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江戸時代の三池炭鉱

3.柳川藩小野家による平野山経営

〜18世紀前半の三池炭鉱〜
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3.1 小野春信による石炭採掘

   柳河藩の家老である小野春信が、享保6(1721)年11月に平野山で採炭を開始した1)。これは伝治左衛門が石炭を発見したとされる文明元(1469)年から約250年ぶりに現われた、三池における石炭採掘の記録である。春信が採炭を平野山で始めたのは、家老として藩政に貢献があったとして、同じ年の3月にその土地を拝領していた2)からである。

 このように平野山の拝領から採炭の開始までの期間は8ヶ月であり、それほど長いものではない。このことは春信が拝領した土地にたまたま石炭があったから、炭鉱経営を開始したのではないことが示唆される。つまり春信は予め平野山における石炭産出の事実と、炭鉱経営の利益を知悉しており、なんらかの炭鉱経営のノウハウをもった上で、採炭を開始したと考えられる3)

 なお、小野春信が採炭を開始した平野山とは、高取山に連なる山々のうち当時の平野村、すなわち現在の大字歴木に含まれる範囲である。また伝治左衛門が石炭を発見したとされる稲荷山の東側になる。現在の大牟田市の北半分はかつて柳河藩領であり、現在の歴木の辺りが三池藩領にやや入り込んだ形になっていた。


図3-1 稲荷山・平野山・生山位置図

 小野春信の没後も平野山の炭山経営は一貫して小野家が行い、小野家による経営は明治6(1873)年に三池藩領の炭鉱と併せて官営へ移行するまで続けられた。小野家による炭鉱経営は順調であったようである。「旧柳川藩志」によると4)「年々其の採掘の利益小野氏の所有に帰せしを以て其冨諸家老家の上にありて、餘沢其の子孫に及べり」とあるから、平野山採炭の利益の大きかったことが伺える。

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3.2 小野春信とは誰か

 小野家5)は柳河藩の家老を代々勤めている家柄である。春信の祖先で柳河藩の初代藩主である立花宗茂6)(1567〜1642)に仕えたのは、小野和泉守鎮幸7)(1546-1609)である。なお小野和泉守鎮幸は日本槍柱七本の一人として、太閤秀吉から讃えられたほどの武功で知られている。
 春信は和泉守鎮幸から数えると、6代目にあたる。元は、立花勝兵衛虎良の次男8)であったが、元禄10(1697)年、15歳のとき藩主の鑑任[あきとう]の命によって小野隆幸の養子となっている。

 元禄13(1700)年、18歳のとき大組頭となる。元禄16(1703)年12月29日、元禄地震(11/23)により被災した江戸城和田倉、日比谷御門の修築のため惣奉行として柳河を出発。翌年竣工。宝永元(1704)年7月4日に家老職を兼ねた9)。22歳の時のことである。

 享保6(1721)年に採炭を開始した平野鷹取山は藩政上の功労によってを賜ったものだとされるが、なにが功労に値するのかは資料を見てもよく分からない。旧柳川藩志によると、貞俶公の代に内証方上聞其他諸役を掌る、享保(1716-1735)の末に大坂蔵元の用を処理する、元文4(1739)年3月に伊勢太神宮代参の命を蒙る、といった事蹟があったらしい。

 宝暦4(1754)年10月5日10)に逝去。享年72。墓所は大牟田市大字岩本にある慧日寺(えにちじ)11)Mapfan)境内の東で、小野家歴代の墓もここにある。

 

小野家墓所
写真3-1 小野家墓所
慧日寺本堂
写真3-2 慧日寺本堂
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3.3 平野山の坑口と関連施設

 春信は炭鉱経営に際して、平野山の麓、平野堤(小野堤)のほとりに餐霞(さんか)亭と名づけた別邸を構え、ここを炭役所としていたという12)(Mapfan)。恐らく各坑で採掘された石炭は一旦ここに運ばれ、出荷前の検査や選別、場合によっては貯炭が行われたのだろう。

 小野家は明治維新後ここに居住したが、現在は市外に転出している。そのためにかつての建物は取り壊され、敷地は住宅地となりかつての姿を忍ぶことは出来ない。また平野堤も大牟田記念病院の建設に伴って堤の南東の一画が埋め立てられ、かつての形とは変わってしまった。ただし水辺に立つと、今でも平野山を望むことはできる。山裾に病院を初めとする建物が見え、樹量は江戸時代にくらべると増加しただろうが、さすがに山そのものの形は春信のころから変化はないであろう。


写真3-3 小野堤からの平野山遠望

 享保6(1720)年に春信が採掘を開始した場所は分からない。ただし明治時代初めの時点で、坑口は梅谷、満谷、大谷、本谷、炉谷、西谷、の6坑とされている13)。「大牟田市史」にも「(名前に)谷のつくことで地勢が想像される14)」とあるように、それぞれの坑口の位置は、平野山における各々の谷が該当する。

 明治14(1881)年5月に作成された三池鉱山煤田図15)(図3-2)というものがある。これには、平野山の6坑を含む坑口の位置と積出のための道、河川や溜め池が記されている。この図と現在の地形図を重ね合わせて、それぞれの坑口の位置を推定すると図3-3のようになる。

 なお平野山全体に小野家の鉱区が拡大するのは、『大牟田市史』によると天保6(1835)年にそれまでの鉱区の周辺を買収16)してからのことだという。つまりそれ以前の春信以来の100年間余はその一部範囲でのみ採掘したわけだから、春信が立花家から賜ったのは平野山全体ではなく、その一部に過ぎなかった17)ようである。

三池鉱山煤田図(一部)
図3-2 三池鉱山煤田図(一部)
下が北

平野山坑口
図3-3 平野山坑口推定図

石炭搬出経路
図3-4 柳河藩石炭搬出経路

 それぞれの坑口には山役所を設けたとされるが、その実態は不明である。おそらく坑夫の管理や、石炭搬出の手配などがされたのだろう。掘り出された石炭は、ここから平野堤ほとりの炭役所まで運ばれ、更に長溝川までの道を通り、川沿いに横須浜まで運ばれた。ここから各地に出荷されたという。また少量の船積は堂面川河口、長溝川河口を利用したとされている18)

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3.4 石炭需用の増大と用途の多角化

 小野春信が石炭の採掘を開始した背景には、当時の石炭に対する需用の増大があったと考えられる。柳河藩や三池藩で、石炭に対する需用が増加していたことを、明確に示す資料は見つけられなかったものの、福岡藩では石炭に対する需用が高まっていた。薪炭の不足した福岡藩では、都市部でも石炭の利用が始まった2-10)ことは既に書いたが、享保5(1720)年には石炭の産地であった遠賀郡19)で石炭が払底したという記録が残っている20)。これは、小野春信の平野山開坑の前年になる。

 その後福岡藩では、16年後の元文元(1736)年に他国出炭改めを任命して、同時に福岡へ焼石を送る買元を許した21)。しかしこれは上手く行かなかったようで、責任者は翌年には辞任している22)。福岡藩から移出された石炭は、小倉や下関に運ばれて自由に売買されていた23)。当然のことながら、石炭を掘ることの利を求めての動きだが、福岡藩は当時、百姓が石炭を掘ることで、農業生産に支障が出ることを恐れて石炭採掘をあまり推奨していなかった24)

 こういったことから三池炭山の石炭についても、領内で消費するだけでなく、他藩領へ移出することで利益を得ようと考えていたとしても、決して不思議ではないだろう。享保12(1727)年に久留米藩では、士分の者が石炭を焚いてはならない、との申渡しがあった25)。このことからも久留米でも石炭が使われていたことが分かる。久留米で使われていた石炭は三池炭だったかもしれない。
 なお、同じ享保年間に唐津炭田が発見されているが、当時は農家の自家用として使われただけ26)であった。

 このころは石炭需用が高まるとともに、石炭の用途も拡大している。製塩、漁業、瓦焼、火薬製造、鍛冶に用いられ始めた27)。このうち、特に三池の石炭とかかわりが深いのが製塩であり、製塩業は明治の初めに至るまで、石炭利用の多くの割合を占める事になる。

(1) 製塩での石炭利用

 歴史的に日本での製塩は、海水を鹹水(かんすい)と呼ばれる濃い塩水にし(採鹹)、これを煮詰めて塩の結晶をつくる(煎熬(せんごう))という方法がとられてきた28)。この煮詰める作業には、多くの燃料が必要とされる29)

 『塩の日本史』によると30)、製塩での石炭利用の開始は、福岡藩領にある津屋崎31)(福岡県宗像郡津屋崎町)が元禄13(1700)年ころで、最も早い。薪炭の不足した福岡藩なればこそ、燃料費の削減の為に石炭が用いはじめられたのであろう。

 次に早いのは肥後の長洲32)(熊本県玉名郡長洲町)で、享保5(1720)年のことだという。この長洲での製塩に用いられた石炭は恐らく、三池地方のものだっただろう。

 当時、寛永年間(1630-1640)に赤穂で始まったとされる入浜式の塩田33)が、瀬戸内海を中心に普及していた。これは大規模で効率的な製塩方法だったために、旧来の非能率な製塩方法を駆逐していった34)。その結果、元禄時代(1688-1703)には瀬戸内海諸国が全国需用の50%の塩を生産する段階にまで達していたという35)。そのため全国各地で、より効率的な製塩方法を模索してたらしい36)。津屋崎と長洲で最初の塩田がつくられたのはどちらも寛文年間(1661-1772)であり、入浜式塩田が瀬戸内海に広がっていた時代にあたる。

塩浜
鹽濱(日本山海名物図絵)

(2) 漁業での利用

 享保5(1720)年に福岡藩の遠賀郡で石炭が払底してしまったことは、先に触れた20)。そのために玄界灘の浦々では、漁船が篝火を焚くのに難儀したという。そのことから、当時は漁火を焚くために石炭が使われていたことが分かる。

 現在は漁火というと、イカ釣りに用いられる集魚灯が多いのではなかろうか。この漁火を使う漁法は灯に魚が集まる習性を利用したものであり、古代から使われていた。萬葉集には、漁火を詠んだ大伴家持の歌37)が伝えられている。

 それでは江戸時代はどうであったかというと、当時の玄界灘では、鯖漁にあたって漁火が使われていたらしく、『筑前國續風土記』にその様子は晴れた夜の星のようだと記録されている38)。『日本山海名産図絵』によると、この漁法は、元来今の兵庫県、京都府の日本海側や和歌山県熊野で行われていたもの、それぞれの船に篝火を2つずつ焚き、竿もなく糸に餌を付けるだけで、釣っていたという39)

 ただし、当時有明海で石炭を焚いた漁火による漁法が行われていたかどうか分からない。現在でも有明海で鯖漁は行われていないようである。そのため享保のころに三池の石炭が漁業に使われていたということは、考えにくい。

 この他にも、火を焚いた船が魚を広げた八駄網の上に誘導する、という漁法が大阪湾沿岸から関東や九州へも伝わっていたらしい40)。しかし、この漁法は九州では南九州漁場で広まったらしく、石炭が利用された可能性は低い。

(3) 製瓦、火薬製造での利用

 『石城志』によると、正徳年中(1711-1715)以降には、博多の市中で製瓦、火薬製造等にあたって石炭が用いられていたとされる41)

 製瓦のためには、粘土でつくった瓦を焼く必要がある。近代以前の窯は熱効率が悪く、瓦を焼く工程で大量の薪が必要とされた42)。製塩と同様に、薪の利用を減らすために、石炭の利用が始まったのであろう43)

 博多で瓦が焼かれていたことは、長らく瓦町という町名があったことからも裏付けられる44)。全国的な傾向として45)、元禄年間には寺院の再建が各地で行われたために瓦の需用が起こり、享保5(1720)年になると江戸では防火対策として瓦の使用が推奨されるようになったというから、町家での瓦の利用も増えたはずである。
 とはいえ地方都市ではどれだけの需用があったのか、よく分からない。しかし瓦は寺院には不可欠なものであり、重量物なので消費地に近い場所で製造した方が有利だろうから、少なくとも柳河や久留米では瓦が焼かれていたはずである。その場合に、三池炭が使用されたと考えることは、それほど突拍子もないことではないだろう。

 一方の火薬製造だが、泰平の世の中である当時それほどの需用があったのだろうか。博多で行われていた火薬製造についての情報も、得られなかった。三池炭が火薬製造に使われていた可能性は低いのではないだろうか。ただし、江戸時代に鉄砲が全く使われなくなったわけではない46)。幕府軍役に従って各大名家は鉄砲を保有していたし、民間でも鳥獣から畑を守るための脅し鉄砲や猟師鉄砲を保有していた。

 なお、火薬製造に当っての石炭の用途だが、火薬の原料である硝石(硝酸カリウム)を得るために、硝酸カリウム水溶液を煮詰める工程がある47)から、その際に必要な燃料としたものと思われる。なお当時の火薬は黒色火薬48)で、粉末にした硝石と硫黄、木炭を混ぜてつくられていた。

(4) 鍛冶燃料での利用

 宝永7(1710)年に深堀藩領の高島(長崎県西彼杵郡高島町)で発見した石炭を、鍛冶燃料として用いたという伝承が伝わっている49)。石炭は硫黄分を含んでいるから悪影響を与えそう50)なのだが、現実には石炭を鍛冶に利用している人がいる51)ので、それほど問題はないのかもしれない。

 しかし、他国では鍛冶に石炭を利用した記録を見つけることは出来なかった。鍛冶燃料としての石炭利用は深堀のみの限定的なものであって、三池炭は鍛冶燃料として使われなかったのではないだろうか。


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