、約5万5千トンの米国、ソ連炭を買い 付けることにしている。問題は価格で、日本への到着価格では国内炭より2千ー3千円割高になっている。しかし、電力業界などでは、 国内出炭の不安定さからくる石炭不足をカバーするためにも、輸入は続けなければならぬとする考えが支配的である。

昭和49年8月16日
 朴大統領狙撃される 大統領夫人死ぬ 日本人の韓国出国禁止 犯人は在日韓国人 大阪府警交番の盗難けん銃使用

昭和49年8月30日
 三菱重工、丸の内ビルで時限爆弾爆発 死者8、負傷300余
ガラス片の雨が直撃 路上にうめく負傷者の群 直前に予告電話

昭和49年10月14日
 三井物産本社(西新橋)で時限爆弾爆発 社員ら10数人負傷

昭和49年11月9日
 三池被災者の審査請求、棄却  福岡労基局
 47年2月になって治癒したとされた23人の組合員23人のうち、19人が「性格の変化、目まい、頭痛などが残っており 治癒していない」と、認定を不服として訴えていたもの。

昭和49年11月26日
 帝人研究所で時限爆弾爆発

昭和49年12月10日
 大成建設(銀座)で時限爆弾爆発 警官ら9人重軽傷

昭和49年12月20日
 三井砂川鉱でガス爆発 死者11、絶望4人 地下660m
 死者11人の中には中高年の人が多い。その大半はここ数年のうちにヤマにやってきた新参者だった。中小鉱の閉山により、 友人・知人を頼って比較的安定していた大手のこのヤマに移ってきたのだが、それだけに遺族の悲しみは大きい。

 韓国の朴大統領狙撃事件の犯人 文世光(22歳)は、判決確定の3日後の20日死刑を執行された。

昭和49年12月26日
 遂に炭層に届いた! 九州の有明炭鉱 堀始めて22年
 大牟田市の中心部から北へ22キロ。三池干拓地の角から320メートルの立て坑が掘られ、さらに沖へ2キロ延びた坑道の 最先端が着炭地点。有明炭鉱は、日鉄鉱業が27年に開発をはじめたが、湧水と石炭不況のダブルパンチで43年に中断。代わ って三井鉱山が全額出資して有明炭鉱を設立。48年4月から事業を再開して一人の犠牲者も出さず、着炭にこぎ着けた。50 年1月末本格的な出炭にかかり、52年度から年間100万トンを出炭する。

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