もう一つのフルサト−出水をさるく 1  鹿児島県出水市 (2011年9月22日撮影)


 鹿児島県出水郡野田村下名。父はここで生まれ育った。14年間私生子として育ったのち、大正時代、家族で台湾へ 渡った。敗戦後、また故郷へたどり着き、福岡県大牟田市にあった三井三池炭鉱へ職を得た。昭和23年の頃である。そして昭和35年、三池労働争議 が起きた。父らはこれを「三池闘争」と呼び、約1年間闘った。何と闘ったのか。いま思えば、単なる一企業とだけではなく、社会の矛盾と、それを 生んだ国家と闘ってきたのではなかったのか。私は最近そう考える。しかし、やがてその親たちの闘いは終わり、代償として解雇通知を 受ける。そして、社宅があった熊本県荒尾市から岐阜県土岐市へ。そこからまた京都へ。最後父はその京都で亡くなった。まだ61歳だった。死に際、 父は夢の中で出水へ帰った。「とても懐かしかった」。その最期の言葉が、私の心からずっと離れないでいた。「いつか訪ねてみたい」。そして、 父の死から38年、私はもう一つのフルサト、野田村下名への旅に出た。



肥薩オレンジ鉄道「高尾野駅」

 JR九州新幹線「出水駅」から一両編成の肥薩オレンジ鉄道(旧国鉄)に乗り換えて、10分程で高尾野駅に着く。 その無人駅で私は降りた。乗降客は私1人。

高尾野駅前商店街

 駅前商店街は閑散としていた。しかし、道を尋ねる先々での、人の話す言葉が懐かしい。右へ行くと「野田郷駅」。左へ 少し行くと、出水市役所高尾野支所があり、側に小さな図書館と郷土資料館があった。図書館で「野田町郷土史」を開き、役場で父の戸籍を取り寄せた。 そこでもらった観光ガイド「いずみ」には、「大好きな、この街でまっています」と書かれてあった。父のフルサトが、やっと来たかと喜んで迎えてくれ ているような、そんな気持ちにさせてくれた。
 「娘やるなら、野田、荘にやるな。野田は牟田原、荘は田舎」とは、「野田町郷土史」から見つけた俗謡。かつて湿田が多かった野田田圃の実態を表し ている。乾田地よりも必要以上に労力を要し、困難な水田耕作をかつて農家は強いられていた。「出水」という地名からもその様子が伺えられる。そんな 所だったから昔、この地から明治・大正にかけて開拓農民としてメキシコ、ブラジル、パラグアイへ渡って行った者も多かった(野田町郷土史)。私の母の 妹も四国からブラジルへ渡っている。花嫁移民だった。

「台湾台南 サトウキビ農場」

 父方も大正時代、親戚ぐるみで台湾台南州へ渡って行った。その一方で、母方は1936(昭和11)年、香川県から家族 ぐるみで台湾台中州へ渡って行った。その理由は「その時代の不況」等からであり、「もう日本へは帰ってこない」という決意だったという。そして 雑木林を切り開き、農地を開墾した(母の弟の話)。父と母はそこで見合い結婚。私の長兄と姉が台湾で生まれた。
 日本による植民地時代の台湾は、日本の食糧補給基地としての役割を担っていたのである。その代表とも言うべきものの一つがサトウキビ。台湾へ 渡った父方のある親戚(台湾生まれ)は、戦争で召集されるまでの間、台湾製糖株式会社(三井物産グループ)で電気技師として働いていたが、「サ トウキビ畑で砂糖の原料となるサトウキビを栽培し、刈り取り、工場へ運搬するという重労働は台湾人労働者が担っていた」と話す。そこに日本の植 民地政策の実態を垣間見た。現在もその仕組みは、日本における派遣労働並びに外国人労働に受け継がれているようにも感じる。

ワラ小屋があった場所

 しかし、侵略した異国である台湾楽土も、昭和20年8月15日、日本国敗戦と共に夢破れた。我が家は鹿児島へ引揚げると、親戚が 山の麓にワラ小屋を建ててくれた。「ここがあなたの家族が住んでいた場所よ」と、おばさんが教えてくれた。父の母を加えた「家族5人が六畳ほどの広さ にゴザを敷いて暮らした、炊事場は無く、外に石を積んで炊事した、便所は無く、外に穴を掘って用を足した、風呂はもちろん無く、近所へもらい歩い た、夜の灯りはローソクと月明かりだった」とおばさんが昔を語ってくれた。現在同所は誰かの芋畑になっていた。その前を国道504号線と肥薩オレンジ鉄道 が走る。近くには、南国バス「岩元バス停」があった。野田郷駅から徒歩10分程の所である。
 昭和23年頃、父が三池炭鉱に職を得て家族を呼び寄せるとき、父の母は「ここに残る」と言って炭鉱へは行かなかった。その間もなくの 昭和24年4月6日、父の母は、近くに住む兄の子(今回お世話になったおばさん)が様子見に行ってみると布団の中で一人ひっそりと亡くなっていたのである。 父の母、つまりは私の祖母であり、名前を「マツカメ」という。明治24年生まれ、享年59歳。その祖母の父方は士族であったと、おばさんが言った。 そのおばさんもまた昭和10年台湾で生れ、100日後に母親が亡くなったので、おばさんは3歳になるまでマツカメさんに育てられたのである。

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