注釈 (2-1)
1) 見られている
 伝治左衛門以降、石炭は自由に採炭され利用されていたと、「大牟田市史」を始め多くの本で説明されている。(大牟田市史上巻,1965,pp.716-717)確かに伝治左衛門の伝承が正しければ、それ以後、細々とでも使われていたのは間違いない。
 けれども石炭利用の形跡が、全く文献に現れないというのは何故なのだろうか。発見されたという年代も疑わしく思えてしまう。
 まず、藩が管理する対象でなかったために、公文書の形としては残されていない。九州の主要街道である長崎街道に面した黒崎や小屋瀬での石炭利用は紀行文*で度々紹介されているが、三池は主要街道から外れていることもあり、紀行文自体が見出せない。
 一種の百科事典であった「和漢三才図絵」**のような本草書にも、三池は石炭の産地として紹介されていない。諸国の名産を紹介した書物***にも、遠賀郡の黒崎や舟木は石炭の産地として紹介されているが、三池では歌留多が上げられるだけである。
 三池の石炭の記録がないのは、単に大きな街道に面することのない田舎であったというよりも、むしろ産出量自体が筑豊や舟木に比べると少なかったか、ほとんどなかったからではなかろうか。

*17世紀のものでは、オランダ商館付きドイツ人医師であるケンペルによる「日本誌」の中に1691年と1692年の二回にわたる江戸参府の日記が掲載されている。(E.ケンペル:日本誌 下巻,今井正訳,霞ヶ関出版,1973)
** 寺島良安:和漢三才図絵・8,竹島淳夫訳注・島田勇雄監修,東洋文庫, 1987,p.243; 寺島良安:和漢三才圖會,和漢三才圖會刊行委員会編集,東京美術刊,1970,上pp.661-662
***松江重賴:毛吹草,竹内若校訂,岩波文庫,1943; 井原西鶴: 一目玉鉾,西鶴全集第七巻,正宗敦夫編纂, 日本古典全集刊行会, 1946
2) 付近の人間が
 どの程度までが付近の人間だろうか。明治初年の資料だが、「三池鉱山年報」に、「文明年度伝治左衛門行業ノ頃ハ山元ヨリ壱里或ハ半里近傍ノ焚用ニ供スルノミニシテ」という記述がある。 (登治ノ起因, 明治六年三池鉱山年報, 福岡県史 近代資料編三池鉱山年報, 福岡県, 1982, p.1)
 この記述がどの程度正確なものかは分からない。一里といえば4kmだから、北は白銀川、南は諏訪川あたりまでを含むことになる。半里にしても、江戸時代の一つの村の範囲に収まることはない。
3) 自由に掘り出していた
 鉱物を掘り出すことが、当時の法制上はどのような扱いになっていたのかは未詳。当時の山は入会地にでもなっていたのだろうか。所有権や耕作権などのある土地から石炭を掘り出す場合は、どのような扱いになっていたのか。
 木下榮は次の樣に律令時代の法制を紹介していたが、あるいはこの規定が生きていたのだろうか。「國内に出る所の鑛物は凡て官府で以て之を採る、併しながら官で之を採らぬ時分には、百姓の自由に採るに任せて置くと云ふ事が、今を去る千三百年前の大宝令に規定され(ていた)」(木下榮: 大牟田市史, 1931, p.301)
参考までに紹介すると、大宝元(701)年に撰定された大宝令は現在散逸してしまっており、かつその復元も終っていない。しかし、養老2(718)年撰定の養老律令とほぼ同じと解されている。養老令で該当する条文は次の通り。

養老令)雑令9 (国内条) 凡国内有出銅鉄処。官未採者。聴百姓私採。若納銅鉄。折充庸調者聴。自余非禁処者。山川藪沢之利。公私共之。
(訳)
 国内に銅・鉄を産出する処があるとき、官司が採掘しないならば、百姓(=一般人)が私的に採掘するのを許可すること。もし銅・鉄を納めて庸調に換算したならば許可すること。それ以外の禁処(=禁止区域)でない場所については、山川藪沢の利用は、公私ともに(平等に)すること。

4) 「土人山ヲ掘リ之ヲ取リ、以テ薪ニ代フ」

 原文は「土人掘VV之以代V薪」(寺島良安: 和漢三才圖會 上,和漢三才圖會刊行委員会編集,東京美術刊,1970,pp.661-662)
但し、()は返り点、{}は送り仮名
5) 「掘る」「掘り取(る)」という記述
 例えば次の通り。
「石炭を掘る小さい村があった」
(E.ケンペル:日本誌 下巻,今井正訳,霞ヶ関出版,1973, p.350)
「村民是を掘り取て」
(貝原益軒: 筑前国続風土記 巻之二十九 土産考上 土石類,益軒全集 巻之四,益軒会編,益軒全集刊行部, 1910)
「本草ニノスル所ト同シ山ヲホリテトル」
(貝原益軒: 大和本草巻之三 金玉土石,中村学園蔵,1709;貝原益軒アーカイブ
6) はぐり取る程度だったろうか
 掘り出すにあたり道具は何を使っていたのだろうか。具体的な記述がないから想像するほか無いのだが、まさか手ぶらで出かけ、素手で石炭を掘り取り、両手に持って帰ったとも思えない。だからといって、専用の工具を所有していたとも思えない。農具を転用して、鍬ではぐりとったのではないだろうか。
7) 持ち帰ったらしい
 明治初年の「三池鉱山年報」に次の様な記述がある。 「(文明年度伝治左衛門行業ノ頃ハ)掘出タル石炭ハ米穀ニ用ユル籾通シニテ振ヒ大塊ノミヲ用ヒ、粉炭ハ掘出タル場所ヘ其儘捨置ケル」(登治ノ起因, 明治六年三池鉱山年報, 福岡県史 近代資料編三池鉱山年報, 福岡県, 1982, p.1)
 籾通とは、籾が通る網目をもつ目の粗い篩[フルイ]のようなもの。ただし籾通が何時ごろから農具として用いられたのかは未詳。
 また掘り出した石炭を持ち帰るには、畚(ふご・もっこ)を用いただろう。ただしこれは他の方法が考えにくいだけで、確証があるわけではない。
8) 薪代りとして用いたようである
 「土地の人は山を掘ってこれ(=石炭)をとり、薪の代わりにする」(寺島良安:和漢三才図絵・8,竹島淳夫訳注・島田勇雄監修,東洋文庫, 1987,p.243)
「遠賀郡にて村民是(=石炭)を掘て薪に代ふ」(津田元顧,津田元貫:石城志,九州公論社,1977, p.117)
など
9) 石炭の利用が進んだ
「福岡藩民政史略」には、「藩債累りて、償責の道なく、國中の竹木を伐りて、一時の急を救ひければ、薪炭甚だ乏しくなりて、人皆憂苦せしに、石炭の發する事、年を逐て増しければ、民生日用の助となれり」とある。(福岡縣史資料第一輯, 1932, p.391)
 領内の薪炭が不足した結果、少なくとも正徳4(1714)年以前から、遠く五島にまで燃料供給をあおいでいたという。(檜垣元吉「北九州の石炭」『日本産業史大系8九州地方篇』, 東京大学出版会, 1960, p.219)
 大名家の財政が借金に支えられていたことは、貞享3(1686)年に脱稿された熊沢蕃山の『大学或門』にも見ることができる。

すべて今の世の中は、貴賎共に借金のおひ倒れといふもの也。武士・百姓つまりたれば、工商も困窮す。是天下の困窮也。公儀の御蔵の金銀・米穀不残出してすくひ給ふとも、百分が一にも及ぶべからず。いかんとなれば、今借銀高は天下の有銀の百倍にも過べし」(『日本思想大系30 熊沢蕃山』後藤陽一・友枝龍太郎校注, 岩波書店, 1971, p.416)
 困窮した大名家が領内の木材を切出し売却することは、福岡藩以外でもなされていた。享保3(1718)年に秋田藩の山方泰護が藩主に差出した上書(『山方泰護上書』)に、次の一節がある。

御領内は、山沢大き地に御座候故、材木薪も夥敷く之あり候処、古来より段々切り尽し、且上方へ御登せ材木として、大分数年に之れあり候に付て、山々荒果申候。唯今処々に相残り候山林は、切取り候ても運送など罷り成らざる深山にばかり御座候。(中略)御本田・新田共に其本の山林荒れ候故、或は水損又は川欠等、年々数多く之れあり候間、自然に御高も減じ候
(奈良本辰也『日本の歴史17町人の実力』中公文庫, 1974, p.272より)

10) やむを得ず使用した
明和3(1766)年に刊行された博多の地誌である「石城志」には次のように記されている。
 「其頃(=正徳年間,1711〜1715)長崎の外科峯氏[イ高白又高伯]なる人、博多に來り往けるが、此炭を試みに釜下に燒けるに、餘臭甚しく、近隣にて忌嫌へり」(津田元顧,津田元貫:石城志,九州公論社,1977, p.117)
 これは博多での出来事であるが、事情はどこも変らなかったのではないか。
11) 風呂の釜焚きにも利用されていた
「浴桶ノ小爐ニ焼之テヨシ」(貝原益軒: 大和本草 巻之三 金玉土石,中村学園蔵,1709;貝原益軒アーカイブ
 「水風呂のかまにたきてよし」(貝原益軒: 筑前国続風土記 巻之二十九 土産考上 土石類,益軒全集 巻之四,益軒会編,益軒全集刊行部, 1910)なお水風呂というのは、今では一般的な肩までつかる浴槽を持った据え風呂のことである。江戸時代に一般的だったのは、実は蒸し風呂であったという。
 後年だが、司馬江漢の旅日記に、天明8(1788)年10月4日のこと、飯塚で泊まった家で、「風呂も之(=石炭)にて立る故、とかくにくさし」とある。(司馬江漢: 江漢西遊日記, 芳賀徹・太田理恵子校注, 平凡社東洋文庫, 1986, p.97)
12) 販売もされていた
 「大和本草」によると、「賤民コレヲホリテウル」とあるから、少なくとも「大和本草」の出された宝永(1704〜1710)のころには、石炭も販売されていたと見られる。(貝原益軒: 大和本草巻之三 金玉土石,中村学園蔵,1709)
 また現在の長崎県西彼杵郡香焼町では、元禄13(1700)年ころ数人が専業ではなく石炭稼ぎをしていたという。『炭坑誌−長崎県石炭史年表』によると、『香焼村郷土史』に「元禄十三年ノ調査ニ徴スレバ其ノ以前ニ於テモ已ニ石炭ノ存在ヲ認メタルモノノ如ク、当時ハ村民ノ素人数人ノ石炭稼ギアリ。安保、辰ノ口、尾ノ江方面ノ各所ニ開坑採掘セリ」という記述があるという。(前川雅夫『炭坑誌−長崎県石炭史年表』葦書房, 1990, p.23)
 『香焼村郷土史』は未見だが、長崎県立図書館の書誌情報によると次のとおり。香焼尋常高等小学校編『西彼杵郡香焼村郷土誌』香焼村 香焼尋常高等小学校, 1918。
 
13) 詳らかでない
 元禄時代の記録に次のようなものがある。
「○戸畑 ○黒崎 石を焼く所也」(井原西鶴: 一目玉鉾, 正宗敦夫編纂, 西鶴全集第七巻, 日本古典全集刊行会, 1946,p.134)
 3月5日(第5巻 第14章 第2回参府紀行) 「小屋瀬(こやのせ Kujanosse)、町ともいうべきかなり大きな村である。道行く村人の姿がひどく煤けて黒いのは、石炭を焚くためであろう」(E.ケンペル:日本誌 下巻, 今井正訳, 霞ヶ関出版, 1973, p.372)
 淺井淳は上記にある「石を焼く」「石炭を焚く」をコークスをつくっていると解釈し、「一目玉鉾」が元禄2(1689)年の出版、ケンペルの第2回参府が元禄5(1692)年だから、それ以前の貞享年間(1684-1687)には既にコークスはつくられていたと推測している(淺井淳: 日本石炭讀本, 古今書院, 1941, pp.212-217)
 しかし本当にそうだろうか。「焼く」も「焚く」も、「焼[く]べる」程度のことを指していた可能性がある。
 宝永6(1709)年に発行された「大和本草」で貝原益軒が「初めてガラ(=コークス)に焼くことを記している」と、淺井は同書の中で述べている。(前掲書,p.214)しかしこの指摘は何を指しているのか分からない。「大和本草」には「コレヲタキテ其臭衣ニウツレハ久シク散セス」とあるが、ここに書かれた「タキテ」を、コークスにするという意味で読み取ったのだろうか。しかしこれは、煮炊きなどに石炭を使うと臭いが染み付いてしまうと言っているだけで、とてもコークスにするとは読み取れない。

 ところで大野・新藤も「この石炭の需用は、はじめは風呂の燃料、「登治[とじ]」としてのコークスにして炊事・暖房用の燃料として使用されていました」と書いている。(大城美知信・新藤東洋男: わたしたちのまち 三池・大牟田の歴史(補訂・拡大版), 古雅書店(大牟田市), 1996,p.126) しかし「はじめは」というのがどの年代かはっきりしないうえに、特に典拠は示していない。

 私が調べた範囲で、確実にコークスを使っていると断言できるのは、正徳年間(1711〜1715)以降、明和3(1766)年以前である。明和3(1766)年に刊行された「石城志」には、正徳年中以降のこととして「両郡の村民等、燃石を堀て炭となし」と記されている。(津田元顧,津田元貫:石城志,九州公論社,1977, p.117)
 ただし何分調査不足であるから、元禄年間にコークスが使用されていなかったとは断言することはできない。
14) 伝治左衛門が見つけたという伝承もある
 「三池鉱山年報」記載の記述をそのまま引き写す。

 登治ト唱フルハ、トツル即チ閉塞ノ意ナランカ。是ハ文明年度伝治左衛門行業ノ頃ハ山元ヨリ壱里或ハ半里近傍ノ焚用ニ供スルノミニシテ、掘出タル石炭ハ米穀ニ用ユル籾通シニテ振ヒ大塊ノミヲ用ヒ、粉炭ハ掘出タル場所ヘ其儘捨置ケルカ、或時里民等偶然其地ヘ火ヲ焚キケルニ、其火自然ト捨タル粉石ニ燃付数日間不消故、其儘打捨置タル所、折節大雨降リ下リ忽然右火ヲ打消ケレハ其跡一面に閉塞セリ。因テ伝治左衛門不思議ニ思ヒ是ヲ掘起シテ見レハ、表面ニ五色ノ光彩ヲ顕ハシ殊ニ美麗ナリケレハ、斯ク粉炭ノ一塊ニ閉タルコトハコトハ全ク油気ノ多キ故ナルヘシ、因テ之ヲ焚用ニ充ハ必ス生石ニ増ルナラント考出セリトソ。是ソ登治ノ起因ナリケル。
(登治ノ起因, 明治六年三池鉱山年報,福岡県史 近代史料編 三池鉱山年報, p.1)

15) 「米の山のアパッチ砦」として紹介されている
 大牟田市役所主査・主任会編:大牟田の宝もの100選,海鳥社,2002,pp.28-29
 また同書の内容は大牟田観光協会のサイト内に転載されている
16) 古第三紀始新世
 「大牟田市史」によると、古第三紀は約7,000万年前〜約4,200万年前だという。(大牟田市史上巻,1965,p.47)
 最近の説によると、古第三紀は約6,500万年前〜2,350万年前にあたり、そのうち始新世は約5,300万年前〜3,400万年前になるという。 
17) 炭層露頭が確認できる
 これも「大牟田の宝もの100選」で紹介されている。(大牟田市役所主査・主任会編:大牟田の宝もの100選,海鳥社,2002,pp.24-25)また同書の内容は大牟田観光協会のサイト内に転載されている
 他に、:石川保著「三池街道をゆく」に基づくサイト「三池街道を歩く」内でも、三池街道沿い櫟野にある石炭露頭が紹介されている。
18) 植物堆積が必要であったという
 「大牟田の宝もの100選」に典拠が示されていないが、「石炭は、土に埋もれた植物残骸の層が二十−三十分の一の厚さに押し固められる」とある。(大牟田市役所主査・主任会編:大牟田の宝もの100選,海鳥社,2002,p.29)
19) 繁茂した植物が変成したものである
 一般に石炭を形成する根源植物の生成時期は、古生代シルリア紀から新生代第三紀にかけてとされ、年代としては約4億3,500万年前から数千年前までの間とされている。約4億年前のシルリア紀は植物が上陸しはじめた時期であたる。約3億年前の石炭紀には巨木が海岸地帯に繁茂し、それは世界の多くの石炭の根源植物となっている。
 なお三池炭に限らず、日本炭の多くは数千万年前の第三紀に繁茂した、被子植物やマツ類等の裸子植物類を含む顕花植物が根源植物である。

 なお世界の石炭が石炭紀に限って大量に作られたのは、微生物も進化の途上だったために、分解速度が追い付かなかったからと考えられている。(地球温暖化解説参照)

表 地質時代区分
年代(万年前)


第四紀〜165


新第三紀〜2,350
古第三紀〜6,500


白堊紀〜13,500
ジュラ紀〜20,500
三畳紀〜24,500


二畳紀〜29,500
石炭紀〜36,000
デボン紀〜41,000
シルル紀〜43,500
オルドビス紀〜50,000
カンブリア紀〜54,000
以下略
※「ポケット版学研の図鑑(7)鉱物・岩石」(学習研究社,2002)を基に作成
20) 水中でゆっくりと泥炭化し
 植物が石炭になる前に、まず泥炭化の過程を経る。
 落葉や倒木が地上に堆積した場合、通常は微生物によって分解されてしまう。堆積する植物が腐植せずに泥炭化するのは、好気性菌などによる分解能力を越えて植物が堆積した場合であり、水中等の樣に酸素の供給が不十分な条件でおこりやすい。例えば尾瀬ヶ原や釧路湿原などでは、今も泥炭が堆積し続けている。(西岡邦彦:太陽の化石:石炭,アグネ叢書,1990,P.3)
21) 地殻変動の結果埋没した後に
 石炭層が何層もあるのは、繁茂した植物の堆積と砂泥による埋没が何度かにわたって繰り返された結果である。
22) 褐炭を経て石炭化した
 地中に埋没した泥炭は地下の地圧と地熱によって、褐炭を経て石炭化が進む。この過程では水分や揮発分が減少し、炭素の含有量が上昇する。 (西岡邦彦:太陽の化石:石炭,アグネ叢書, 1990, pp.13-16)
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