三池炭山創業碑


官営時代の三池炭鉱の歴史が記された石碑

1.概要

三池炭山創業碑

年代:大正5(1926)年

設置物:「三池炭山創業碑」

見学:笹林公園の東端にあり、自由に見ることができる。

所在:大牟田市笹林町


2.現在残されている遺構

「三池炭山創業碑」

 笹林公園の東側の一画に、忠魂碑、所謂爆発赤痢の慰霊塔と並んで、三池炭山創業碑が立てられている。碑の右側面には、官営時代を中心に三井による経営が始まる以前の三池炭鉱の歴史が、年代順に簡潔に書かれている。

 大正6(1927)年5月31日に除幕式が行われた。大牟田市制施行にあわせて行われたもようで、6月1日には市制施行の祝典が行われている。市制施行は3月。


(1) 碑文(正面)
   三池炭山創業碑
     大勲位侯爵松方正義書(印)

 碑の正面には「三池炭山創業碑」と大きく書かれている。これを揮毫したのは侯爵松方正義である。松方は、三池炭鉱が三井へ払い下げられた明治21(1888)年に、それまで三池炭鉱を所管していた大蔵大臣であった。

正面

(2) 碑文(右側)
  三池炭山は文明元年の發見に係り三池柳河両藩にて稲荷山平野山生山を開坑經營す明治六年工部省の管理に屬し鑛山寮支廳を下里村に置き同年大浦坑を開く九年石炭販賣を三井物産會社に委託し口ノ津港を經て海外輸出を始む十五年七浦坑成る是より先各坑内には福岡熊本佐賀及長崎縣の囚徒を使役せしが十六年三池集治監を置かるヽに及び専ら其囚徒を用ふ十九年大蔵省の經營に屬し事業の面目茲に一新せり二十年宮浦坑を開く二十二年三井家の有に歸す當時の出炭額一ヶ年三十三萬噸なり
        大正五年七月
右面

 碑に記された内容を、読みやすく書き直すと下のようになる。

文明元(1469)年……三池炭鉱発見
(江戸時代)…………三池藩と柳河両藩によって、稲荷山・平野山・生山が開坑・経営された。
明治6(1873)年……三池炭鉱が官収され、工部省の管理に所属する。鉱山寮支庁を下里村に置く。
同年…………………大浦坑を開く
明治9(1876)年……石炭販賣を三井物産会社に委託し、長崎県口ノ津港を経て海外輸出を開始した。
明治15(1882)年……七浦坑を開く。これ以降、坑内作業には福岡・熊本・佐賀・長崎県の囚人を使役した。
明治16(1883)年……三池集治監が設置され、そこに収監された囚徒を中心に使役した。
明治19(1886)年……大蔵省に経営が移管。事業の面目が一新した。
明治20(1887)年……宮浦坑を開く。
明治22(1889)年……三井家の所有となる。当時の出炭額は年間33万トンであった。


(3) 碑文(裏面)
  三池炭山創業當事者
     大蔵大臣伯爵  松方正義
     三池鉱山局事務長 小林秀知
     三井物産會社社長 益田 孝

 碑の裏面に「三池炭山創業当事者」として、三人の名前が刻まれている。一人は松方正義であり、後の二人は小林秀知と益田孝である。
 小林秀知は、明治6(1873)年6月に三池炭鉱が官収された後、同年の12月に大属として赴任した。以来、一貫して官営三池炭鉱の責任者の地位に就いていた人物である。
 益田孝は三井財閥の発展に寄与した人物である。明治9(1876)年三井物産会社を設立し、その社長に就任している。この年から三池炭鉱の海外輸出を手掛け、明治21(1888)年の三池炭鉱の払下げにあたっては、三井による落札を成功させた。

裏面

(4) 碑文(台座)
  発起者
団琢磨 小山筧 吉原正道 武内由章 内苑竹七 永松閑 大淵頼母 坂井真澄 浅井義覺 服部種次郎 藤田董四郎 野田卯太郎 小野吾一郎 森時三郎 野口嘉一郎 村尾信雄 百崎俊雄 森竹次郎 野口忠太郎 福井福太郎 山本繁太郎 原儀八 山縣宗一

 碑の台座には、この碑の建立にあたっての発起者の名が記されている。そこには三池炭鉱の関係者、地元の政界経済界の有力者の名を見ることができる。

台座

3.碑についての詳細

3.1 碑文に書かれた三池炭鉱の歴史

碑文に基づいて、官営時代の三池炭鉱の歴史の概略を整理する。


(1) 前史
「文明元年の發見に係り三池柳河両藩にて稲荷山平野山生山を開坑經營す」

 三池炭鉱は、文明元(1469)年に発見されたと伝えられている。その後、江戸時代には柳河藩の小野家が平野山(高取山)を、三池藩が稲荷山と生山を開坑経営していた。


(2) 三池炭鉱の官収(明治6(1873)年)
「明治六年工部省の管理に屬し鑛山寮支廳を下里村に置き」

 明治6(1873)年に三池炭鉱は官収され、工部省の管理下に置かれた。工部省とは明治3(1870)年から明治18(1885)年まで設置され、殖産興業の為に交通・鉱工業部門を管掌した官庁である。

 これに対応して、炭鉱を経営管理する役所として、鉱山寮の支庁が置かれた。なお明治10(1877)年以降は三池鉱山分局、明治16(1883)年以降は三池鉱山局と称されている(明治19(1886)年の1月から4月は鉱山鉱業所)。

 役所が置かれたのは下里村字谷尻(現、泉町)で、三池藩の石炭会所の跡である。なお下里村は、今の橋口町から上官町にかけて、大牟田川の南西に位置する地域にあたる。


(3) 大浦坑の開鑿(明治6(1873)年)
「同年大浦坑を開く」

 碑には、三池炭鉱が官収された明治6(1873)年に大浦坑が開かれたとある。しかし大浦坑の開坑は、江戸時代の末期、安政4(1857)年である。ところが明治5(1872)年に坑道が水没して、一旦は廃坑となっていた。それが官収された後、再び採掘が開始されることになる。碑文はこれを差しているものと思われる。 

 その後、明治11(1878)年に新たな斜坑が完成し、蒸気動力による捲揚機の使用も同時に始まった。
 なお大浦坑は大浦町に位置する。現在その敷地は廃棄物の最終処分場となっており、かつての坑口の姿を想像することは難しい。
>>大浦坑跡


(4) 石炭の海外輸出開始(明治9(1876)年)
「九年石炭販賣を三井物産會社に委託し口ノ津港を經て海外輸出を始む」

 碑には明治9(1876)年から石炭販売を三井物産会社に依託した旨書かれている。しかし実際にはこの年の9月に石炭の売却の委任契約を締結し、販売は翌年10月からから開始されている。石炭販売を依託した三井物産会社は、明治9(1876)年の7月に設立されたばかりであるが、これ以後、三井と三池炭鉱との結びつきが深まることとなる。三池炭鉱の石炭販売の契約は何度か改定されているが、ほとんどが三井物産会社が請負っており、更には鉱山局需要品購入についても三井物産会社と契約を結んでいる。

 碑にも記されている通り、当時は石炭を遠方に出荷する際、島原半島南端の口之津港まで艀のような小舟で運び、ここで大型船に積替えていた。大牟田で船積しなかったのは、大牟田沿岸は遠浅で干満の差が大きく、大型船が接岸できる港がなかったためである。これは江戸時代でも同様で、明治41(1908)年に閘門を持った三池港が築かれて干潮時でも大型船が停泊できるようになるまで、口之津港での積替えが行われていた。


(5) 七浦坑の開鑿(明治15(1882)年)
「十五年七浦坑成る」

 明治12(1879)年に開鑿が着手された七浦坑の第一竪坑が、明治15(1882)年6月に着炭した。操業の開始は明治16(1883)年1月のことである。七浦坑は大浦坑とともに官営期を通じて主力坑となり、一時その出炭は三池炭鉱の約9割を占めたという(『男たちの世紀』p.16)

 七浦坑は現在の合成町に位置していた。現在は工場敷地内にあるため、立入ることはできないが、第一竪坑の捲揚機室を遠望することができる。
>>七浦坑跡


(6) 三池集治監の設置(明治16(1883)年)
「是より先各坑内には福岡熊本佐賀及長崎縣の囚徒を使役せしが十六年三池集治監を置かるヽに及び専ら其囚徒を用ふ」

 三池炭鉱が官営化されてから、安定的な労働力を確保するために、坑口近くに近隣県の監獄の出張所を設け、受刑者を労働力に充てていた。明治16(1883)年に長期囚を収監する三池集治監が置かれ、ここの受刑者が炭鉱労働の中心となった。明治22(1889)年の払い下げ当時に約3300人の労働者がいたが、そのうち2100人が囚人だったという。

 囚人労働は三井への払下げ後も継続し、昭和5(1930)年まで行われていた。三池集治監は三池監獄、三池刑務所と改称された後、昭和6(1931)年に廃止され、現在その敷地は三池工業高校となっている。当時の遺構としては外壁、石垣が残されている。
>>三池集治監跡


(7) 大蔵省への移管(明治19(1886)年)
「十九年大蔵省の經營に屬し事業の面目茲に一新せり」

 当初、三池炭鉱は工部省に属していた。明治18(1885)年に工部省が廃止されたために、一時農商務省に属した後、明治19(2886)年に大蔵省の所管となっている。碑には事業の面目が一新したとあるが、詳細は不明。


(8) 宮浦坑の開鑿(明治20(1887)年)
「二十年宮浦坑を開く」

 官営化後、3番目の開坑となる宮浦坑は、明治20(1887)年2月に第一竪坑の開鑿が始められ同年8月に着炭した。翌明治21(1888)年3月に竣工し4月から操業が開始された。大正13(1924)年に大斜坑が建設され、昭和43(1968)年まで操業されていた。

 現在、敷地の一画が宮浦石炭記念公園として整備され、煙突、大斜坑のプラットホームなどが残されている。
>>宮浦坑跡


(9) 三井への払下げ(明治22(1889)年)
「二十二年三井家の有に歸す當時の出炭額一ヶ年三十三萬噸なり」

 明治21(1888)年に三池炭坑払下げの入札が行われ、それまで石炭輸出などに関係してきた三井が落札した。明治22(1889)年から三井による経営が開始され、三井炭礦社が設立された。事務長には團琢磨が就任した。

 官営化された当初の出炭量は、明治7(1873)年度で6.6万トンであったが、明治20(1887)年度には32.7万トンにまで伸びている。


3.2 碑に書かれている人物


(1) 三池炭山創業當事者

松方正義(1835〜1924)

 旧薩摩藩士。主に財政面で貢献した政治家で、紙幣整理(1881-1904)や金本位制の確立、日本銀行の設立(1882)、官営事業の払下げなどを実施した。
 明治8(1875)年に大蔵大輔。明治14(1881)年より大蔵卿、内閣制度の始まった明治18(1885)年から明治28(1895)年まで一貫して大蔵大臣となる。明治24(1891)年5月から明治25(1892)年5月までの首相就任時も、蔵相を兼任していた。さらに明治29(1896)年9月から明治31(1898)年1月の首相在任時と、明治31(1898)年から明治33(1900)年の第二次山縣内閣でも蔵相となっている。その後は日本赤十字社社長、枢密顧問官、内大臣を歴任した。大正13(1924)年に没し、国葬に処された。
 華族令に基づいて明治17(1884)年7月7日に伯爵に。明治40(1907)年9月21日には侯爵に陞爵、大正11(1922)年9月18日に公爵に陞爵、昭和2(1927)年12月19日、爵位を返上している。ところで碑の正面では松方の爵位が侯爵と書かれながら、背面では伯爵なっている。これは揮毫した大正5(1916)年には陞爵し侯爵になっていたが、三井へ払い下げが決まった明治21(1888)年時点では未だ伯爵であったためである。
 第15銀行の松方巌、フランス美術品の松方コレクションで知られた松方幸次郎、登山家で有名な松方三郎などは、松方正義の子息にあたる。孫にエドウィン・O・ライシャワーの妻であるハル・松方・ライシャワー、 同盟通信社編集局長を勤めた松本重治がいる。

小林秀知(1836-1908)

 旧長州藩士。官営時代の事業計画の立案実施は、小林の強い主導の下で行われていた。
 明治6(1873)年6月に三池炭鉱が官収された後、同年の12月に大属として赴任して以来、一貫して官営三池炭鉱の責任者の地位に就いていた。
(『大牟田市史下巻』p.821-822)

益田孝(1848-1938)

 佐渡の生まれ。三井財閥の発展に寄与した人物である。
 明治7(1874)年、後に元老となる長州出身の井上馨が創設した先収会社の東京本店頭取となる。さらに明治9(1876)年同社を引き就いた三井物産会社を設立し、その社長に就任している。この年から三池炭鉱の海外輸出を手掛け、ほぼ毎年のように大牟田を訪れ、三池炭鉱の実情を探っていた。明治21(1888)年の三池炭鉱の払下げにあたっては、三井による落札を成功させた。また後に三井財閥の中心人物となった團琢磨を、三池鉱山局から三井炭礦社に入社させるのにも尽力している。
 明治42(1909)年の三井合名会社設立にあたって、その顧問となり、大正2(1913)年三井を引退した。大正7(1918)年11月26日、男爵に叙される。
(『大牟田市史下巻』pp.900-902)


(2) 建碑の発起人(三池炭鉱関係者)

団琢磨(1858-1932)
 旧福岡藩士。三池炭鉱の発展と、三井の経営に貢献した人物である。
 明治4(1971)年に岩倉使節団に随行し、ボストン鉱山学校に入校。ボストン工科大学採鉱冶金科を卒業後、明治11(1878)年に帰国。明治18(1885)年に礦山局技師となり、三池炭礦に赴任。
 坑内湧水対策のため、明治20(1887)年から海外出張。渡欧中に三池鉱山が払い下げられ、帰国後の明治22(1889)年3月に三井炭礦社事務長に就任。明治27(1894)年までその任にあたる。坑内排水のためにデビーポンプを購入・設置し、湧水に苦しむ勝立坑の開鑿に成功。三池炭鉱の発展の契機となる。
 また今も三池港に残されている三池港起重機(ダンクロ・ローダー)の発明により、工学博士の学位を授与された。
 大正3(1914)年には益田孝の後任として三井合名理事長に就任。昭和元(1926)年、男爵に叙される。昭和7(1932)年3月5日、血盟団事件により暗殺。
(『大牟田市史下巻』pp.886-888)

小山筧
 旧福岡藩士。明治14(1881)年鉱山局主記主計科長五等属(運輸科長兼務)、明治17(1884)年鉱山局職員三等属、明治22(1889)年一等事務員、明治25(1892)年退職

吉原正道(1853-1927)
 旧唐津藩士。鉱山技術者から事業家となり、九州と中国各地の炭鉱を開拓。
 明治13(1880)年工部大学校卒業。明治13(1880)年工部省に入り三池鉱山局に赴任。明治14(1881)年鉱山局開坑科大浦坑及ヒ稲荷山平野山各坑主任八等技手、明治17(1884)年鉱山局職員五等技手。明治22(1889)年7月退職。
 退職後、牟田部炭鉱(佐賀県東松浦郡相知町)・杵島炭鉱(佐賀県杵島郡北方町)・長門炭鉱(山口県美祢郡大嶺村)を開坑、経営。杵島炭鉱には小林秀知からの出資も仰いでいる。
(宮島清一「吉原政道」『「去華就実」と郷土の先覚者たち』)

武内由章
 新潟県平民。明治17(1884)年鉱山局職員五等属。

内苑竹七
 福岡県平民。明治14(1881)年鉱山局開坑科大浦坑及ヒ稲荷山各坑担当傭、明治22(1889)年二等雇員。

山縣宗一
 山口県平民。明治16(1883)年工部大学校卒業。明治17(1884)年鉱山局職員七等技手。


(3) 建碑の発起人(地元関係者)

野田卯太郎(1853-1927)
 三池郡岩津村(現高田町)生まれ。政界で活躍。号は大塊
 明治11(1878)年三池郡小区会会議員に当選。明治16(1883)年岩津村村会議員に当選。明治19(1886)年福岡県会議員に当選。明治31(1898)年衆議院議員に当選。大正7(1918)年逓信大臣、大正14(1925)年商工大臣。鎌倉市にて没。
 明治19(1886)年、友人の永江純一らと三池銀行を設立し支配人となる。明治20(1887)年合資会社三池土木会社を設立、明治22(1889)年三池紡績会社を設立して取締役に当選。
(『大牟田市史下巻』pp.870-873)

福井福太郎(1856-1918)
 大牟田(現、本町36)生まれ。家業の海運業、綿製造業、石炭業などに従事。三池炭鉱の官営化に合わせて、石炭販売者が集まり三池石炭合資会社を設立。福井は社長に就任する。また三池銀行の取締役、三池紡績株式会社設立に参加、大牟田電燈株式会社の創立委員長、大牟田瓦斯株式会社取締役、大牟田土地貸付会社取締役、三池無尽株式会社取締役を務める。
 明治10(1877)年に大牟田戸長、町村制の実施にあたり大牟田村長になる。大牟田町が成立すると、町会議員に当選。さらに三池郡会議員となる。大牟田市制が施行されると、市議会議員に当選。
(『大牟田市史下巻』pp.855-856)

森時三郎(1857-1924)
 大牟田下里に生まれる。家業として石炭販売業に従事していた。
 野田卯太郎、永江純一の創設した三池銀行、三池土木会社に協力し、重役となる。明治21(1888)年、永江らによる三池紡績会社設立に参画し、重役に就任。明治25(1892)年、石炭販売、コークス製造販売を担う三池石炭合資会社を創立し社長に就任。明治35(1902)年、大牟田呉服合資会社を創設し、代表社員になる。
 明治40(1907)年、三池郡会議員に当選。大正6(1917)年大牟田市議会議員に当選。下里公園に頌徳碑が建てられたとされるが、現在は上官町に町田柔道碑 とともに建てられている。
(『大牟田市史下巻』pp.866-867)

村尾信雄(1857-1934)
 三池町大字歴木に生まれる。大牟田で医業を営む。
 明治17(1884)年県立熊本医学校を第一回生として卒業。明治18(1885)年大牟田本町3丁目に開業。明治23(1890)年三井医局医を嘱託される。大正11(1922)年退職。明治21(1888)年から大正13(1924)年までのうち34年間、三池郡医師同業組合の医師会長に就任。
(『大牟田市史下巻』p.889-890)

野口忠太郎(1865-1931)
 大牟田横須(現、中町1-33)生まれ。大牟田の商工業の発展に寄与した人物である。
 明治14(1881)年鉱山局主計科傭。
 明治20(1887)年、野田卯太郎、永江純一らと協力し合資会社三池土木会社の創立に尽力。明治33(1900)年には同社の社長となる。
 三池紡績会社の重役(1899)、大牟田瓦斯会社の重役、三池銀行の監査役、東邦電力株式会社の取締役(1910)、三池無尽株式会社の取締役(1916)を務める。また大正2(1913)年に大牟田商工談話会の初代会長に選任される。
 大正3年頃に大牟田町会議員となり、大正11(1922)年には衆議院議員に当選。
(『大牟田市史下巻』p.884)

坂井真澄(1854-1936)
 山門郡水上村(現瀬高町)生まれ。小道と号する。剣術家。
 明治23(1890)年、銀水村宮部の大石家の後見人となる。大石家は幕末の剣豪であった大石武楽の子孫であったが、嗣子種昌、その養嗣子五十槻が早世し、さらにその子進が残されていた。種昌の死後大石雪江、今村広門が師範を務めていた。坂井はこの跡を継いで師範となり、剣道の普及に務めた。
 明治23(1890)年から明治30(1897)年まで大牟田町長をつとめる。三池郡会議員、福岡県会議員、大牟田町会議員などをつとめ、永江純一、野田卯太郎、野口忠太郎、福井福太郎、森時三郎と政友として親交を重ねた。
(『大牟田市史下巻』p.892-894)

小野吾一郎

永松閑
 稲荷村村長。横須、稲荷、下里、大牟田の四村合併を進め、大牟田町成立に協力。

大淵頼母
 明治6(1873)年横須村に移住。その後、採掘販売を手掛ける。稲荷、横須の戸長を務め、その後四村合併を進める。大牟田町成立後は長く助役を務める。(『大牟田市史』補巻,p.450)


(4) 建碑の発起人(不祥)

浅井義覺 服部種次郎 藤田董四郎 野口嘉一郎 百崎俊雄 森竹次郎 山本繁太郎 原儀八 


3.3 笹林公園


 かつては小高い丘であり、笹林山と呼ばれていた。大正3(1914)年から公園化の工事が始まり、さらに昭和10(1935)年に高台地が削られて笹林小学校と公園がつくられた。市史によると、創業碑は公園になる前は山頂に横倒しに置かれていたという。 (『大牟田の地名』p.96、『大牟田の歴史散歩物語』上巻, p.7、『大牟田市史』下巻, p.452)

4.隣接して建てられている記念碑

 三池炭山創業碑に隣接して、笹林公園内には忠魂碑、所謂爆発赤痢の慰霊塔が建てられている。 


(1) 忠魂碑

 三池炭山創業碑の右隣に立っている。碑には「海軍大将 伯爵 東郷平八郎 書」とあるが、日付はなく、建立がいつの時点かはっきりしないが、他市の例を見ると大牟田同様に東郷大将の筆になる ものが広島福井に見られる。また別の軍人の筆になる碑文を持つ忠魂碑もあるが、インターネットで調べる限りでは東郷 の筆になるものが多い。
 「忠魂」とは「忠義を尽して死んだ人の魂」を意味し、本来忠魂碑は戦没者のための記念施設である。しかし特に明記されていないため特定の戦役とは直接関係なく、天皇の即位(大正4年と昭和3年)などの国家行事に関係して建碑されたのではないだろうか。

忠魂碑

(2) 慰霊塔
 昭和12(1937)年に起こった、いわゆる爆発赤痢犠牲者の慰霊碑である。碑陰には次の様に記されている。
時維昭和十二年九月二十五日恰モ支那事變勃發シテ三月全市ヲ擧ゲテ銃後任務ノ遂行ニ邁進セル秋青天ノ霹靂ノ如ク突如トシテ我ガ十二萬市民ハ古今ヲ絶スル悪疾ノ魔手ニ掩ハレタリ茲に昨日迄大産業都市トシテ殷賑ヲ極メシ本市ハ忽ニシテ阿鼻叫喚ノ巷ト化シ官民必死ノ防疫ニモ拘ラズ竟ニ一萬数千ノ罹患者ヲ出シ七百十二名ノ精魂ヲ奪ハル
追憶スレバ當時ノ惨状未ダ彷佛トシテ眼前ニ在リ愛憐痛惜ノ情切々トシテ時涙轉禁シ難シ乃茲ニ慰霊ノ為建碑ノ工ヲ起セシ所以ナリ後昆此ノ碑ヲ仰ク者永ヘニ是等病歿者ノ冥福ヲ祈リ此ノ惨禍ヲシテ轉禍為福ノ實タラシメバ建碑ノ業亦徒爾ナラズトセン乎爾云
慰霊塔
 時これ昭和12(1937)年9月25日、あたかも支那事変(日中戦争)勃発して三月、全市をあげて銃後任務の遂行に邁進せるとき、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疾の魔手におおわれたり。ここに昨日まで大産業都市として殷賑を極めし本市はたちまちにして阿鼻叫喚のちまたと化し、官民必死の防疫にもかかわらず、ついに一万数千の罹患者を出し712名の精魂を奪わる。
 追憶すれば当時の惨状いまだ彷佛として眼前にあり。愛憐痛惜の情、切々として時涙転禁じがたし。すなわちここに慰霊のため、建碑の工を起こせしゆえんなり。後昆(こうこん:後世)、この碑を仰ぐ者、とこしえにこれら病没者の冥福を祈り、この惨禍をして転禍為福(禍転じて福となす)の実たらしめば、建碑の業また徒爾(とじ:無意味)ならずとせんや。爾云(しかいう:以上)。
参考文献
  • 新藤東洋男(2000)『大牟田の歴史散歩物語−大牟田近現代史を中心に−』上巻, pp.7-8
  • 石川保(1999)『大牟田の地名』p.97
  • 三池工業高等学校編集委員会編(1988)『三池工業高等学校創立八十周年記念誌』pp.65-66
  • 西日本文化協会編(1982)『福岡県史 近代史料編 三池鉱山年報』
  • 三井鉱山株式会社発行(1990)『男たちの世紀−三井鉱山の百年』
  • 『大牟田市史』中巻
  • 「三池炭鉱沿革史(その4)」『三池時報』昭和40年3月号, pp.40-44
  • 「三池炭鉱沿革史(その5)」『三池時報』昭和40年4月号, pp.46-52
  • 「三池炭鉱沿革史(その6)」『三池時報』昭和40年5月号, pp.33-38
  • 「三井の歴史」(http://www.mitsuipr.com/history/nenpyo.html)
  • 「華族一覧表」『廃絶大名総覧』(http://wolfpac.press.ne.jp/kazoku08.html)
  • 宮島清一「吉原政道」『「去華就実」と郷土の先覚者たち』
    (http://www.miyajima-soy.co.jp/kyoka/shaze11/shaze11.htm)

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