悲しみと怒りの中から 〜 坑底からの報告
三池炭鉱労組三川支部 沖労働部長
(昭和42年8月16日付け 三池労組機関紙「みいけ」より)
11月9日午後3時15分
組合事務所を出た途端、爆発が起こり、坑口から約500メートルも離れた組合支部事務所の窓ガラスが破壊されていた。
鉱長室へ行く途中、左側の鉱員浴場の窓ガラスが吹き飛ばされ、さらに鉱長室、繰り込み場、安全燈室、係員詰所などのガラ
スが地上いっぱいに散りばめられていた。見ると、大斜坑から石炭を送っている送炭場が燃えだし、坑口からは黒煙が吹き上
がっていた。
私は運搬工詰所に飛び込んだ。人間は炭じんで真っ黒くなり、炭じんが目に入って目も開けられず、ただ歯だけが白く見え
るだけ。そこで18人の負傷者を救出し、消火作業にあたった。「停電して坑内とは連絡がとれない」ということだった。
午後5時ころ
「ガスマスクをしないで坑内に入るのは危険だ」ということから、四山鉱から入坑しようと思い、四山鉱へオートバイで駆
けつけた。その時「すでに負傷者が四山鉱から昇りつつある」ということで、最初の負傷者を坑口で見かけた。その付添人に
状況を聞くと、450メートル坑道で相当の負傷者が出ているという。その時、「三川から入坑できそうだから帰ってこい」
という連絡を受け再び三川へ向かった。
午後6時ころ
2班に分かれた救護隊と一緒に第2斜坑を下りていった。途中、二目抜と四目抜のところで天井が崩落していた。さらに坑
底までに2,3箇所落盤していた。
坑底人車乗り場から150メートルの所に人車が止まり、水に洗い流されている人車の横には、うつむいて死んでいる人、
半分ボタに埋まっている人、パイプとパイプにはさまれた人、車輪に足を突っ込んでいる人、大の字になって死んでいる人、
実に無惨な4,50人位の死体があった。
午後8時前後
午後8時、握り飯を急いでほおばり、今度は宮浦支部の藤澤労働部長他1名を連れていよいよ350メートル坑道に入るこ
とになった。途中、救護隊隊長と出会い、「それより先に行くとマスクをかぶってないので危ないから入るな」と注意を受け
た。しかし、ひざまで水に浸かって強行突破した。水からあがって10メートル行った時、車道の真ん中に組合員の生首が座
っているのを発見した。そこで胴を炭車の横に探し出し、次ぎに枠ぎわに手があった。それらを取り揃えて、
さらに150メートル位前進した。
本線(350メートル水平坑道)に出ると同時に電車が止まっていた。運転手が車から降りて大の字になって死んでいた。
5歩位進むと保線工が死んでいた。さらに進むと、今度は右側に二人、左側に一人、計3名が死んでいた。その左側の1人が
私の隣組に住んでいる三池労組員だった。「ガスでやられたか。きつかったねえ。しばらく待っとってくれよね」と心の中で
話しかけた。ここで涙が出て仕方がなかった。ペンシルや時計などの遺品を探して、さらに奥へ進んだ。
そこで私はなんだろうと思って目を見張った。天井が明々とキャップランプの灯りで四方八方から照らされている。電車を
中心に前後50メートル位ズラリと並んでいる。9割位は粉じんの中に顔を埋めている。防じんマスクをはめている人、タオ
ルを口にあてている人、タオルを口から首に結ぼうとしている人、ありとあらゆる姿で、将棋倒しになっていた。
名前を控えようとしたが顔がよくわからない。そこでキャップランプの番号を控えたり、あらゆる所持品から名前や職番号
を探して記入した。
さらに宮浦鉱との連絡坑道まで切れ間なく転々と遺体があった。ちょうどその時救出隊に出会った。うれしかった。救出隊
も私たち三池労組の赤い腕章を見て安心したのだろう、お互いに励まし合った。
しかし、進めば進むほど、全く手のつけようがなく、それだけ早く救出しないと生きている人間も死んでしまうぞ、という
焦りが出てきた。見る人見る人、知った人ばかり。赤い腕章を付けた分会長や活動家などがバタバタ倒れて死んでいた。安否
を気づかっていた奥さんのご主人が鼻血を作業着いっぱいに流して死んでいた。私は涙を流しながらソッと血を拭いてやった。
なんとも言えなかった。
午後10時40分ころ
それから先に進んでいくと、今度は初めて動く人に行き会った。私にグッと抱きいたまま、最後の力を振り絞ったのか、そ
のままグッタリと倒れて息切れた。三池労組中央委員会副議長の高田さんが亡くなっていた。腰掛けに片腕ついてきれいな死
に方だった。
宮浦支部の組合書記をやっている人のお父さんが亡くなっていた。遺品として、帽子と闘争委員長の腕章と懐中時計とを揃
えた。その時計は、まだカチカチと時を刻んでいた。10時40分だった。
帰る時は炭函で遺体搬出が進んでいた。第二組合員の方がアワを吹き出していた。そしてこの人は坑口に着いたところで息
絶えてしまった。
坑口に出たのは翌10日の午前4時近くだった。すぐ対策本部に飛んでいって、組合長に状況の説明をした。午前7時半頃
本院に行って、犠牲者の納棺のため一日そこにいた。
救出作業にあたる人間が圧倒的に足りなかった。宮浦鉱では80人だけが救出作業にあたって、他の者は全員夜の11時ま
で炭を掘らされていた。「人間は消耗品だなあ・・・」と、その時つくづく思った。
会社の幹部が、災害状況を見ていたならば、団交であんなにふてぶてしい態度はとれないはずだ。仲間たちの死に様を一目
見せてやりたかった。あの状況を見れば、誰がどこで、どんな姿で亡くなっていたかということを、みんな頭に焼き付けられ
て一生忘れるものではない。組合葬の時、私は泣けて泣けてどうしようもなかった。
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