鹿児島県出水郡野田村下名。父はここで生まれ育った。14年間私生子として育ったのち、大正時代、家族で台湾へ
渡った。敗戦後、また故郷へたどり着き、福岡県大牟田市にあった三井三池炭鉱へ職を得た。昭和23年の頃である。そして昭和35年、三池労働争議
が起きた。父らはこれを「三池闘争」と呼び、約1年間闘った。何と闘ったのか。いま思えば、単なる一企業とだけではなく、社会の矛盾と、それを
生んだ国家と闘ってきたのではなかったのか。私は最近そう考える。しかし、やがてその親たちの闘いは終わり、代償として解雇通知を
受ける。そして、社宅があった熊本県荒尾市から岐阜県土岐市へ。そこからまた京都へ。最後父はその京都で亡くなった。まだ61歳だった。死に際、
父は夢の中で出水へ帰った。「とても懐かしかった」。その最期の言葉が、私の心からずっと離れないでいた。「いつか訪ねてみたい」。そして、
父の死から38年、私はもう一つのフルサト、野田村下名への旅に出た。
![]() 肥薩オレンジ鉄道「高尾野駅」
JR九州新幹線「出水駅」から一両編成の肥薩オレンジ鉄道(旧国鉄)に乗り換えて、10分程で高尾野駅に着く。
その無人駅で私は降りた。乗降客は私1人。
高尾野駅前商店街
駅前商店街は閑散としていた。しかし、道を尋ねる先々での、人の話す言葉が懐かしい。右へ行くと「野田郷駅」。左へ
少し行くと、出水市役所高尾野支所があり、側に小さな図書館と郷土資料館があった。図書館で「野田町郷土史」を開き、役場で父の戸籍を取り寄せた。
そこでもらった観光ガイド「いずみ」には、「大好きな、この街でまっています」と書かれてあった。父のフルサトが、やっと来たかと喜んで迎えてくれ
ているような、そんな気持ちにさせてくれた。
「台湾台南 サトウキビ農場」
父方も大正時代、親戚ぐるみで台湾台南州へ渡って行った。その一方で、母方は1936(昭和11)年、香川県から家族
ぐるみで台湾台中州へ渡って行った。その理由は「その時代の不況」等からであり、「もう日本へは帰ってこない」という決意だったという。そして
雑木林を切り開き、農地を開墾した(母の弟の話)。父と母はそこで見合い結婚。私の長兄と姉が台湾で生まれた。
ワラ小屋があった場所
しかし、侵略した異国である台湾楽土も、昭和20年8月15日、日本国敗戦と共に夢破れた。我が家は鹿児島へ引揚げると、親戚が
山の麓にワラ小屋を建ててくれた。「ここがあなたの家族が住んでいた場所よ」と、おばさんが教えてくれた。父の母を加えた「家族5人が六畳ほどの広さ
にゴザを敷いて暮らした、炊事場は無く、外に石を積んで炊事した、便所は無く、外に穴を掘って用を足した、風呂はもちろん無く、近所へもらい歩い
た、夜の灯りはローソクと月明かりだった」とおばさんが昔を語ってくれた。現在同所は誰かの芋畑になっていた。その前を国道504号線と肥薩オレンジ鉄道
が走る。近くには、南国バス「岩元バス停」があった。野田郷駅から徒歩10分程の所である。 |