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JR能登川駅近くに奥田製油所跡がある。現在は駐車場や倉庫等になり、奥田製油所の面影は
何もないが、同工場職工たちの社宅だったという長屋が今も残っている。 奥田製油所の歴史は古く、過去には朝鮮人職工らによる大規模な労働争議もあり、奥田製油所職工社宅は「朝鮮村」と呼ばれるほ どに朝鮮人を多く雇い入れていた。しかし、その歴史を知る史料は少なく、人々の記憶からも消え失せかけている。 ![]() 奥田製油所旧職工社宅(2012年8月17日撮影)
奥田製油所設立の経過が滋賀県教育会編「近江の先覚」(非売品、昭和26年3月25日頒布)の中で
製油工業の先覚 奥田平八(1855−1941)
と記録されていた。
しかし、大正12年の株式会社奥田製油所設立から3年後の1926(大正15)年、同所において労働争議
が起きる。そのときの様子が「滋賀県百科事典」(1984年7月10日大和書房発行)の中に、次のとおり記されてあった。
奥田製油所争議
この労働争議等に関しては、平成24年3月刊行された「東近江市史 能登川の歴史 第4巻」にも次のとおり記録されている。
「1926年9月26日、奥田製油工場社宅内で朝鮮人200余名が集まり、滋賀県朝鮮合同労働組合本部を創立」(東亜日報)
「1926年10月9日、奥田製油工場の朝鮮人職工150余名がストライキに突入」(東亜日報)
「1926年10月12日、奥田製油工場の同胞職工850名のストライキが勝利した」(東亜日報)
「朝鮮村を導く 生きた内鮮融和」(昭和11年(1936)7月9日付大阪毎日新聞)
「朝鮮生れの児童 特別に教育する 五峰村の新考案」(昭和11年(1936)6月24日付大阪毎日新聞)
「能登川では暴れる」(1951(昭和26)年8月30日付滋賀新聞)
「1953(昭和28)年1月、能登川町朝鮮人学父兄会が能登川町教育委員会に対し、能登川中学校での朝鮮語教育用の教室提供を要求」
(能登川博物館所蔵能登川町役場文書)
「1954(昭和29)年12月18日、在日朝鮮統一民主戦線滋賀県能登川委員会が能登川町長に対し、朝鮮人の生活苦などを訴え善処を要求」
(能登川博物館所蔵能登川町役場文書)
奥田製油所旧職工社宅(2012年8月17日撮影)
奥田製油所旧職工社宅の一角に「在日本朝鮮人聡連合会滋賀県湖東支部能登川分会」の看板が
掲示されていたが、空き家になっている様子だった。同旧社宅には5軒ほど人が住んでいる様子が伺えたが、当時の奥田製油所
関係者ではないという。
なぜここに昔、「朝鮮村」と呼ばれた職工社宅が形成されたのか。1910(明治43)年8月29日に作り上げられた朝鮮併合により、
土地を奪われ、職を失った朝鮮民族の歴史を振りかえってみたい。
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