三池移住記念碑  福岡県大牟田市昭和町 延命公園内


 昭和36年4月9日午前10時、延命公園の丘で与論島出身者が集まって「三池移住記念碑」の盛大な除幕 式と祝賀式が行われた。
 与論島から九州本土に集団移住が行われたのは、明治31年に島全体を襲った台風で、島民が打ちのめされ、村は極貧のどん底に 落とし込まれたとき、村にいては再起できないと決心した島の人たちの中から、当時三井鉱山の石炭積み出しで栄えていた長崎県 口之津町に移住し、新生の第一歩を踏み出したことから始まる。当時は約300人だったが、その後43年に大牟田に三池港が開かれる とそこに移った。その後故郷から家族を呼び寄せ、知人を招くなどしてしだいに増え、今日の3000人になったものである。
 苦節50年、祖先がしめした不屈の開拓者魂を讃え、これからも力強く生き抜くことを誓った。 (昭和36年4月16日付け 三池炭鉱労組機関紙「みいけ」より抜粋)



昭和36年4月9日記念碑建立(2002年5月13日積氏撮影)

 與洲奥都城建立の由来

 與洲奥都城(おくつき)とは、与論島出身者とその子孫の御霊を祀る墓所のことである。
 明治31年の台風で苦境に陥った島を救う為、上野村長は三池炭鉱の人夫募集に応じ、翌32年長崎県口之津に集団移住した。 10年後、三池港の開港により、三池へ428名が第二の故郷づくりに再出発した。
 当時の同郷人の墓所は、延命公園の一角にあり劣悪な環境であった。祖先崇拝を尊ぶ島民精神からは忍び難く、先祖の御霊 を祀るにふさわしい墓所の建設が皆んなの願いであった。
 昭和22年、初代会長川畑里住のもと、物資の乏しい中、血と汗と誠の結集により、心の故郷であり、団結の象徴である與洲 奥都城が完成した。
 以来、半世紀を経て老朽化が進み、時代に合った納骨堂再建の願いが高まり、三池移住85周年記念事業として再建立したも のである。
 先達の偉業を称えると共に、子孫の更なる繁栄を祈り、ここに與洲奥都城建立の由来を記すものである。
   平成8年4月7日  大牟田荒尾地区与論会

「與洲奥都城」の碑と納骨堂。第二の故郷とした大牟田のその祭壇には石炭が供えられていた。
(2005年7月30日撮影)

(2002年7月26日撮影)

 春と秋の年2回、與洲奥都城会の人々がここに集まり、盛大な供養が行われている。 そこでは、次のような歌が哀愁を込めて歌われる。



明治32年ヌー にんがち(二月)に
  しまぬくらし(郷島の生活) 建てんとて
サーサ 大和に旅立つす
  しまんちゆぬ(島人)の あはり(哀れ)さよ

大和旅立ち(しけし) ただ(余程)の事あらぬ
  はるばると うみやまふり(海山越え)て なん(幾)百里
サーサ いちやしゆ(如何)なるしまばら(風土)か
  しゆる(就く)仕事 すわぬうぶさして(心配多くして)

上野 東のうおす(先輩)を 先頭に
  にせんちや(青年) みやらび(婦人) ぐひやく(五百)人
サーサ 必ずむどらん(帰らん)
  もうきぐんで(錦飾りて)きむ(胸)に誓い

永ぬ(き)わかり(別れ)を 長浜に 皆するて(集い)
  また いついちようて(元気で) みやーりんかし(会えるやら)
サーサ 別れぬ(の)さーじき(盃取交)す
  島ぬ(の)わかりー(別れ)

わかりぬ(別れの)汽笛ん(も) なぐりさやしく(名残り惜しく)ぷた(船)と島
  手拭 うちくい(頭布) 振り合いつ
サーサ かるいし(無事で)むとりよう(帰れよ)
  いちきやびらん(往って来ます) 神にいぬて(祈りつ)

みちぬ(途の)島々 ばいすぎて(過去りて) なじかしやや(懐かしく)
  七島灘の むり(荒波) ふり(無事)越えて
サーサ 初めて わたたる(踏んだ)
  大和島 口之津に

大和の(ぬ)島や(は) うとろしむん(驚嘆)とみじらしむん(物珍しく)
電気ぬ(の)ぴつちやい(光さえ) ぴゆーましーむん(不思議なり)
サーサ ことばん(言語も)わからん(通せず)
  島ぬ(の)すがた(服装)もばんちかしやぬ(恥かしく)・・・・

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