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赤紙ーみいけの年表
平成12年1月8日
福岡県大牟田市旭町の三井三池製作所三池事業所敷地内で、国内最古級のれんが建て工場の取り壊し作業が始まっていた
ことが分かった。事業所の移転に伴う解体。鍛冶(かじ)と鋳物の工場計二棟のうち鋳物工場は既に屋根や壁が壊された。
「産業遺産」にも指定され、炭鉱の面影を残す歴史的建築物だが、同市は財政難から有効策をとれないまま。取り壊しには、
市民や識者から哀惜の声が上がっている。
工場は、同製作所の前身の三池炭鉱社が明治28年に、つるはしや運搬車などの製造のため建造。炭鉱の発展とともに機関
車や排水ポンプを生産した。鍛冶工場は昭和53年年、鋳物工場は昭和57年年まで操業し、その後倉庫として使われていた。
ともに約千平方メートル程度で、切り妻屋根の、平屋の赤れんが造り。れんがを直角に積み重ねる「イギリス積み」と呼ば
れる工法で造られている。
建物は福岡県教委が平成5年、近代化の歴史を後世に伝える「産業遺産」に指定。大牟田市教委が実施した学識経験者らに
よる調査でも「炭鉱機械を製造する工場としては国内最古」とされた。
同市では昨年、歴史的建物をまちづくりに生かそうと「産業遺産国際シンポジウム」が開かれ、市民の関心は高まりつつ
ある。しかし、2年続きの赤字決算の中、同市は炭都からの再生に懸命。移転保存には同市の試算で4億円もかかるため、同
市教委も「れんがをもらい受け保存したい」と言うのがやっと。
事業所側も、用地を大手スーパーに売却し、今年二月までに同市内に移転完了の予定。同事業所総務課は「土地を更地に
して引き渡す契約なので取り壊しは仕方ない」と説明している。(西日本新聞より)
平成12年1月19日
有明鉱災害から16年 命日に殉職者之碑に花束 閉山したが苦しみは続く
「いまでも事故の当時のことが夢に出ます。仲間たちの悲痛な叫びが耳に残って離れません」ー。83人の死者を出した
三池郡高田町昭和開の旧有明鉱坑内火災から16年経過したが、命日の18日、大牟田市岬の有明鉱殉職者之碑には遺族など
が訪れ、殉職者に花を捧げていた。
有明鉱災害は昭和59年1月18日に発生。今年は17回忌にあたる。生存者では最後に助け出されたという橋本さん(59)は
毎年、焼酎とビールを持って訪れる。「亡くなった83人の代表という気でいる」と橋本さん。
この災害で助け出されたが娘婿を亡くし、いまでも災害が原因して脳梗塞で下半身付随の西村さん(69)は杖をつき碑
を訪れた。「炭鉱は閉山したが我々の苦しみはいまも続いている。仲間たちのことを忘れることが出来ない。身体が動く
限り、命日には必ず来る」と話していた。(有明新報より)
平成12年1月21日
宮原鉱(大牟田)・万田鉱(荒尾) 国史跡指定が決定 炭鉱関連では国内初
文化庁は19日付けで、宮原鉱跡と万田鉱跡の国史跡指定を官報で告示した。両鉱の建造物は、すでに平成10年5月に国の
重要文化財に指定されており、同日の告示に伴い建物と史跡(敷地)のセット指定を正式に受けたことになる。炭鉱施設
関係の重要文化財、史跡指定は国内では両鉱が初めて。
史跡指定に伴い、用地取得費のうち、国が80%、福岡県が8%、熊本県が9%を補助。残りを大牟田市(12%)と荒尾市
(11%)がそれぞれ負担する。土地所有者である三井石炭との具体的な用地取得交渉は平成12年度以降になる見通し。
両鉱の建物は、保存修理を行って公開される予定。荒尾市は今年度中に基本構想を策定する考えで、万田鉱近くに今年
3月完成する炭鉱館とともに、周囲一帯を石炭文化の発信地にしていく方針だ。また、大牟田市も保存整備を含め、宮原鉱
の具体的な活用を今後詰めていくという。(有明新報より)
平成12年1月22日
3月18日、荒尾市にオープンする日本最大級のテーマパーク九州わんわん王国は21日、三井グリーンランド・ホテルヴェル
デで開業記者発表会を開き、概要を説明した。総事業費は約10億円。敷地内には日本最大となる高さ14メートルの木造犬型
展望台や本格的犬のレース場「わんわん競技場」、世界の名犬が集う「わんわんビレッジ」など七つの日本一を設ける。開
業初年度の目標入場者数は約80万人。同王国では約60人の雇用を予定している。
九州わんわん王国を運営するのは、伊藤忠商事の関連会社の株式会社わんわん王国(本社・滋賀県守山市)。同社の会長
は「滋賀県の琵琶湖のほとりに開業して1年。次の進出先を探していたとき、荒尾市や三井グリーンランドからの強い要望が
あり、相乗効果を発揮し、荒尾市を中心とした地域活性化を図りたい」とした。(有明新報より)
平成12年1月25日
「炭坑施設の価値を見なおそう」(有明新報の社説)
荒尾市の万田坑と大牟田市の宮浦坑の国史跡指定が正式に決定した。
(中略)
両坑保存の声は三池炭鉱閉山の流れの中で行われた四つ山鉱の立て鉱やぐら解体をきっかけに両市民の間で一気に高まった。
それはいつまでも石炭産業の面影を引きずるというのではなく郷土の近代産業を支えてきた炭坑施設を後代に残すことで両市
の歴史の重さをしっかり顕彰することでもあったらかだ。
(中略)
保存修理に向けて荒尾大牟田両市は今後具体的構想をねることになるが史跡の活用と共にわすれてはならないのが市民への
啓発だ。つまり「これだけ重要な役割を果たし施設保護の価値があるからこそ国内の炭坑施設としてはじめて国の重要文化
財指定を受けたんですよ」という意義をもういちど多くの人にしってもらうことも大切になる。
三池炭鉱が閉山した前後、もしかして取り壊されるのではという思いから万田鉱や宮原鉱にも連日多くの市民が脚を運んだ
が、その後訪れる人は極端に減り施設だけがぽつんと取り残されたような気もする。建造物と史跡の国指定や施設ウォッチ
ングなどをきっかけにもういちど両鉱の施設的価値や近代化産業を支えた役割をみつめなおしたいものだ。(有明新報より)
平成12年2月3日
真相20世紀 三池争議 21世紀への伝言 記者たちのメモワール
リストラ。企業の再構築と訳されているが、40年前は企業整備と言った。ただ、どちらにせよ、人員削減の意味で使われ
ている。企業整備と呼んだ時代に、労働者が生活と組織をかけて雇用を守る闘いを展開した。「総資本」と「総労働」がぶ
つかり合った三池争議である。労使ともあまりに簡単にリストラに合意し、実行する昨今、三池争議を振り返ることは、意
義があるのではないか。(毎日新聞西部本社企画部・小柳進)
(中略)
ある時代を後年振り返る際、出来事はたどれても、当時の空気を実感することは難しい。その場にいなければ分からない
こともある。
当時、石炭は石油へのエネルギー転換期にあり、斜陽産業になり始めていた。しかし、組合には勢いがあった。戦後の産
業復興を支えた炭鉱マンたちは、全国の労働運動の一大勢力だった。しかも、戦後間もないころから三池争議に至るまで、三
池労組は会社側と合理化をめぐって闘いの連続で自信を持っていた。だから「どんな大騒動になるやら、恐ろしい」という
のが、54年に大牟田通信部に赴任して以来、ずっと労使紛争を見続けていた岩下さん(70)の受け止め方だった。
3月に入って、動きが激しくなった。三池労組の闘争方針に対する批判勢力が顕在化した。15日、批判派の要求で三池労組
は臨時中央委を開催。席上、批判派は執行部を「階級闘争至上主義」と糾弾し、スト中止を求めたが入れられず、2日後に
「三池新労組」を結成、組合は分裂した。
この分裂は、三池争議の大きな転換点になった。執行部の中に主流派、中間派、批判派があった。主流派の中でも学習会
などを通じ、社会党左派の故・向坂逸郎元九州大学教授らが主導する社会主義協会の影響を受けていた人たちの発言力が大
きかった。
注目すべき証言がある。当時の副組合長・久保田氏の主張だ。「炭労」(日本炭鉱労働組合刊)に「組合民主主義の履き
違え」と題した一文を寄せ、「当時の組合幹部が分裂の危機意識に薄く批判派の存在を軽視した」と指摘した。久保田氏は
また、「三池労組として考えが甘かった。批判勢力の長年の痛みをわかっていなかった」(「昭和聞き語り」毎日新聞西部
本社編)とも語っている。
岩下さんも「三池労組は分裂を会社側の工作だと言った。だが、確かに切り崩された人もいたが少数だった。大部分はこ
んなにストばかりじゃ、食うていけん、借金が増えるばかりで、戦術ば転換してくれ、と訴えていた。それに組合執行部が
耳を傾けたかとなると、どうだったろうか」と婉曲(えんきょく)に疑問を口にした。
分裂後は労使対立と労労対立が激化し、流血の惨事が頻発した。(中略)かつての仲間が角材、竹槍などで渡り合い、組
合員と警備の多数の警官が負傷する事件が相次いだ。
また、大牟田市と熊本県荒尾市に点在する炭住街でも、三池新労組憎しのあまり、その家族を対象に、三池労組員の家族
が路上や共同風呂でデモをかけたり石を投げたりする事件も多発した。
そうした中で、四山鉱前でピケを張っていた三池労組員・久保清さんが暴力団員に刺殺された。総評が安保闘争と三池闘
争の結合を打ち出していたこともあり全国から労組員や全学連の学生が続々と集まり大規模な集会や市内デモが繰り広げら
れた。「やるせない気分だった。応援部隊の乱暴もひどかった。今でも書けない話がある」と、西部本社報道部応援組の松
尾さん(71)は言う。
三池争議は、次第に三川鉱のホッパー(貯炭槽)をめぐる攻防に移っていった。
(中略)
三池労組はホッパーを占拠、周囲をピケ小屋で固めた。これに会社側は撤去の仮処分を決定した。しかし、労組側は、
17日にホッパー死守を掲げて10万人の総決起大会を開いた。
(中略)
40を数えたピケ小屋そばの堀には石油が流し込んであり、ツルハシや木刀などで武装するホッパー守備隊2万人と警官隊
1万人の激突が予想されていた。今でも「あの時は死ぬかも知れないと本気で思った」と振り返る三池労組員が多数いる。
18日の仮処分は阻止され、19日も阻止された。20日午前5時の執行時に激突と想定されていたが、発足したばかりの池田
内閣の石田労相が事態収拾に動き、午前3時過ぎ、中央労働委員会の労使休戦のあっせん案を双方が受け入れた。8月、中労
委の「指名解雇は取り消し、自発退職とする」というあっせん案を会社側は受諾した。炭労は9月になって受諾を決め、苦渋
の中で三池労組もこの方針を受け入れた。
長い闘争だった。事実上、労組側の敗北だったー。その後、三池労組員は長く差別待遇に苦しみ、子供まで就職差別を受
けた。しかし、有明海下の真っ暗な地底で、生命の危険にさらされながら、真っ黒になって炭を掘っていた炭鉱マンたちが
これほどの争議を展開し、全国からの共感を呼び起こした歴史は消えない。
その理由について松尾さんは「今は企業組合というか、組合が経営に参画する色合いが強いが、当時、労働者側は瀬戸際
まで追い込まれて、団結というパワーで対抗した。それがあれだけの盛り上がりになった」と分析する。岩下さんの意見も、
「闘う人間のエネルギーというのは恐ろしいほどすさまじい。それを三池労組の人たちが体を張って見せつけ、全国の炭鉱
マンや労働者を鼓舞した」で一致した。
だが、岩下さんは「憎しみだけが残ったかもしれんな」とも言った。松尾さんも「三池争議は異常な闘いだった。学者な
んかは、総資本対総労働とか、歴史的な闘いとか、きれいごとを言うが、違う。単に労使だけでなく労働者同士がどろどろ
と骨肉の争いをし、憎しみ合っただけじゃないか」と口を合わせた。二つの側面が、見る立場によって大きくもなり、小さく
もなる。
後輩記者の目
私は、大牟田で生まれ、炭住街で育った。父は三川鉱の採炭員で、三池争議ではいち早く三池新労組に加盟した。争議の
ころは小学校高学年。三池争議を振り返ると暗い気持ちになる。家では、いつも金がなく、両親が生活費のことでけんかばか
りしていた。収入が不安定なことほどつらいことはないと思う。今、リストラで職を失った人たちの家庭に思いをはせると、
あの頃がよみがえる。
また、労組の分裂が最も残念だった。労組員・家族同士の憎しみ合いが本来の闘いの目的をかすませた。
(中略)
「社会は豊かになり発展したというが、雇用を守る視点からすれば、当時と比べ現在はよくなったのか、と自問することが
多い」と岩下さんは言う。
今、炭住街を歩いてみると、朽ちたり更地になっていて人影もない。あのころは、食事の用意に忙しい母親たちや子供たち
のはしゃぐ声で活気に満ちていた。そのころの「三池の子どもたち」はどこにいるのだろう。ただ往時茫々(ぼうぼう)、な
のか。苦しい闘いと生活の経験を忘れずに暮らしているだろうか。そんな思いに駆られて仕方がなかった。(毎日新聞より)
平成12年2月19日
冬の北海道夕張市に映画関係者やファンが集う「第11回ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」が18日、多彩なゲストを
迎え、華やかに開幕した。
映画祭は平成2年、「炭鉱の町」夕張市の町おこしイベントとして始まり、今では国際的な映画祭として定着。
同市を舞台にした「幸福の黄色いハンカチ」の山田洋次監督も初参加。ライブコンサートなど盛りだくさんの内容となった。
(産経新聞より)
平成12年2月29日
ふるさと発展へネットワーク 関西に「荒尾会」発足 北野市長が支援を要請
「関西荒尾会」(ふるさと荒尾ふれあい会)が、27日発会し、大阪市内のホテルであった設立総会で会長に島啓之輔さん(69)
を選んだ。北野市長が市の現状を説明、企業誘致などへの協力を求めた。懇親の場では、関西を中心に活動しているシンガーソ
ングライター関島秀樹さん(滋賀県在住)が自作の「ARAO」などを披露し、花を添えた。(有明新報より)
平成12年3月15日
三池の「黒手帳」月末に失効
国内最大の炭鉱だった大牟田市の三井三池炭鉱が閉山して、今月末で3年。再就職先を探す炭鉱離職者が、平均で1日約5800円
の離職促進手当てを受けられる「炭鉱離職者求職手帳」(黒手帳)もほとんどが失効する。再就職の状況は厳しく、来月から収
入がゼロになる離職者は約150人に上る。 (讀賣新聞より)
平成12年3月16日
ヤマがのこしたもの 三池の3年ー病魔
受川さん(57)。1963年、三井三池炭鉱で起きた炭じん爆発事故で被災した。一酸化炭素を吸い、最重傷の中毒患者とされる。
泊まり込みで付き添うのが、下田さん(73)。受川さんの母親が亡くなったため派遣された。「もう20年になっですね」。受川
さんは事故後、脳が萎縮し、言葉も話せない、寝返りも打てない。下田さんは派遣された時、代わりの人が見つかるまでのつも
りだった。だが、無反応に見えた受川さんは、話しかけると表情を変えた。食事は下田さんの手からしか受けつけないようにな
った。子供たちからは「もうそろそろ」と言われたこともあるが、付添をやめたいと思ったことは一度もない。「もう親んごと
慕うとるでしょうが。捨てきれんとです」。
三井三池鉱業所病院の資料などによると、坑内機械工だった受川さんは、死亡率30%から50%の場所で1時間以上COガスにさら
された。66日間、昏睡状態に陥り、その後135日間にわたって意識がはっきりしない状態が続いた。労使間での取り決めで、閉山
まで社員だった。「ヤマがのうなったけんって、寝たきりで、何も分からんでしょうが。閉山から3年たっても、いっちょん変わ
らんです」。
下田さんによると、盆暮れに会社から届いた見舞い代わりのメロンは閉山後、途絶えた。
平成12年3月18日
ヤマがのこしたもの 三池の3年ー三井支配から脱却説く
・・・古賀さんは「市は、三井の顔を立てることばかり気にする」と感じた。・・・旧産炭地の自治体財政を支えてきた石炭
六法は2001年度で期限切れを迎える。それまでに事業を始めなければ優遇措置は受けられない。
古賀さんは「補助金を得るために事業をするようなもの。ネイブルランドと同じく、将来金食い虫になる恐れが強い」と批判
する。開発の多くは、三井所有地の真ん中や最奥部にあるという。「不便な土地を売り、道路を造らせ、周辺の地価をつり上げ
させようとしている。市は、まだ三井の意のままになっている」
三池炭鉱に38年間勤め、強制連行の歴史や三井系企業の公害を告発し続けた筑後市の武松さんは訴える。「旧市内の8割は三井
の土地。この土地と工業用水を市民の手に取り戻さない限り、三井支配の構図は変わらないし、市の再生もあり得ない」(朝日新聞より)
平成12年3月19日
元三井三池労組書記長 灰原茂雄さんが18日心筋梗塞のため死去。84歳。
平成12年3月25日
貯炭場の主役 石油と交代 三池・閉山から3年
福岡県大牟田、熊本県荒尾の両市にまたがる黒々とした110万平方メートルの広大な土地は、旧三井三池炭鉱四山社宅の跡。
炭鉱全盛期のころ、見渡す限りの社宅が並び、小学校の分校、病院、売店など、ひとつの社会を成していた。しかし、閉山時
には貯炭場になっていた。それから3年。今、そこで大規模な「全農有明石油基地」の建設が進んでいる。タンクは9基で、今
年7月完成予定。隣県農家へも供給する。
貯炭場を歩く。わずかに残った炭の山もやがてなくなる。その時、ここに多くの炭鉱マンが暮らした時代の証も消えてしま
う。雨に洗われ、貯炭場の表面にできた幾筋もの溝は、炭が流した涙の跡のようだった。(讀賣新聞より)
平成12年11月21日
多くの「炭鉱遺産」保存見通し立たず 大牟田 最大のネックは費用
三池争議舞台の三川鉱、三池炭鉱専用鉄道、三池式快速石炭船積機・・・
・・・炭鉱とともに発展した大牟田の町中に残る往時をしのばせる遺産の数々。それはとりもなおさず、日本の近代化を
支えた地域の誇りのはずだ。確かに現在、活用のための具体的な方法はない。各施設を個々に保存しただけでは観光資源と
しては十分とも言えない。しかし、「なんとしても残そう」との機運を盛り上げることが必要ではないか。その努力なしに
は、三池が炭都だったという歴史を物語る証拠が、いつまでも残り続ける保障はない。(讀賣新聞 濱田記者)
平成12年12月3日
無縁仏の追悼堂完成 飯塚市
戦時中に朝鮮半島から強制連行されるなどして炭鉱で亡くなった犠牲者らの無縁仏を供養するため、福岡県筑豊地区の
在日朝鮮人・韓国人や市民グループが飯塚市に「納骨式追悼堂」を完成させた。追悼碑の建立は国内で数例あるが、無縁
仏を供養する納骨堂を兼ねたのは九州では初めてという。
追悼堂を建てた実行委員会のハイ代表(79歳)は、病床で自らの強制連行された人生を振り返って追悼碑建立を決意。
協力を飯塚市に要請した。「強制連行という不幸な歴史を20世紀最後の年に解決したような思い。在日コリア同胞と日本
の平和と友好を願う発信地としたい」と感慨深げだった。
なお、納骨堂は1500万円以上の募金や寄付で建設された。(西日本新聞より)
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