宮原坑跡

国指定重要有形文化財(平成10(1998)年指定)、国指定史跡(平成12(2000)年指定)
鋼鉄製の櫓が残る、囚人労働に支えられていた明治を代表する炭坑跡

1.概要

年代:明治31(1898)年〜昭和6(1931)年。明治時代の主力坑の一つ。

現存遺構
・第二竪坑関連施設(竪坑櫓、捲揚機室、デビーポンプ室一部外壁)
・戦後に建てられた、職員社宅一棟(白坑社宅

見学:見学自由。2015年7月以降、毎日午前10時から17時に一般公開がなされている(毎月最終月曜日休み)。

所在:大牟田市宮原町1-86-3(その1:南関インターからのルート、その2:大牟田駅からの経路

かつて宮原坑跡には駐車場がなかったが、2012年に大牟田市によって駐車場が建設された。敷地内は重文および史跡のためトイレの常置ができないため仮設トイレが設置されていたが,現在は仮設トイレ3個が設置されているほか2015年8月より駐車場スペースに常設トイレ(大牟田市民の寄付による)が設置された。


2.現在残されている遺構

2.1 第二竪坑関連施設


 宮原坑には第一竪坑と第二竪坑の二つの坑口があったが、すでに第一竪坑の関連施設は失われている。第二竪坑は主に人員昇降用で、排気、排水、揚炭の役割も兼ねていた。第二竪坑の竣工は明治34(1901)年11月。昭和6(1931)年5月1日の閉坑後も、排水用・管理用に利用されていた。

(1) 竪坑櫓

 鉄骨造。高さは約22m。明治30年以前に建てられた竪坑櫓は木造であり、宮原坑の第一竪坑櫓も木造であった。なお明治30年代に建てられた万田坑の櫓も、鉄骨造である*

 坑形は7.56×4.02m。竪坑の深さは148.8m。坑口は現在コンクリートで閉鎖されている。地上には昇降に用いられた鉄製ケージが、残されている。

※明治43(1910)年に竣工した三井田川鉱業所の第一竪坑櫓、第二竪坑櫓も鉄骨造である。第一竪坑櫓は田川市石炭資料館に、第二竪坑櫓は直方市石炭記念館に保存されている。また美唄市に保存されている、大正12(1923)年竣工の三菱美唄炭鉱立坑巻揚櫓も類似した構造である。

竪坑櫓

(2) 捲揚機室

 レンガ造。切妻平屋、一部地下階をもつ。レンガ積みはイギリス積。現状では屋根は波形スレートで葺かれ勾配も緩やかだが、本来は妻壁の形に合った勾配で屋根が架けられていた。

 窓はレンガ等によって塞がれた場所もあるが、本来は上部がアーチ状の縦長で、上下開閉式のガラス格子窓であった。

捲揚機室

 内部には捲揚機が2台設置されている。現在は電動式であるが、建設時は蒸気動力であった。 山田元樹氏(2002)によると、電動式に切り替わったのは昭和8(1933)年のことだという。

捲揚機

(3) デビーポンプ室一部外壁

 竪坑櫓の基礎に接した外壁の一部のみが残る。古い写真を見ると、櫓側が妻面となる瓦葺き切妻屋根であることが分かる。

 かつて、ここには坑内排水のために蒸気動力のデビーポンプが2台設置されていた。デビーポンプは明治26(1893)年に勝立坑にはじめて導入されていた。それまでの炭坑で使われていたポンプが、排水機械そのものを坑内に置く必要があったのに対して、デビーポンプは排水機械を地上に置いたまま使用できた。このため機械が湧水によって毀損される心配が無くなり、また蒸気を坑内深くまで送る必要が無くなることでエネルギー効率も高まり、同時に坑内環境も向上した。

 なお坑内排水の安全と効率性のために坑内では相互に疏水が連絡しており、宮浦坑での湧水もここで排水していた。


(4) 坑外運搬レールと炭函

 坑口から捲揚機室の北側まで、レールの一部が残されている。揚炭の機能も兼ねていたため、かつては石炭を運ぶ貨車(炭函)を動かすためのレールが坑口から選炭場まで延びていた。レールの幅は470mm(18.5in)である。

 なお坑内での運炭動力として、短距離の場合は馬匹を使用していた。高野(1908)によると、当時宮原坑では84頭の馬が使役されていたと言う。長距離の運搬には蒸気力のエンドレスロープや曳揚機を用いていた。

 ただし宮原坑で使われていた炭函は、もともと木製であった。なぜここに鉄製の炭函が残されているのかは不明。

炭函

2.2その他関連遺構


(1) 坑内排水の排水口

 かつての宮原坑の敷地西側に、坑内排水を排出していたと見られるトンネルがある。レンガ造であり開坑当初からのものと思われるが詳細不明。

3.宮原坑についての詳細

3.1 宮原坑開鑿の主目的は坑内湧水の排水であった

 万田坑、勝立坑、宮浦坑とともに明治後期から大正期の主力坑の一つである。出炭量は明治34(1901)年以降、年間20〜30万tを推移していた。この宮原坑が開鑿された大きな目的は、坑内の排水を担うことであった。

 宮原坑が開鑿される前、それまでの坑口からの採掘区域が拡大するにつれて、坑内の湧水は増加してきていた。そこで三井炭礦社の事務長であった團琢磨は明治27(1894)年6月に「三池礦山維持ノ件ニ付上申」を本部に提出し、宮原と万田を新たに開鑿することを訴えた。その中では宮原坑は既存の坑口の湧水対策のために、排水のための新たな坑口として期待され位置付けられていた。(『男たちの世紀』pp.41-42)

 この方針に基づいて、宮原坑は開鑿されることになる。まず、明治28(1895)年2月に排水と揚炭を兼ねた第一竪坑の開鑿工事が着工され、明治31(1898)年3月に坑外諸設備も含め竣工した。続いて翌年には、人員昇降を主とし排水採炭も兼ねた第二竪坑の開鑿が始められ、明治34(1901)年11月に竣工した。

 開鑿目的で排水が重視されていたため、第一竪坑、第二竪坑共に、デビーポンプが2台ずつ設置された。デビーポンプは三池炭坑では勝立坑に初めて導入された最新の排水ポンプで、地上に設置したまま使用できる点が特長である。エネルギー効率が高く、それまで使われていたスペシャルポンプに比べると、単位揚水量あたりの石炭消費量が1/5にまで削減されている(高野江(1908)p.216)。これによって七浦坑の排水難も解消されることになった。


3.2 宮原坑の設備

 坑内にはレールを敷き、炭函と呼ばれる貨車によって、竪坑の下まで石炭を運搬していた。坑内での運炭動力として、短距離の場合には馬匹を使用していた。明治40年頃の宮原坑では84頭の馬が使役されていたと言う。この馬匹による運炭は閉山の直前まで行われていた。これに対して、長距離の運搬には蒸気力のエンドレスロープや曳揚機が用いられていた。

 坑底に集められた石炭は捲揚機で引き上げられる。この捲揚機は、それまでの坑口で用いられていたものよりも強力なものが用いられていた。またそれまでは木造であった竪坑櫓も、第二坑では三池炭鉱では初めて鋼構造で建てられている。

 地上に引き上げられた石炭は、選炭作業を経て出荷される。操業開始の当初、明治31(1898)年3月より機械選炭が行われ、大きさによる篩分けと、手作業による選別が行われていた。

 これら各種機械の動力は蒸気力であったが、第一竪坑と第二竪坑の間にあった汽罐場に設置された21台のボイラーによってまかなわれていた。そして焚かれた煙りは2本のレンガ製の煙突から排出されていた。

 宮原坑からの出炭は、三池炭鉱専用鉄道で運ばれた。それまで横須浜から七浦まで引かれていた鉄道が、開坑にともない明治33(1900)年11月27日に宮原坑まで延長された。

 なお他の坑口では行われていた機械による排気は行われていない。第二竪坑が排気の役割を担っていたが、自然排気であった。宮原坑で強制排気を行わなかったのは、七浦坑に設置されていた蒸気動力の扇風機(ギュイバル式)が、宮原坑の排気も行っていたためである。


3.3 宮原坑の採掘は囚人労働が支えていた

 宮原坑が開坑し採炭現場を支えることになったのは、500m程の距離にあった三池集治監に収監されていた囚人たちであった。囚人労働は、宮原坑の閉坑直前の昭和5(1930)年の末まで続けられた。


3.4 老朽化した宮原坑は昭和初期に役割を終えた

 宮原坑が閉坑したのは昭和6(1931)年5月1日である。宮原坑と隣接していた七浦坑も同時に閉坑した。明治大正期の主力坑の一つであった勝立坑も昭和3(1928)年に、官営化後最初に開坑した大浦坑も大正15(1926)年に閉坑している。

 このように宮原坑を含めて立続けに複数の炭坑が閉坑したのは、昭和初期の金融恐慌・昭和恐慌といった不況に伴う、三池炭鉱の経営合理化の一環である。既に新規の坑口として宮浦大斜坑、四山坑が大正年間に開鑿されており、これらに比べると切羽までの距離が長くなっていた老朽坑は非効率となっていた。(前掲書 p.106)

 


宮原坑に関するデータ
 第一竪坑第二竪坑
役割揚炭、吸気、排水用主に人員昇降用*10。排気、排水、揚炭も兼ねる
開坑 明治28(1895)年2月、開削工事を開始
明治30(1897)年3月、深度141mで着炭。
明治31(1898)年3月21日、竣工
明治32(1899)年6月、開削を開始
明治34(1901)年11月、竣工
総工費 935,000円
閉坑昭和6(1931)年5月1日(七浦坑と同時)
坑深*1141.8m148.8m
坑形*27.56×4.02m7.56×4.02m
竪坑櫓木造(高さ約23m)鉄骨造(高さ約22m)
排気自然排気*3
排水デビーポンプ2台デビーポンプ2台
捲揚機*4蒸気捲揚機(534馬力)1台
ドラム 径 3.7m (12ft)、幅 1.5m (5ft)
複式シリンダ 径 0.61m (24in)、衝長 1.5m (5ft)
蒸気捲揚機(432馬力)1台
ドラム 径 2.4m(8ft)、幅 1.8m(6ft)
複式シリンダ 径0.56m (22in)、衝長 1.2m (4ft)
起重機*4蒸気起重機(50t・10t)1台
50tドラム 径 1.8m (6ft)、幅 2.4m (8ft)
10tドラム 径 1.2m (4ft)、幅 2.7m (9ft)
双筒シリンダ 径 0.28m (11in)、長 0.30m (12in)
蒸気起重機(25t)1台
ドラム 径 1.5m (4ft11.5in)、幅 1.5m (5ft)
単筒シリンダ 径 0.30m (12in)、長 0.46m (18in)
汽罐*5ランカシャー型21台
ボイラー 径 2.4m (8ft)、長 9.1m (30ft)
坑内運搬機蒸気力エンドレスロープ機(38馬力、758m(2500尺)、平均勾配1/20、3.2km/h(2.0mi/h))
蒸気力エンドレスロープ機(5馬力、706m(2000尺)、平均勾配1/100、3.2km/h(2.0mi/h))
蒸気力曳揚機(207馬力、909m(3000尺)、平均勾配1/10、6.4km/h(4.0mi/h))
鉱員数明治41(1908)年 1,225人*6
(採炭夫313人、運炭夫220人、支柱夫115人、運転手72人、火夫49人、器械職工40人、雑夫416人)
囚人出役人数 854人*7
採炭量*11明治31(1898)年 104,196t (102,546英t)*8
明治40(1907)年 258,188t 5(254,098英t)*8
大正年間(1913-1926)平均 215,528t(14年間累計 3,734,854t)*9
*1 本木(1939)による(p.379)。なお平島(1993)には第二竪坑の深さは約160mとある。 *2 平島(1993)による。 *3 強制排気は七浦第二竪坑の扇風機を共用。 *4 高野江(1908)による(p.207)。 *5 同掲書(p.208)。 *6 同掲書(p.209)。坑内のみの人数か。 *7 同掲書(p.227)。明治41(1908)年5月23日のもの。 *8 同掲書(pp.208-209) *9『大牟田市史』中巻(p.622) *10 高野江(1908)によると、人馬昇降用とある。(p.199) *11 『男たちの世紀』p.42には「年間四〇〜五〇万トンの出炭を維持した」とある。

参考文献
  • 高野江基太郎(1908)『日本炭坑誌』pp.194-229
  • 平島勇夫(1993)「三池炭鉱宮原坑跡」『福岡県の近代化遺産』pp.148-149
  • 本木栄(1939)「三池炭坑誌」『大牟田市史』pp.374-402
  • 山田元樹(2002)「宮原坑跡」『大牟田の宝物100選』pp.86-87
  • 三井鉱山株式会社(1990)『男たちの世紀−三井鉱山の百年』p.36, pp.41-42, p.106

戻る

Copyright (c)2004 中の人 All rights reserved.