水俣をさるく 4  熊本県水俣市 (2011年9月24日撮影)


 水俣駅から歩いて坪段まで約40分。さらに海沿いに歩いて湯堂まで約20分。さらにまた歩いて茂道まで約1時間。
 水俣の空はあおく、水俣の海はさらにあおい。先々で、道を尋ねる旅人に、水俣の人々は優しい。差別と偏見の歴史にジッと耐えてきた分、人は 優しくなれるのだろうか。水俣の人々が光って見えた。帰りもまた、私は水俣駅まで歩き続けた。

坪段

 この村に異変が起こったのが1954(昭和29)年頃。それは最初飼い猫にあらわれた。そして猫は死んだ。次に もらってきた猫も2,3ヶ月でもがき苦しんで死んでいった。

歩行器(坪段にて)

主のいない二人分の歩行器が空き家に放置されていた

湯堂

 大漁を祈る恵比寿さんと湯堂の港。ここでも1953(昭和28)年頃から魚や水鳥、猫などに異変がみられ始めた。 同所には、差別を無くしていくことや人の繋がりの大切さを伝える活動をしている、胎児性水俣病患者のしのぶさんらが暮らしている。

湯堂

 恵比寿さんの横には、いつまでも美しい海であることを祈るかのように、サンゴが供えられてあった。その側に 可愛い子ネコが一匹。そして、たくさんの釣り人がいた。その内の老人が「いい写真が撮れましたか」と私に声をかけてきた。「滋賀県から来 ました」と言うと、驚いていた。そのご老人は、熊本市内から車でよくこの水俣に釣りにくると言っていた。「刺身がおいしい」と言いながら、 釣った魚を見せてくれた。「夜までここにいる」という。

湯堂

 

茂道

 熊本県最南端、鹿児島県との県境にあり、私のもう一つのフルサト、鹿児島県出水市と隣接している。
 ここでも1953(昭和28)年頃から魚や水鳥、猫などに異変がみられ始めた。昭和29年8月1日付けの熊本日日新聞は、「猫、てんかんで全滅。 水俣市茂道、ねずみの激増に悲鳴」と報じている。その頃には人にも異変が起きていたのである。そして、むら社会にも深刻な亀裂が生じ始めていた。 村の中で孤立していった栄子さんら水俣病患者であったが、しだいに同人らが中心となってその修復に努めていった。その栄子さんも2008年 2月28日午前0時24分逝去された。鹿児島県出身。享年69歳だった。
 なお、ここで獲れる「シラス」は絶品である。小ぶりの「いりこ」もビールのつまみにいい。

茂道

 

「水俣病出水の会」事務所

 JR九州新幹線「出水駅」に隣接して肥薩おれんじ鉄道「出水駅」があり、同駅から水俣市方面へ一つ隣の駅「米ノ津」から 徒歩30分ほどの所に名護港がある。ここは鹿児島県出水市。そして海沿いに「水俣病出水の会」事務所が建つ。
 出水市の最初の患者は網元の釜さんで、1959(昭和34)年6月に発病し、1年4ヶ月後に亡くなった。鹿児島県と熊本県という行政区の違いから、隠れたまま 死亡した水俣病重症患者がいたことも明らかになっている。水俣市茂道の甘夏みかん畑を登って下ると神川(かみのかわ)があり、そこが県境。歩いて行けば、 水俣に近いことが実感できる。県が違っても海は同じであるということである。ここでも当初は水俣病の認定を巡って村が二つに分かれた時期があった。 「わしらが苦労して獲ってきた魚が売れなくなるではないか」と。また、出水市からチッソ水俣工場へ通勤していた従業員もいて、それが市民同士の対立を 生んだ理由の一つにもなっていた。長年に亘って水銀を海へ垂れ流ししたチッソ株式会社の罪は重い。

TOP BACK