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故郷に寄せる熱きメッセージ その3 |
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●昨年の11月に偶然、鹿児島本線の特急車内で、関島秀樹さんとお話する機会がありまして、
以来メールを交換しています。前川さんが、お父さんのことを知りたいと思っておられることを、その関島さんからお聞きし、私で
何かお役に立つことがあればと思いまして、突然ですが、お便りしています。私も昭和23年から「大谷社宅」に住んでいました。
昭和49年からは、緑ケ丘社宅の「山吹町」(現在は「有明成田山」の近くです)に平成元年まで住んでいました。 |
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●関島秀樹さんのホームページの検索中にこちらを知りました。 |
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●私の家は桂町社宅の95棟でした。楓町の床屋の後ろにあった広場を隔てたところにありました。
炭塵爆発事故のときは社宅の家の前の道路を夜遅くまで車が行ったり来たり、忙しく走っていました。 |
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●荒尾にいた当時の奥底に眠っている記憶の糸を探っていた一日のような気がします。 |
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●「異風者からの通信」のことを7月25日付の有明新報で知りました。有明新報は郵送に
て購読してます。 |
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●荒尾のそれも緑ヶ丘の写真なつかしく拝見しました。私も(昭和26年生)で小学校3年 〜6年の間社宅(小鳩町)に住んでいました。社宅の仲間たちと野原で遊んだこと、ケンダマを競ったこと(ケンダマは今でもできま す)、共同浴場のこといろいろ思い出してきます。荒尾には高校生の時までいて、いま下関に在住しています。どうもなつかしい写真 ありがとうございました。(山口県 男性) |
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●福岡に住む32才の者です。大牟田育ちです。なにげなく大牟田を検索したらこちらのページ
にいきつき仕事も忘れてくいいるように見させて頂きました。 |
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●昭和23年生まれの54才。荒尾梨が食べたくなり、HPページ検索中三池争議を見つけ、懐
かしくなり、写真とメールを見ていると、今はゴルフ場になっている、大谷社宅西21棟が写真に写っている。一瞬ポント6才から18才
頃の想いが、悪がき、駄菓子屋のおじさん、おばさん、魚屋、野菜屋、風呂屋、池黒、ヒョウタン池、床屋で10円散髪代終わった後に、
細長い風船もらった、自転車の荷台に乗せてアイスキャンデ屋、あの坂道、あの崖、荒尾第4小、荒尾第5中、ホント切りがないほど、
湧いてきます。今も、ゴルフ場にポツンと一本の樹木が立っています。 |
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●私は、熊本県荒尾市で生まれ、西原社宅に6歳頃まで住んでおりました。 |
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●「にぃちゃ〜〜ん ちゃんと顔洗ったとね?」
そう言っていっつも すすくれていた兄も 人生半ばにして病により亡くなってしまいました。四山坑の写真を拝見したとたん。
涙が溢れてきました。忘れかけていた兄の すすくれた大好きな顔を思い出させて頂いてありがとうございました。また覗かせて
頂きます。 |
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●覚えたてのパソコンで故郷情報を何気なく探していたらこの欄がありました。私は、鶯町 と大島社宅に住み、緑ヶ丘小、二中の出身です。今も社宅での生活が懐かしい1人です。若葉町にもたくさん友達がいました。しかし、 社宅がなくなってみんなが散り散り。クラス会も開けません。このサイトに故郷の香りがしました。(2003年1月13日 千葉県 男性) |
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●当方、産業医大を卒後、産業医学という事業主に組する事もなく、労働者の幸福追求権を
見限る事のない公平無私の立場にある学問を追及している者です。 |
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●私はまったく炭鉱とは関連なく育ち、現在静岡県にいる20歳の大学生です。大学の講義の 中での参考として、このHPを見つけました。その講義の教授の父親も炭鉱で働いていたようで、とても熱い講義でした。自分は工学に ついて学んでいて、石油へのエネルギー転換や外国炭の輸入増加は必然的であると今まで認識していたのですが、そこには必然的と片 付けてはいけない深いものがあることを初めて知りました。歴史の背景を教えてくれたこのホームページと講義に感謝です。 (2003年2月19日 静岡県 大学生) |
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●私は、宮内社宅で少年時代を過ごしました。去年久しぶりで(何十年)行ってみてびっくりしました。 100軒くらいの社宅があったのが、ゴルフ場と荒地になっていました。たくさんの人たちが生活していたはずの場所で、私や友人たちが 遊んだ場所でしたが。時間がたつということはこういうことなのかと改めて思いました。 (2003年3月5日 埼玉県上尾市 男性) |
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●どうも、はじめまして、うっちゃんです。 |
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●初めてお便り申しあげます。私は現在、岐阜市に在住しております。 |
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●私は山吹町の社宅で生まれ育ち、高校卒業まで住んでいました。現在福岡県の北九州に住んでおりま
す。 |
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●私は小学5年まで北海道空知郡上砂川町の社宅に住んでいました。三井鉱山上砂川鉱業所
です。そこでの思い出、郷愁・・・前川さんの荒尾に対する思いに負けません。 |
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●はじめまして。地球の裏側からです。 |
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●前川さんのお陰で、ホームページ「異風者からの通信」の中でも母と逢えてとても幸せです。 |
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●このHPを懐かしく拝見しました。 |
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●お盆にヤフー検索であなたの『異風者からの通信』HPの存在を知り、たいへんなご
努力に感激しました。同時に深く感謝申し上げます。今後とも更新情報を楽しみにしております。どうぞ頑張って下さい。 |
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●仕事の合間に、故郷の大牟田市を検索したところ、このサイトに出会いました。 |
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●私は荒尾市大島町で生まれで、四山鉱正門の近くに小3年までいました。本家はまだあり
ます。 |
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●私は荒尾出身で今は神奈川の大学に通っている者です。 |
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●この度は本町のホームページで「にあんちゃんの里」をご覧いただきありがとうございました。 |
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●はじめまして。一昨年の年末でしたか、「大牟田」にうかがいました。三井三池のことは、行って
いる間中頭を離れることはありませんでしたが、結局はその痕跡にさえ触れることなく帰ってきました。何故大牟田に行ったかと
いえば、マイレージが貯まったので、当時4歳の愚息を「ウルトラマンランド」へ連れていったからです。宿泊はホテルヴェルデ
でしたが、三井グリーンランドのあたりに炭鉱住宅があったということはこのホームページで知っていました。ホテルの運営が三井
鉱山であることはわかっていたのですが、やはり妙な感じでした。子供は「ウルトラマン」の世界を満喫して大満足のようでしたが…。 |
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●僕は、昭和24年生まれですが、佐賀県伊万里市立川町という小さな炭鉱町で中学1年
までを過ごしました。 |
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●1956年から1971年まで四山社宅3区の143棟で過ごしました。 |
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●私は楓町出身で、父は32名のひとりです。11.9の昨日、いろんなネットを探し、すばら
しいHPに出会えました。懐かしい画像にも沢山目にすることができました。パソコンなどの機能を知らない両親にも是非見せてあげ
たいと思っています。11/14は荒尾シティーモールで、父たちが集会を開くらしいです。盛会であればいいのですが・・・。私の父も
事ある毎に、「三池のことは語るな」と私に言っていました。前川さんの荒尾を離れる際のくだり、父の思いがよぎりました。 |
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●異風者からの通信は懐かしく見せていただいています。私も大牟田の出身で22歳まで 野添社宅にいました。掲載されている写真の社宅のお風呂のすぐ近くで両親が厚生理容所を営み姉兄と共に理容師をしていました。 今も姉や兄弟が大牟田に住んでいますので時々帰ります。炭鉱が閉山されてからの変わりゆく様を毎年見て来ましたが前川さんほ どの思いや情熱もなく、ただただ、ぺんぺん草が屋根に生え竹や木が屋根を突き破り朽ち果てていく社宅を毎年見てきました。実 家は最後まで社宅に残っていましたが、全部取り壊しと決まって野添社宅の端っこに店を移して今も営業しています。初めてのお 便りで長々と書いて済みませんでした。(2005年1月9日 大阪府 女性) |
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●父は電電公社時代の若き日、三池闘争支援に加わり、その憶い出を今も時折、熱っぽく
語り聴かせてくれます。蔭ながら、エールおくりつづけます。 |
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●「港倶楽部で披露宴をおこないました、なくなるのは非常に残念です。活動よろしくお願い致します。」(荒尾市) 「大牟田に来て4年ですが炭鉱施設などあちこち巡っています。家の前は炭住の空き地です・・・。港倶楽部は大牟田の歴史です。 ぜひ保存を」(大牟田市)
「三池闘争は、オルグで参加した電電公社時代の父の誇りでもありました。署名させてもらいます」 「港倶楽部保存署名活動ご協力お願いのページ拝見いたしました。思い出のある歴史遺産が年々閉鎖されなくなっていくこと はさびしいことです。署名、有効にご利用ください。」(兵庫県) 私の妻は田川出身で、廃坑となり大阪へ一家で移り住みました。だから、「筑豊の子守歌」何度聞いてもジーンときます。 前川さん、がんばってください。夫婦で署名いたします。(兵庫県) 昨年3月、「荒木栄のふるさと探訪」で仲間とうかがいました。その時港倶楽部でカレーライス大盛りを頼みそうになり、皆に たしなめられました。存続署名小生の名前も記入代筆お願いします。(東京都) 三池炭鉱といえば「月が〜出た出た〜」で有名ですが、荒木栄の「三池の主婦の子守唄」でも有名です。三池の名をいつまでも 残したい思いで署名します。(秋田県) 「荒尾の実家で有明新報の記事を見て署名運動のことを知りました。大変でしょうが頑張って下さい。」(福岡市) 「私の会社の友達などに声をかけて署名をしてもらいましたのでFAXでお送りします。その中にはお父さんが先月の閉館まで港 倶楽部に勤務されていて、港倶楽部の再開を信じいまだ転職されていないそうです。大牟田市も財政事情が最悪という状況で、 なかなか厳しいものがあるかとは思いますが、私たちの声はきちんと届けたいと思っています。」(荒尾市) |
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●夏休みの宿題で、炭鉱のことを調べるようになったので、調べていたところ、
ここにたどり着きました。 |
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●はじめまして、○○新聞編集長の妹です。兄の記事を見るのが楽しみで インターネットを開き、異風者からの便りも知りました。去る10月22日の兄への弔辞は、「がんばろう」の労働歌が 好きだったと聞かされました。私は兄のような物知り博士ではないので投稿する材料もすべも知りませんが、父や兄 を想うとき、異風者からの便りを開きたいと思っています。(2005年11月8日 女性) |
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●職員組合と会社側のビラ。45年前にタイムスリップした感覚にとらわれました。 |
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●よく職員労組、会社のビラまでありましたね。反面教師としては、興味ある内容です。ある意味
「ひだるか」のテーマでもあります。盛んに経済生産性や企業の存続が出てきますから。(2006.1.11 大阪・N男)
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●私も大牟田の出身で現在は東京で小さな会社を経営しております。三池争議のころはまだ幼くあまり
記憶にありませんが、こうして当時のビラを読んでおりますと当時は大変な時代だったんだなと改めて感じております。労使はお
ろか組合同士までもがいがみあい、憎しみあい、考えられるありとあらゆる憎悪すべき日本語を使って攻撃している様は言葉では
表せないほど悲しい気持ちになりました。当時ジョン・レノンがいて「イマジン」でも流れていればなどどノウテンキなことを考
えられる時代に生きている自分に、社会に、国に感謝せずにはいられません。この世界で一番幸福な日本社会を次の子供たちにな
んとか伝えて行きたいと思います。(2006.2.2 東京)
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●福岡県在住です。三池の争議は学校現場での教員ストや校長着任拒否闘争にも影響を与えたと
すれば行き過ぎがあったのはたしかでは?暴力路線は支持を失います。社民党の凋落振りをみれば自明と思いますが、こちらの
お立場は旧労?それとも新労?
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●大阪の公立高校で社会の教員をしている者です。 |
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●私は昭和29年、大牟田の野添社宅で生まれました。現在、奈良県大和郡山市に 在住しています。2月21日付け日経新聞のドキュメンタリー映画「三池〜終わらない炭鉱の物語」の記事を見てパソコンで いろいろ調べている間にこのような会があるのを発見しました。私にしたら大発見という感じです、掲示版を読んでいると 子供のころの思いでが一度に込みあげてきて懐かしい思いでいっぱいになりました。昨日までは遠いはずだった故郷が急に 身近に感じる事が出来たような気分です。(2006年2月22日 奈良・男性) |
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●はじめまして、私も定年を迎え、故郷荒尾のことが忘れられない一人です。皆さん
の投稿を読ませていただき熱いきもちになっています。 |
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●私は、大阪在住の62歳の男性です。昭和38年三池工業を卒業するまで荒尾市の西原
社宅に住んでいました。卒業後上阪、そのまま大阪に居続けて現在に至っています。 |
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●大牟田小浜町の電化社宅で生まれ、本町、新地町で育ちました。43年三池工業高校を卒業して、
現在は建設業に携わっております。子供2人も独立して、現在は大阪の堺に妻と仲良く暮らしています。大牟田は2年ごと位に
帰郷しています。大牟田には身内は誰もいませんが、帰る度にひっそりしている町並みを過ぎ去った昔を懐かしみながら、散策
しています。一度、大蛇山祭りを見たいと思っていますが、なかなか時期が合いません。幼いころ、山車を曳いた時もらった、
白いミルクアイスキャンデーの味が忘れられません。荒尾にもよく行きました。荒尾海岸、三井グリーンランド、赤田公園、四ツ
山神社、こくんぞ祭りの花火、夜店、県境のスーパー。青春の苦い、楽しい、模索の思い出ばかりです。(2006.6.18 大阪・男性)
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●熊日新聞に載っていらしゃるのを見つけたときに、昔からの友人がそこにいるようで、
とても嬉しくなりました。私はあまりメールもしませんし、書き込みもしません。でも、あの記事を見つけたときには本当に
嬉しくて「誰か、早く書き込みをしろよ」って思ってました。 |
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●先日熊本日日新聞を見て、手紙を書いています。 |
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●私は緑ヶ丘暁町53棟の社宅に住んでいました。緑が丘小学校、三中、昭和40年三池工
業高校を昭和40年卒業後、東京に勤務。今年3月で定年退職し、現在茨城県に住んでおります。 |
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● 本日付け有明新報で知りました。 |
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● 自分自身も大牟田で生まれ、育ち、今は中学校の国語の教師をして
おります。大牟田の炭鉱の歴史には大変興味を持っており、前川さんのホームページも時々拝見して勉強させていた
だいたところです。 |
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● 私は県外へ嫁ぎ、いま実家に帰っていますが、本日付け有明新報で「異風者
からの通信」のことを知りました。 |
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● 「異風者からの通信」、地元の新聞「有明新報」を見て知りました。 |
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● 夫は三池炭鉱で経理の仕事をしていましたが、私が36歳のとき、子供二人
を残して41歳で亡くなりました。胃がんでした。 |
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● 異風者からの通信第2号、ありがとうございました。
「はじめに」で書いてありますように、「異風者でよか!」を貫いて下さい。支持します。 |
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●はじめまして。父、そして親戚の伯父たちも三池炭鉱に勤めておりました。 |
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● 荒尾第五中学校は平成20年3月31日をもって閉校する。 |
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●はじめまして! |
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● 生まれも育ちも福岡です。実は私の父親は福岡県警の警察官で三池争議に出動していました。
三池争議の件で父親から聞いたエピソードがあります。 当時の警察も労働者も軍隊経験者が多く、組合側も軍隊式の編成をしていた
らしいです。そんな中、父の上司が「○○君、向こうで指揮をしているリーダーだけど、あれ○○戦線の戦友に似ているんだよ。
ちょっと調べてくれんか」と言われたそうです。内偵の結果、やはり戦友だったとのこと、お互いに生死を共にした戦友であったため、
その地区の警察と労働者の無用な衝突はなかったらしいです。嘘みたいな話ですね、その話を感慨深げに語っていた父も10年ほど前に
他界し、本当かどうかは確かめようもありませんでした。 |
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●貴殿のホームページを偶然に見つけ、拝見させて戴き懐かしくなりメールしました。
私は高校卒業後、三井塩業大牟田工業所鰍ノ勤めていましたが、親会社の炭鉱が小会社を潰すとの噂で塩業を辞めて東京に出てきて
現在にいたっております。私が住んでいた緑ヶ丘弥生町の社宅は、お隣が市役所の出張所で、前は長屋のマーケット(後に保育園が
できる)で、近くには山の神様、炭電の平井の終点でした。炭電は昔は蒸気機関車でした。父は機関車、炭電の機関士でしたので
運転席に乗せてもらた思い出があります。緑ヶ丘小学校でのウサギ狩や、炭鉱争議、爆発等など思い出は尽きません。たまに、帰省
しますが、昔の思い出の跡がなくなり寂しくなります。今後も、末永くホームページが見れますように、ますますのご発展を祈念い
たしております。 |
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●はじめてメールいたします。出身地は大牟田で、現在は柳川に住んでいます。
さきほど、港監督の映画「荒木栄の歌が聞こえる」を観てまいりました。そのなかで、前川さんのことを知りました。 |
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●昭和20年12月、終戦で朝鮮から引き揚げて来て、その翌年の1月、父が42歳にして
初めて会社員という名のもとに就職したのが四山坑でした。次男を亡くして涙も乾かぬ数日後の入社でした。間もなく一家は
荒尾の宮内社宅に入居しました。私は当時小学5年生でした。父は昭和28年の合理化でクビになりました。今まで仕事らしい仕事
などしたことのない、のろまな父には当然の処置だったと思いますが、いささか腹が立ちました。 |
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●父は92歳で亡くなりましたが、昭和38年の三川鉱大爆発で被災。2日目に四ツ山鉱から 自力で脱出しました。しかし、仲間を救出するため再び入坑。結果、CO患者として、めまい等の脱力感に苦しめられた毎日 でした。社宅は野添社宅。私は米生中学校で爆発音をきき、皆で窓から外をのぞくと黒煙が上がっているのが見えました。 熊日の新聞みました。写真冊子送ってください。(2008年12月18日 熊本市 女性) |
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●父は万田鉱に勤務。私がまだ6歳のときの昭和22年、けい肺のため37歳で亡くなりました。
荒尾の緑ヶ丘社宅桂町にいた義理の叔父は三川鉱大爆発で被災し、CO患者でした。熊日の新聞みました。写真冊子送ってください。
(2008.12.18 熊本市 女性)
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●父は2003年頃86歳で亡くなりました。昭和38年の三川鉱大爆発で被災。掘進工
だった父は四山鉱から脱出しましたが、CO患者となってしまいました(32名の原告団の1人として裁判で三井と
闘い、子供たちも証人としてCO患者家族の惨状を裁判で訴えた。中には泣きながら訴える子も多くいた)。あなたの
お姉さんと緑ヶ丘小学校の同窓です。社宅は桂町でした。熊日の新聞みました。写真冊子送ってください。
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●私は三井三池鉱業所の本所勤務でした。坑外の電気工として、社宅の電気配線
などの仕事をしていました。組合は三池労組だったため、1200名解雇の中の1人でした。そのとき29歳でした。
社宅は緑ヶ丘社宅楓町。三川鉱大爆発では同級生が31歳で亡くなっています。妻は天領病院の外科看護婦でしたから、
目のあたりで爆発の悲惨な状況を見てきました。写真冊子送ってください。妻と二人で見たいと思います。
(2008年12月18日 荒尾市 男性)
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●父は三川鉱の採炭夫として51歳の頃大爆発の被害に遭いました。その1年ほど
前にも坑内火災事故があり、その時の教訓から、濡れたタオルを口に当てて自力で脱出しましたが、CO患者として、
その後性格は一変し「ナヨナヨ」しながらの通院暮らしでした。そして爆発から16年後の67歳のとき、肝硬変で亡くな
りました。写真冊子送ってください。
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●私の父親は新港社宅にあったマーケットで薬局を営んでいました。私が右京中学校1年生の
時、爆発音で校舎が揺れ、一斉に窓から外をのぞいたら黒煙が立ち上っていました。そのとき祖父も新港社宅近くを
自転車で走っていたら、三川鉱の方から材木などが自分の方へ飛んできて、恐ろしかったと言っておりました。5人程の
同級生の父親も爆発で死にました。私にも写真冊子送ってください。 |
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●熊日の新聞を見ました。私は炭鉱とは関係ありませんが、天草にもかつていくつかの 炭鉱があり、けい肺で亡くなった同級生もいました。昔、天草郡の駅伝監督をしていたことがあり、荒尾へは行ったこと があります。そういうことから、三池炭鉱の大爆発の時は、仲間に惨状を訴えてカンパ金を集め送ったこともありました。 写真冊子送ってください。わが子供にも炭鉱の歴史を伝え、家族で話し合って行きたいと考えています。 (2008年12月18日 天草市 男性) |