せめて五体そろった遺体をー 父ちゃんを待ち続けた3日間


故・池田さんの妻(小浜南社宅)の話から

(昭和38年11月16日付け 三池労組機関紙「みいけ」より)



9日の夕方、内職から何も知らずに帰ってきて、事故のことを初めて知りました。なにかハッと胸騒ぎ がして、三川支部まで一気に走り続けましたが、心だけがせいて、体が進みませんでした。
 支部で聞くと、夫が昇坑中にちょうど事故現場にいたことがわかり、眼の前が真っ暗になる気がしましたが、夜になって宮浦 や四山から、生き残った人たちが昇坑していると聞いて、もしや重傷を負ってでも上がってきてくるかもしれないと思って、支 部にジッとしていました。
 朝の3時、4時になっても消息が判らないので、もしかして病院の方に名前がわからないまま運ばれているかもしれないと思 って、明け方に行って、一人ひとり確かめてみましたが、ダメでした。その夜は病院の土間ですごし、次の日は死体が安置して ある体育館にも行ってみました。お棺を一つひとつ見ても、みんな違います。
 胴から下しかない遺体が一つありましたが、足をさすってみると、うちの父ちゃんよりちょっと毛が薄いので、これも違いま した。体育館の隅にビニール袋に入ったクジラの肉のような、ひとかたまりの肉になった遺体がありましたが、私も父ちゃんか どうか見分けがつきません。
 次々に運ばれてくる遺体がみな違うので、もしやあのクジラの肉みたいなのを、「これが父ちゃんよ」と子供たちの前に持っ て帰らねばならないのかと思うと、悲しくて悲しくて仕方がありません。しかし最後までがんばろうと、体育館に座り続けてい ました。
 その日のうちに、また病院に引き返して名簿を調べ、病院の係の人に聞いてみましたが、係の人は「きょうは打ち切りです」 「体育館で確認してきたのですか?」などと言って、少しもかまってくれません。
 私もとうとう怒って、「あんたたちは遺族の気持がわかっていますか」と言って、けんかをしました。そばにいた執行部の人 が「会社がどんなことを言っても三池労組は必ず最後の一人まで救出を続けますから」と言ってくれたので、私もやっと気がお さまりました。
 家に帰りたくもないし、その日もふた晩一睡もしないで病院で待ち続けたのですが、叔父さんから「あんたの気持ちはわかる けど、魂だけがいつ家に帰ってくるかも知れん。政雄のたましいが帰っても、家が真っ暗ではかわいそうだ」と言われて、やっ と家に帰る気になって、3日ぶりに帰りました。
 家をきれいに掃除してお灯明をあげている頃、「体育館に来て下さい」と知らせがありました。自動車で体育館に行く途中も、 またお棺のフタを開けるときも、あの肉のかたまりではないか、どうか満足に五体そろって上がってきてくれと、本当に祈りま した。
 フタを開けると、きれいな体で、手も足もそろっていました。二日三晩水につかっていたそうです。「父ちゃん、冷たかった ろうね」と言って、父ちゃんと握手しました。
 父ちゃんの遺体は広沢さん(前大牟田市議)の遺体といっしょに上がってきました。広沢さんといっしょですから、きっとと うちゃんも最後の最後まで、三池労組員として行動してくれたと思います。遺体も満足に上がってくれたので、これで子供たち にも兄弟たちにも顔が合わされるので、それだけがうれしいことです。
 火葬に出すとき、父ちゃんがいつも冗談で言っていたように、好きなパチンコの玉を持たせてやりたいと言ったら、地域の人 が、わざわざ父ちゃん行きつけのパチンコ屋で玉を一個もらってきてくれたので、それを握らせて火葬に出しました。
 私も今度も、会社の冷たさと三池労組の人たちのほんとうに温かい思いやりをしみじみ感じました。もう父ちゃんは死んだの で、死んだ人のことをいろいろ言ってもしかたがありませんが、生き残った三池労組員を、もうこれ以上悲惨な目に遭わせない ように、この事故の真相を全国の津々浦々の労働者に知らせて下さい。
 それから保安については、第一も第二もありません。保安の点検だけは十二分にやって下さい。父ちゃんをはじめ多くの人が 死にましたが、あまりに無残な悲しい死にかたです。本当に会社に怒りを感じます。

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