前へTopに戻る次へ
江戸時代の三池炭鉱

2.自由採炭の時代

〜石炭利用の開始〜
上へ

2.1 伝治左衛門の継承者たち

 伝治左衛門が石炭を発見したと伝えられている文明元(1469)年から、小野春信が平野山で採炭を始める享保6(1721)まで、三池地方における石炭の採掘や利用を記す文献は見出せない。しかし元禄年間(1688-1703)くらいまでの石炭をめぐる状況は他の産炭地とあまり変らなかったと見られている1)

 当時はどこも藩が介入すること無く、付近の人間が2)必要に応じて、自由に掘り出していた3)らしい。例えば、「土人山ヲ掘リ之ヲ取リ、以ッテ薪ニ代フ」4)といった工合である。

(1) 採炭の方法


 採掘の方法について具体的なことは分からない。幾つかの文献に目を通しても、ただ「掘る」「掘り取(る)」という記述5)があるのみである。とはいえ、土地の人間が必要に応じて採るのだから、本格的な坑道を持つ他の金属鉱山のようなものではなかっただろう。せいぜい地表に露出したそれほど厚くない石炭層をはぐり取る程度だったろうか6)。掘り出した石炭は、その場で篩にかけて大きな塊だけを持ち帰ったらしい7)

(2) 用途


 掘り取られた石炭は、日用の煮炊きのための薪代りとして用いたようである8)。これは、三池でも事情は変らなかったであろう。
 特に福岡藩は、貞享年間(1684〜1687)に藩の借金が嵩み、借金返済の足しに木や竹を切出したため、藩内では薪炭が不足し、石炭の利用が進んだ9)という。ただし好んで使われたわけではなく、石炭のもつ独特の臭いは嫌われており、薪炭不足のためにやむを得ず使用した10)ようである。

 煮炊き以外には、風呂の釜焚きにも利用されていた11)。家庭用の風呂であれば直接石炭を掘り出すかも知れないが、銭湯であればどうであろうか。必要な石炭は購入していたのではないだろうか。文献によると、販売もされていた12)ことがうかがえる。

 このほか、灯としての利用がされていたことは、既に記したとおりである1-6)1-10)

(3) コークス


 石炭を燃料として使う際に煙や臭いが嫌われたが、それらを減らすために、石炭をそのまま使うのではなく、一旦蒸し焼きにしてコークスにしてから使うという方法がある。黒崎などでは元禄以前から作られていたとされているが詳らかでない13)。なお、登治[トジ]と呼ばれるコークスの製法は、三池で石炭を発見した伝治左衛門が見つけたという伝承もある14)が信じ難い。


図2-1 「江漢西遊日記」より
後年のものだが、煮炊きの様子は大差ないであろう
上へ

2.2 村びとの掘り出した炭層露頭はどこにあるか

 村びと達はどこで石炭を掘出していたのだろうか。石炭を含めて鉱物は必ず地中に埋まっていると考えがちだが、時に地上に鉱脈が現われていることがある。それは露頭と呼ばれる。伝治左衛門が石炭を見つけたのは、炭層の露頭付近で焚き火をしたからであるし、それ以後の里人が石炭を採っていたのも、この露頭を利用していたものと思われる。

(1) 炭層露頭線


 炭層露頭は連続して連続して見られるが、これを炭層露頭線と呼ぶ。三池炭山における炭層露頭線は、稲荷山を最西端にして高取山の北側を走り、更に高取山の山腹を巡るように南に向きを変えて、三池街道の西側を大牟田市と荒尾市の境界あたりまで連続している。当時の里人は当然ここから採取したであろう。ただし露頭線は山腹を走っているので、採炭のためには、少し山に登ることも必要になっただろう。

炭層露頭線
図2-1 炭層露頭線の位置
大牟田市史上巻挿入の
「大牟田地方地質図」を基に作成

炭層露頭の所在
図2-2 確認しやすい炭層露頭の所在

 炭層露頭線は基本的に山中を走っているが、場所によっては石炭層の露頭を道路際から見ることができる。いずれも30cm程度の厚さであるが、現地に行けば黒い筋が水平に走っているのを確認できる。
 そのうち高取団地東側にある炭層露頭は、「大牟田の宝もの100選」に「米の山のアパッチ砦」として紹介されている15)。(mapfan地図


写真2-1 炭層露頭(高取団地東)

 地図(図2-2)上で南井空第2堤の西側に位置する炭層露頭の前には、大牟田市教育委員会の設置した「稲荷層」の説明板が立つ。稲荷(とうか)層は、古第三紀始新世16)に堆積した地層の一つで、100m程度の厚さがあり、その中に石炭層を多く含む。
柱状図
図2-3 柱状図
「大牟田市史上巻」p.57の図に基づいて作成
稲荷層

 稲荷層は高取山から稲荷山の山陵北麓一帯に露出し特に高取山北麓龍湖瀬に模式的に地層が見られます。
 三池炭田の主要夾炭層をふくみ中粒〜粗粒の灰白色砂岩の厚層からなっている単調な地層で最上部の三池本層、盤下層とよばれている炭層付近の炭頁岩があり、その下の炭層又は炭質頁岩前後にも薄い頁岩層があります。
 炭層は五、四、三番の薄岩層又は炭質頁岩の上位に盤下層(二番層)と三池本層(一番層)があり現在採掘されています。
 炭層の間に海成の地層を含むが貝化石の産出は少なく、生痕・硅化木等があります。
 ここでは炭層、地層、断層等の地学現象が模式的に観察されます。
      平成五年三月 大牟田市教育委員会 

説明図
図2-4 説明板の説明文と図


写真2-2 炭層露頭(稲荷層説明板前)

 この他、炭層露頭線の南端近く、大字櫟野にある焼石山公園およびその周辺でも炭層露頭が確認できる17)

(2) 石炭の生成


 これら炭層露頭の厚さはいずれも30cm程度に過ぎないが、一説にはそれだけの炭層を形成するにも6〜9mに及ぶ厚さの植物堆積が必要であったという18)。三池の石炭の多くは今から5,300万年前から3,400万年前にかけての、第三紀始新世に繁茂した植物が変成したものである19)。それが水中でゆっくりと泥炭化し20)、その後に地殻変動の結果埋没した後に21)地中の地圧と地熱によって褐炭を経て石炭化した22)とされている。

前へTopに戻る次へ


Copyright (c)2004 中の人 All rights reserved.