赤紙ーみいけの年表

昭和43年1月8日
 三池の主婦29人がハンスト CO中毒会社回答に不満
 三池労組一酸化炭素中毒患者家族と遺族会の主婦29人は、38年炭鉱爆発事故によるCO中毒患者と遺族の取扱についての 会社回答を不満とし、8日朝9時から三池鉱業所前のテントで無期限のハンストに入った。

昭和43年1月9日
 円谷選手(マラソン)が自殺 「もう走れない」と遺書
 東京オリンピックに活躍、マラソンで3位に入賞した陸上自衛隊の円谷幸吉三等陸尉(27歳)が遺書を残して自殺した。

 練習熱心な”走る鬼” 闘志で築き上げた記録
 福島県須賀川高校時代から練習熱心で、礼儀正しい好青年という定評があった。"走る鬼"は38年8月オークランドで 1万メートルに世界新記録。39年6月新潟で5千メートルに14分2秒2の日本新。同じく35キロでも日本最高をマーク。また、 同年8月には札幌で行われた1万メートルに28分52秒6の日本新記録を樹立。走る度に「記録」を塗り替えていった。 しかし、オリンピック後、足・腰を故障し、スランプに陥っていた。

昭和43年1月13日
 三池CO闘争妥結 炭労・会社側一応仮調印 災害から4年ぶり

昭和43年1月21日
 7人死に11人不明  美唄炭鉱(北海道)でガス爆発
 11人残し坑道閉ざす 再びガス爆発の恐れ あきらめ切れぬ主婦 取り残された幼い兄妹

昭和43年1月23日
 2人、奇跡の生還 板きれに覚悟の「遺書」 美唄の事故
 「爆発のため4人して出口に向かったが現場に引き返す ひでよ かず子をたのむ かあさんを大切にしてくれ もうだめかも知れぬ 絶対に死にたくない 最後の1分までがんばる」

昭和43年2月29日
 重体5、負傷11 三菱大夕張鉱 ガス燃焼
 28日午後3時50分ころ、本坑から3500メートル入った奥部第2立坑の坑底付近でガス燃焼らしい事故が起こった。 同鉱業所は従業員約1900人、下請け300人で月産7万トンのビルド鉱。

昭和43年1月31日
 3人死に3人救出 太平洋炭鉱で落盤 北海道釧路市春採

 三井三池鉱に損害賠償請求 CO中毒死者の遺族
 炭鉱災害によるCO中毒死の遺族が損害賠償の民事訴訟を起こしたのは全国で初めてのケース。

昭和43年3月22日
 4年4カ月ぶりに就労 三池CO中毒者の二百三十余人

昭和43年4月5日
 キング師、撃たれ死ぬ 米各地で黒人暴動 「黒人霊歌聞きたい」 キング牧師、最後の言葉

非暴力主義の指導者ーマーチン・ルーサー・キング博士
 1929年、米国内で人種差別がもっともきびしい南部ジョージア州アトランタに生まれた。ハーバード大学、 ボストン大学で神学を修めるかたわら、ガンジーの非暴力主義を黒人の行動方針とすることを唱えた。ブラッ クパワーを中心とする黒人急進派とははっきり色分けされてきたと言えよう。

昭和43年4月11日
 一酸化炭素中毒症に関する特別措置法 出来て半年 三池にみる患者のその後
 今度の職場復帰者は282人。坑内で111人。坑外で171人。ほとんどが頭痛や吐き気、手足のしびれ、物忘れなどの後遺症を 訴える。三池ではこうした人たちの他、手足が動かない、口も耳も不自由といった重症患者と通院したりして機能回復訓練を 受けている患者が合わせて90人いる。「近い将来、不具者のまま解雇されるのでは・・・」という心配が患者・家族の間でた えず聞かれる。これからは、企業責任を問うだけではなく、被災者の将来を保障する積極的な政府の対策がほしいーこれが関 係者の一致した声である。

昭和43年5月9日
 落盤で3人死ぬ 1人けが 坑内にまだ1人 雄別炭鉱

昭和43年5月13日
 13人不明 6人中毒 美唄炭鉱 炭壁くずれ火災

昭和43年5月20日
 7人残る坑道を密閉 火勢つのるばかり 美唄事故

昭和43年5月16日
 北日本全域に強い地震 震源、十勝沖 規模は関東大震災なみ 火災・倒壊相次ぐ 死者14 不明8  1968年十勝沖地震と気象庁命名

昭和43年6月6日
 炭じん爆発? 6人死ぬ 3人重軽傷 北海道滝口鉱

昭和43年6月7日
 またも炭鉱事故 北炭夕張で落盤 1人死に5人けが

昭和43年6月26日
 小笠原に23年ぶり日の丸揚がる
 26日午前0時、小笠原諸島は日本に復帰した。太平洋戦争最大の激戦地となった硫黄島にも23年ぶりに日の丸が揚がった。 式の関係者は120人位。賑やかな父島の返還式とは対照的に硫黄島は静かに日本に返ってきた。

昭和43年7月30日
 6人死に25人不明 北炭平和鉱 坑内火災で煙り充満

昭和43年8月13日
 悲し!不明者22人残し 水没作業始まる 家族がやっと同意 夕張・北炭平和鉱

昭和43年8月21日
 ソ連東欧5カ国軍、チェコ進入 全土を占拠 事前通告なし 大統領官邸占拠 西ドイツとの国境閉鎖
銃声の中、国歌を放送 町中にむらがるソ連兵 チェコの死者60人

昭和43年8月27日
 昭和30年に石炭合理化法が制定された時から数えて13年。
国もずいぶん手厚い保護を与えてきた。炭鉱近代化資金の貸付。雇用、生活保護政策への転換。炭価の引き上げ等。そして一昨年 「1千億円の債務肩代わり」を打ち出した。35年度から今年度までの9年間を取ってみても、ざっと3千億円の国費がつぎ込まれた。 各石炭会社が国の石炭政策を都合のいいように利用したこともある。昭和30年の石炭合理化法制定は体質改善の絶好のチャンスだった のに、皮肉にも翌31年から神武景気が始まり、大手各社はいったん決めた閉山計画を続々と取り下げて増産に走り、近代化に使われる はずの資金は新鉱開発に流用された。盛況の時将来に備えて自力で転換を図っていたなら、こうまで国に負ぶさらなくても済んだのでは ないか。だが、「今度こそ最終対策だ」というように、これまでのような石炭救済策ではない。「国民のカネを出来るだけ節約しながら 社会不安を起こさないよう静かに石炭産業を縮小させてゆく社会経済政策であることを石炭経営者は反省し、政策に協力してゆかね ばならないのではないか。

昭和43年9月4日
 炭鉱でまた惨事 落盤で3人死に5人が不明 北炭夕張 北海道内 ことし144人死ぬ

昭和43年9月27日
 二つの水俣病 公害と認定 メチル水銀化合物たれ流し
 熊本県水俣湾周辺(チッソ水俣工場)  新潟県阿賀野川流域(昭和電工鹿瀬工場)

昭和43年11月22日
 坑内の2人死ぬ 空知炭鉱で崩落事故

昭和43年12月10日
 銀行輸送車の3億円奪う 府中市 警官装い、車ごと 東芝工場のボーナス 白バイと思った

昭和43年12月20日
 左うちわの中卒求職者 求人条件エスカレート 旅行のカバン、衣服など支度金に10数万円
 各企業があの手この手で中卒者を集めている中で、斜陽の石炭産業の場合は若い人を集めるのはまず絶望的だが、常盤炭鉱の 磐城鉱業所では、中卒の採用者には全員月額15000円を支給、会社の寮からスクールバスで県立工業高校(定時制)に通わせ、 その4年間は会社の仕事は一切なし、卒業してから働いてもらうという仕組み。これに80人に対し214人が応募した。

昭和44年1月10日
 東大、機動隊を導入 乱闘の学生を排除 52人逮捕 ガス弾に煙る安田講堂

昭和44年2月14日
 落盤で生き埋め 3人死ぬ 住友石炭鉱業赤平鉱業所

昭和44年3月10日
 7カ月ぶりに14遺体を収容 北炭平和鉱の坑内火災犠牲者

昭和44年4月3日
 18人死に重軽傷27人 雄別茂尻鉱のガス爆発 合理化反対の最中 北海道赤平市茂尻

昭和44年4月7日
 連続ピストルの射殺事件 19歳のボーイが自供 5件目で
 永山 ゆがんだ欲求不満 「でかいこと」にあこがれ

昭和44年4月17日
 麻生産業(本社 福岡県飯塚市 従業員約2千人)廃業を決意

昭和44年5月9日
 田川市伊田 田川鉱業の新田川炭鉱は9日、組合側(890人)に対して「5月30日付けで閉山、全員解雇する」と通告した。 筑豊地区では新石炭政策後、これで9つ目。これで筑豊には中小のヤマだけが残るだけになった。

昭和44年5月15日
 三菱鉱業 石炭部門を切り離し
 石炭業界第3位の大手会社である三菱鉱業は、赤字を生む石炭生産から脱出し、兼業部門によって転進をはかるという石炭業界で 初めての大改革である。大正7年に設立以来、50年に及ぶ業界の名門三菱鉱業は石炭産業から実質上、姿を消すことになった。会 社側の方針によると、北海道は夕張市に「三菱大夕張炭鉱」を設立。これに現在の大夕張鉱業と南大夕張開発事務所を引き継がせる。 また、九州では長崎県高島町に「三菱高島炭鉱」を設立し、現在の高島鉱業所と福岡県の鯰田炭鉱をまとめて移す。

昭和44年5月16日
 12人死に5人不明 北海道 歌志内鉱 ガス噴出す  住友石炭鉱業赤平鉱業所

 「なんということだ」不安と絶望と怒りが家族たちの集まった集会所にうずまいた。「母が4年前に死んだばかり。子供ばかり 5人が残された」と涙にくれる。30畳間にまだ肉親の生死が確認されない家族たちが50人。みな思い思いの方向を向き、黙り こくっている。畳の目を見つめて、もう泣くことも忘れたようだ。

 運び出された遺体は炭じんの壁の中に閉じこめられていたため、顔も衣類も真っ黒。ヤマの仲間さえ顔からは名前もわからない。 中には腕がちぎれた遺体もあってガス突出のすさまじさを物語っている。微粒子状の炭じんが一面に舞い上がり、キャップランプ の光は全く届かず、一寸先も見えないため、作業は難航している。

 事故が起こりやすくなっているのはなぜか。ヤマの関係者は口をそろえて人不足と老齢化をあげる。新しい石炭政策が スタートし、ヤマの再建が始まったばかりだというのに、このところ出炭不振が続き、計画を達成出来そうにない。そこで 各ヤマとも他の仕事を多少遅らせてでも採炭に人を回すというやりくりに懸命。こうした無理なやりくりが鉱員の疲れを招 いているようだ。

昭和44年5月28日
 落盤で3人が不明 1人死ぬ また北炭夕張で いったい何度事故がおきるのか 家族に強い怒り

昭和44年7月21日
 人類、ここに月を踏む アポロ11号 午前11時56分20秒 この一歩は小さいが人類には偉大な躍進

昭和44年9月23日
 2人死に12人絶望 古河鉱業下山田鉱業所 福岡県山田市

昭和44年11月18日
 生き埋めで3人死ぬ 北海道空知鉱

昭和45年1月27日
 坑内で落盤、4人不明 北炭夕張 7人は坑道奥に避難  再三の事故、保安に問題

昭和45年2月26日
 雄別炭鉱、28日に閉山。全従業員3400人を解雇し、28日に全山(雄別、尺別、上茶路=いずれも北海道)を閉める ことを決めた。また一つ石炭大手が姿を消す。

昭和45年3月3日
 ガス突出、4人死ぬ 北炭 また保安不備で惨事

昭和45年3月14日
 万国博幕開く 全世界交歓の祭典

昭和45年3月31日
 日航機「よど号」乗っ取り 学生10数人 北朝鮮ゆきを要求

昭和45年6月2日
 6人生き埋め 日本炭鉱若松で落盤 4人死ぬ 北九州市

昭和45年6月27日
 指名解雇やむをえぬ 「三池争議」福岡地裁判決 (詳細な判決文はここを参照)
企業の再建に必要 10人については解雇権乱用

昭和45年6月29日
 組合員10人の復帰を申し入れ 三池炭鉱労組
 会社側としては、10人の地位保全仮処分が認められたことを不満として控訴する方針。

昭和45年7月20日
 三池労組(組合員1600人)は、70年代の運動方針として
  1 地域住民の福祉のための運動
  2 CO闘争を発展させて労働災害、職業病、公害を結びつけた命を守る運動など
を進めると決めた。

昭和45年9月14日
 万国博 閉幕、入場者数6422万人

昭和45年10月1日
 10年ぶりに職場へ復帰 三池労組の3人
 会社が控訴中で3人とも元の職場への復帰が認められず社宅事務所雑役係ということになったが、それでも10年の感慨を 込めた再就労の第一歩だった。

昭和45年11月25日
 三島由紀夫が自衛隊に乱入 演説して割腹自殺 総監を人質 美学の帰結か、狂気か
   正午、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地1号館2階バルコニーに三島が姿を現した。盾の会のカーキ色の制服に身を包んで、腰に手を 当て、やや空を仰ぎ、話し出した。マイクもなにもない。「この日本でただ一つ、日本の魂を持っているのは自衛隊であるべ きだ。しかるに・・・自衛隊が日本の大元を正すことが出来ないのは、日本の根本がゆがんでいるからだ。(ヤジ)静聴せい。 俺の言っていることがわからんのか。去年10月21日、何が起こったか。新宿で反戦デーのデモが警察に制圧されてしまった。 自民党はすでにいかなるデモも警察の手で鎮圧できるという自信を持つに至った。これで憲法改正の機会が無くなった。 ・・・日本を守るとは何だ。天皇を中心とする血と文化の伝統を守ることだ。お前ら聞け。俺は自衛隊が立ち上がるのを4年間 待ったんだ。諸君は武士だろう。ならば自分を否定する憲法をなぜ守るのだ。なぜペコペコするのか。・・・我々の愛する歴史 と伝統の国、日本。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか・・・」

 三島の話し方は怒鳴り声に変わった。「わけがわからんぞ」というヤジ。「俺の言うことがわからんのか。静聴しろ」と怒 鳴り返す。無念そうに三島は眼下を見下ろした。数秒、無言。三島の顔に失望を刻んだ。「ここで俺は天皇陛下万歳を叫ぶん だ」と言い残し三島の姿が消えた。
 「総監を早く救出しろ」と自衛隊員が叫ぶ。機動隊の指揮官も「ガス銃隊は前へ」と怒鳴り散らす。やがて逮捕。3人とも 顔面蒼白。くちびるを震わせていた。玄関前に詰めかけていた約2千人の自衛隊員は逮捕された3人を見るとパトカーに押し寄せ、 犯人を殴ったり蹴ったり、あるいはパトカーのガラスを叩きながら「殺せ、殺せ」と叫ぶ。これを制止しようとする機動隊員を も突き飛ばす勢いだった。

昭和45年12月2日
 坑内焼け5人死ぬ 北海道空知支庁上砂川町 三省鉱業所

昭和45年12月11日
 韓国に"無名日本人の碑" 碧蹄の丘の上  散乱の無名日本人5千柱を納める
 一方、日本には朝鮮出身の軍人、軍属、家族ら2千余柱の遺骨が厚生省に保管され、また強制労働のため内地に連れて こられた労務者1万余人の遺骨が各地に散在したままになっている。

昭和45年12月16日
 爆発事故、15人死ぬ 4人が不明 北海道・三井砂川鉱

昭和45年12月19日
 不明の3人残し 坑口密閉へ

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