倶會一処 (ぐえいっしょ)  大牟田市米生町 福寿院


 宮ノ原坑前の通りから狭い坂道を上がる。このまま進むと民家の庭先に入ってしまうのでは ないかと不安になるが、そのすぐ手前から道はカーブし、間もなく、権現山の頂上に建つ福寿院にたどりつく。

 「囚人墓」と呼ばれている「倶會一処」の墓碑は、この福寿院から北へ少し下った竹藪の中にある。「大正10年3月31日 三井三池鉱業所」と刻まれている。裏側には倒れている墓石もいくつかあって、昼間も薄暗く、人が墓参りに来ている様子 もない。
 余りにも荒れ放題となっていたので、私は福寿院関係者に墓地の管理の有無について尋ねてみた。すると、同墓地は「当 院が管理しているものではない」という。
 しかし、「大正11年繁村順二郎と名乗る僧がここに真言宗の寺を開き、住職となった。人望高く、三池刑務所から出所し てきた人々の良き相談相手となり、実際その中には住職の導きで僧になった者もいたほどだった。彼の死後になって、住職 の人柄を慕っていたある者が調べたところ、繁村順二郎の名が実は偽名であり、本名を津守密玄という、彼自身三池集治監 の元受刑者、いわゆる"放免囚"だった」(中川雅子著「見知らぬわが町ー1995真夏の廃坑」より)ということから、「倶會一 処」の墓碑も、元々は福寿院がお世話していたことが伺えられる。

 そして、この「倶會一処」の墓碑の裏側に倒れ、無縁墓地となっているいくつかの墓石こそ、元囚人たちの墓ではなかろ うかと思えてくるのである。

 帰り道、宮ノ原坑のヤグラが目の前にひろがる。その昔、三池集治監から鎖でつながれた囚人坑夫たちが通った宮ノ原坑。 いつの頃から誰が言い出したのか、それは修羅坑(シラコ)と呼ばれた・・・。

 

囚人墓 (2001年3月撮影)

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