昭和56年4月1日、よりによってエイプリフールの日、62歳で母は交通 事故死した。あっけない死に方だった。昭和50年10月7日
焼き場でのお骨拾いの時、カランとした母の遺骨を見て、ガク然とした。こ れが人間というものの末路であるのか。この乾燥した白いモノのかけらが人間 の成れの果てであるのか。悲しみよりも先に、人間の存在価値、生きているこ とのばかばかしさを感じずにはいられなかった。何のために生きてきたのか。 これまでの全てが否定され無駄であったような気がしてならなかった。そして、 そういう”無”というものに対して腹が立ってしようがなかった。
悲しみは日が経つにつれ薄れるどころか日毎に重くなっていく。テレビを見 ていても、町を歩いていても、突然思い出と結びついて戸惑うことがある。
やるせなくどうしようもなくなった時、私は母からの手紙を読み返す。
印鑑だけで中身なにも記してないと無愛想なので一筆記します。 俊行、早めに寮に着きましたか。バス停で忘れた印鑑を取りに戻る時、私の言う ことよく聞かずに走るから見つからないのです。ハンドバックだけ聞いて、ハン ドバックがある所を聞かなかったのだね。洋服ダンスにあるよと言ったのに。こ れから先も何事も人の言っていること最後までよく聞いていないと失敗しますよ。 では元気で。先ずは用件のみ。昭和51年2月3日
いま夜9時10分前。ようやく食事の後片づけが終わり、洗濯物を干してしま い、やっと俊行への手紙を書く気になりました。今晩は少し暖かい。また雨にな るのかなあ。夕べは電話をありがとう。元気を出してがんばってください。俊行 の夕べの声は元気がありました。夕べの意気込み忘れるな。母の言うこと忘れな いでください。昭和51年7月30日
久しぶりの雨で夕方から涼しく夜寝るのも楽になりました。俊行、ふみ子さん の料理、作った物なんでも食べなさいよ。人によって作り方も味付けも違います。 女はね、真心込めて作ったのに食べてくれないことほどつらいことはありません。 なんでも黙って食べるものです。うちのおばあさんはよく言っていました。おと うさんに、「辰雄、男は食べる物には文句言わずに黙って食べろ」とね。そのお とうさんが死ぬまで言っていたことがひとつあったね。おばあさんが作ってくれ たぷーんとみそ汁のおいしい香りのするあのみそ汁が食べたいと。おばあさんの おいしいみそ汁のマネはとうとう出来ませんでしたがね。でも、おとうさんは私 のまずいみそ汁でも最後まで食べてくれました。昭和52年3月30日
過日は参りましていろいろごちそうになり、また帰りには結構なお土産まで頂 戴いたしましてありがとう。大好物の巻きずしありがとうね。夫婦というものは 病気したりするとお互いが頼りです。俊行が病気するとふみ子さんを頼るでしょ。 それが夫婦なのだから、ふみ子さんはお前が一番の頼りなのだよ。やさしくいた わってあげてください。男は外でたまにはイヤなこともあるでしょう。しかしそ んな時は決して不快を家の中であらわすことなく、朝はにこやかに仕事へと出掛 けるように。死んだお父さんはそれを守っていました。気のつきしだい手紙に書 いていますが、悪く思わず、私の言うことはひとつひとつ親の遺言と思って聞い て守ってください。ふみ子さんにやさしくしてあげなさい。人は死ぬまで勉強で す。つまらぬことと思うかも知れんが頭に止めておいてください。きょうは心配 だったので速達で書いた。昭和52年4月4日
今朝早く目が覚めてフト心に思い出したことを申し述べます。世の中、人間と して生まれ生きてゆく上に必要な事柄でありますから、また始まったと思わずに よく聞いてください。義理という言葉です。世の中、また家庭にあっても。みん な義理の立て合いで丸く収まっているのを忘れるな。義理をわきまえず、みんな が言いたい放題言うていると争いの絶え間がありません。家庭もまた他人の集ま りなのです。勉強って学問・技術ばかりが勉強ではなく、人間として一番大切な 勉強は心の勉強です。「気は長く心は丸く腹立てず」という格言がありますが、 私が小学5年生の時習って覚えている言葉です。人間死ぬまでこの勉強は大切で す。私もまだまだ勉強中です。昭和52年8月12日
この4,5日、朝夕涼しく暮らしよいので助かります。今度手術をすることに しました。ふみ子さんの身体の調子がよろしかったら、18、19日の二日間付 き添えお願いしたいと思っておりますが如何でしょうか。よろしかったらお願い します。二人ともけがをしないようお盆には帰ってきてください。昭和53年7月24日
先日は可愛いめぐみちゃんの写真ありがとう。私も風邪はすっかりよくなりま した。彦根から福井県ではちょっと遠くなりましたので、名古屋までひとっ走り というわけには参りませんね。でも用事の時はいつでも行きますから。新しい住 まいから鯖江駅まで歩いて10分です。暇なので昨日わざわざ駅まで歩いて時間 を計ってみました。政則の会社までは歩いて40分程でした。おかげで腕が真っ 赤に焼けました。よう歩いたなあと自分ながらあきれました。ふみちゃん、病気 したら頼みますよ。お盆には来て下さい。待っています。昭和55年1月7日
元気で働いていますか。私も3日から仕事に行っています。今年は雪も少なく、 よいお正月でした。正月はコタツの中でテレビの番でした。めぐみちゃんもずい ぶん大きくなっていてびっくりしました。親子共々気を付けてお暮らしください ね。同封の葉書に部長さんの住所・氏名を書いて送って下さい。遅まきながら年 賀状を出しておきたいのです。昭和55年1月20日
寒いですね。きょう仕事から帰ってみたら、たくさんのめぐみちゃんかわいら しい写真が届いていました。大きくなってよその子供さんかなあと思いました。 俊行、学校へいくそうだが風邪ひかんよう注意してがんばって下さい。おみくじ など当てにせんよう、凶が出たからと言って気にせんでがんばれよ。何があって もふみ子さんと二人で相談し合ってやりなさい。あせってはいけない。コツコツ と、人生は長いのですから。私も身体に気を付けてがんばります。でも60歳を 過ぎるといつどんな病気で命無くすか知れんが、生きている限りは働きたいね。 もう62歳になりました。月日の経つのは早いから、一生を悔いなく暮らしたい と思います。昭和55年5月27日
元気でお暮らしですか。胃潰瘍の方、順調ですか。めぐみちゃんも変わりあり ませんか。誠ちゃんももう笑うでしょうね。これから暑くなりますから寝冷えな どに気を付けてあげてね。ふみ子さんも大変ですね。一昨日、子供らに服を送り ました。お盆にと思いましたが、それでは着る期間が短いので少し早いがお盆の 子供への贈り物です。私も毎日毎日まあまあ勤めておりますから安心して下さい。 寒かった北陸方面もこの2,3日蒸し暑いです。昭和56年1月29日
寒い冷たい毎日ですが、皆様お元気でお暮らしのことと存じます。きょうはめ ぐみちゃんや誠ちゃんの写真をたくさんありがとう。北陸地方もこのところ雪も 落ち着いてホッとしています。でも2月中頃までは安心はできません。早く3月 がくればと思っていますが、まだまだ1ヶ月余りありますね。兄ちゃんの植木鉢、 雪の下になっているので、雪が解けて鉢が出てきた時は見物だねと冗談言うと、 兄ちゃん、なるほどと笑っていました。寒いから病気せんよう気を付けてお暮ら しください。昭和56年3月10日
毎日毎日寒い日が続いていますが皆様お元気でお暮らしのことと存じます。 もうすぐ春も近づいていますがやはり3月いっぱいは寒いでしょうね。さて、誠 ちゃんのお誕生日ですね。3月14日でしたね。おめでとう。何もしてあげられ ないので洋服一枚安物だが送ります。また着せてあげてください。誠ちゃんだけ に送ると、めぐみちゃんにはと必ず言うと思って少し大きいかも知れませんがめ ぐみちゃんにも送ります。寒いから気を付けてお暮らし下さい。雪景色送ります。昭和56年4月28日わが娘めぐみに送ってくれた赤いワンピース。そしてこの手紙が最後となっ た。消印の日付の日から22日目の4月1日、母は交通事故死した。約10メ ートル宙を舞って即死であったという。
夕方、兄からこの訃報を知らされ、私は妻と幼子2人を連れて電車に飛び乗 った。電車の中で、あとからあとから涙があふれ出てしようがなかった。そん な私を回りの客がけげんそうな顔で見ていた。着いた時はもう暗くなっていた。
布団の上で母は寝ていた。ジッと見つめていると、「嘘や。お前らだまされ たなあ」と笑いながら母が布団から起きてくるような気がした。妻も同じこと を後から私にそう言った。しかしよく見ると、その母の手足がとんでもない方 向を向いているのがわかり、それは現実だった。幸い顔にはそれほどのダメー ジが無く、それだけを見ていると本当に眠っているようだった。 しばらくして、玄関の方から、「許して下さい!」という女性のヒステリッ クに泣きわめく声が聞こえてきた。
翌朝早く、私は近くの駅まで新聞を買い求めに行った。その地方新聞の3面 記事欄には大きな見出しで、母のことが、「老婦人が車に跳ねられ死亡」と記 されていた。以前にも同じ場所で男の人が交通事故死した、とも記されていた。 帰り道、その現場を通るとその隅に、真新しい花が飾られてあった。黄色い 花だった。そしてその交差点の隅に、よく見るとうどん玉や油揚げが散乱し、 折れたこうもり傘と靴が片方だけ落ちていた。わたしはその光景を見たとたん 情けなくなり、私の目から急に涙がボロボロ落ちてきて、私はひとり散乱した うどんの玉や油揚げをかき集めていた。すると、その角の家から中年の女性が 出てきてけげんそうな顔で私を見ていたが、事情を察したのだろう、その人は 神妙な顔になり、「そうですか。気の毒でしたね」と言いながらこうもり傘等 を拾って手渡ししてくれた。そのように親切に声を掛けられるとよけいに涙が 止まらなかった。そしてもう片方の靴を探したが、その片方はどうしても見つ からなかった。
家に帰り、現場に飾られていた黄色い花のことを兄に聞くと、「それは知ら ん。俺はまだ花を飾っていない」という返事であった。 兄は当初、病院から母の事故を知らされた時、数日分の着替えを用意して行 ったそうだ。そしたらもうすでに亡くなっていることを知らされ、その場にへ なへなと座り込んでしまったと後から語ってくれた。
「雪景色送ります」ー最後となった母からの手紙に同封されていた写真の大 雪の景色は、もうほとんど街頭から消えかけていた。
前略昭和56年7月2日
取り返しの出来ない事に成り申し訳ありません。私が貴方様の「お母様」をと 思いますと胸が痛み、恐ろしく、ただただ平伏すばかりです。このような私のた めに示談のお許しをいただきまして本当にありがとうございます。厚く御礼申し 上げます。判決も終わり厳守しこれからも私なりに末永くお母様のご供養をさせ ていただきます。お願いいたします。書面では失礼かと思いますが、右御礼かた がた、寒さきびしいですが、どうぞお体を大切にして下さい。母を跳ねたのは当時32歳のまだ若い主婦だった。しかし私にはだいぶん老 いて見えた。後で聞いてみると、この人、母の出棺の時、参列者の後ろの方で、 霊柩車が見えなくなってからも土下座していたそうだ。それを見かねて参列者 の誰かが手を取って起こしたということであった。
拝啓
先般、私儀 妻が不注意はなはだしくも貴方様の御尊き母の生命を殺めました こと、たとえ身代わりとなってなんとお詫びいたしてもお許し願えるものではご ざいません。ましてや文書で罪深き私共をお許し下さいとお願いするのは失礼か と存じますが、ただただお許し下さい。お願いいたします。その折りには、貴方 様をはじめ御親類、御一同の方々誰一人としてこの憎き私共に毒舌や体罰を下さ れたお方はおられず、逆に貴方様方々より慰め励ましのお言葉をいただきました。 これにはなんとお礼申し上げてよいやらただただ感涙致すばかりでした。深く伏 して御礼申し上げます。お陰様で妻も今ではどうにか家事の方だけは手につくよ うになりました。これからは私、妻共々貴方様方々のお言葉を肝に銘じて一生御 佛の供養をさせて頂く所存でございます。幸いにも御子息が近くにおられるので、 これを御縁に補償金は別として微力では有りますが身辺など色々出来うる限りお 力添えになり末永くお近づき願いたいと思いますのでどうかよろしくお願いいた します。
合掌時が私の怒りを鎮めてくれたのか。それとも、いまさら恨みつらみ言っても死んだ母が生き返って くるわけでもない、というあきらめが私をそうさせてくれているのか。
私の思い出の中の母親は、静かにいつも働く母であり、三池争議の中の母ではなかった。しかし、 当時の写真を見ていると、よくみんなの真ん中に鉢巻きをして写っている母は、当時はそれなりの 闘士であったのだろうかとも思う。
そんな母もなんの因果か車に跳ねられて死んだ。そういうことを思うとやっぱりくやし涙が出て くる。母は私のふるさと、わが太陽だったのだから・・・
還相廻向(げんそうえこう)。たとえ死んでも、私たちを正しく導いてほしい。