三川坑炭塵大爆発 体験記三池炭鉱労組宮浦支部労働部長 藤沢孝雄 (昭和39年1月16日付け 三池労組機関紙「みいけ」より)
一瞬にして450名もの命が奪われ、300名の重軽傷者を出した1963年11月9日午後3時15分、
三川坑大爆発の惨事を思い起こすまま、ここに記録する。
11月9日土曜日午後、宮浦支部では執行委員会をもっていた。午後3時15分頃、突然異様なごう音と
共に周囲の窓ガラスが大きく揺れたことを覚えている。
三川支部に連絡する。しかし、電話に出た人の対応は「とにかく何もわかりません。大変なことになりました。私もすぐ行きま
すので切ります」というその応対から、これは異常な事故だと直感する。私は支部長と共に三川支部へ急行した。
途中、三川の諏訪橋付近はおびただしい人の波とそれを整理する警官でいっぱいだった。
坑口には組合長、支部長、労働部長等が来ていた。
まず、坑口付近を一巡して驚いた。60ポンドのレース枠はアメのように曲げられ、スレート瓦の破片は車道、炭函を埋め、ビ
ルディングの原動機室は廃墟と変わり、黒々と焼けたベルトコンベアーは無残に引きちぎられ、世界に誇る選炭場は蜂の巣のよう
に窓を奪われていた。 午後4時30分頃から市内消防団、救急車、報道陣の車などが続々と詰めかけていた。猛スピードで走り
去るサイレンが一層緊張を深めていた。
入口で係員らしい者から呼び止められたが、強引に綱をくぐって800米の第2斜坑底へと歩き出した。約500米も下ったろ
うか、下から担架で重傷者が上げられているのに逢う。それから約100米も下る。一瞬、私も立ち止まった。停電で真っ暗な坑
道を照らす安全灯の光が一人の残酷な仲間の遺体をとらえていた。濁流に押し流されながらせめて何かをつかみたかったのだろう。
鉄枠に両手をかけたまま苦しみもだえる格好で死んでいるのだ。「助けてくれ」と絶叫したであろうその口は、大きく開いていた。
そしてその近くに1人、2人、3、4、5人と重なり合って死んでいる。目を開き歯を食いしばって人車の車輪の下敷きになって
いる者、顔の半分を激流に押し流されてきた岩で砕かれている者、顔に坑木が刺さった者等・・。
それにしても救護隊はどうしているのだろう。ビショビショの坑道で生死の境をさまよう重傷者が毛布にくるまって救護隊が来
るのを待っている。約30人。せめて命あるこの仲間を一刻も早く坑外へと運び出すべき人が欲しい。一体会社は何をしているの
か。1人でも傷ついた仲間を担ごう。担架で13度の傾斜を約1000米担いで上がるのも楽ではなかったが、待ちわびるこの人
たちの家族のことを思うと勇気も出た。
坑外控室で組合長に坑底の惨状を報告した後、進まない食事を無理して食べ、再度の坑内調査を決心した。
今度はあれから約3時間経っていたので無残な遺体には真新しい毛布がかぶせてあった。小さな家ほどもある岩が落ちていた。
坑道一面、ススが約5センチも積もっていて、まるで大きな煙突の中を歩いているようだった。
私たち3人の安全灯のあかりは無気味な色をうつす。首だ。生首が一つある。眼を疑ったがやはり人間の首だ。瞬間我々は固唾
を飲んだ。近寄ってみると、黒く焼けただれた髪は逆立ち、眼は細く長く、きびしく見開いて何者かをにらんでいる。胴も足も手
もない。誰かは知らない。しかし、働く者の首だ。許せるモンか。こんな姿を知らない奥さんは今ごろ三川の坑口で帰らぬ夫を待
ち続けて気をもんでいるだろう。私なら2歳になる可愛い子供がいるのになあと思うと胸がこみあげて、恐ろしいより可愛そうで
ならなかった。と同時に、会社に対する憎しみと怒りがむらむらと沸くのをどうしようもない。涙が出た。
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